2011年4月29日金曜日

23年4月29日(金)でもしか教師

・ 学校社会のことについてある程度の関心がある人なら「でもしか教師」「でもしか先生」と言う言葉があるのをご存知だろう。かって「教師枠」が激増した昭和30年以降に「先生にでもなるか」「先生にしかなれない」と言った動機から教職を選択した無気力な教員に対する蔑称である。

・ この「でもしか教師」はスラングではなくて2004年の中央教育審議会の議事録にちゃんと載っている言葉なのである。その一部を転記してみると以下のようになる。意味深だから面白い文章だ。

“それから、教員の評価なのですけれども、たぶん、ある種の統計から見れば日本の教員の質というのは世界的に見て決して低くはないということになるのかと思います。ただ、かつて「でもしか先生」なんていうことが言われたわけですけれども、今、民間との交流だとか、いろいろなことも行われ始めていますけれども、さっき視野が狭いという失礼な言い方をしてしまったわけですけれども、例えば小学校の先生なんかは、特殊な例なのかもしれませんけれども、短大なんかを出て小学校の先生の資格を取れる制度もあるのですね。ですから、東京周辺のある特殊な地域なのかもしれませんけれども、お母さんやお父さんの受けた教育のレベルと非常に段差のあるような先生が教壇に立っているために大変なヒッチが起こっているような例を私は幾つか目撃しているのです。要するに、よほど心を決めて教員の質を高めるためのシステムを導入していかないとまずいのではないか。以下省略

・ しかしこのデモしか教員の言葉には歴史があって1950年代から60年代にかけて勤評闘争や安保闘争など授業そっちのけで「デモしかしない先生」が元々の用法らしい。時代の変化とともに言葉の意味が変化する典型的な例だが駄目教師の蔑称であることには変わりはない。

・ だから大体現在70歳代以上の世代であり、団塊世代の教員をさす言葉ではない。団塊を超えた世代である。しかし一部の識者は団塊世代の教員が大量退職している現在、「第二のでもしか教員が生み出されている」という意見で警鐘を鳴らしておられる。

・ 確かに一昔前までは「公立私立いずれも教職への道は難関中の難関職業」であったがここ3年くらい「広げに広げた門戸」となっている。特に最近では採用試験も一般教養を問わないところも出てきているという具合だ。

・ しかし私の意見は確かに全国の自治体は公立教員の採用に苦労しているが、昔の「でもしか先生」みたいなタイプを採用して「同じ過ちは繰り返す」ことはしないだろうと思っている。門戸は広がったとはいえ、そう易々と教員にはなれない。

・ それは社会の有り様が大きく変化してきたから昔みたいに「イデオロギー教員」「さぼり教員」などは出現しにくくなっているからである。これほど学校の透明性が進み、保護者の関心が特に教員に向けられ、生徒指導やスポーツ実績、進学実績など全てが明るみにされている中で「デモなどしていたら」世の糾弾を浴びるからである。

・ それでも「最後まで抵抗する」と言って卒業式の国旗掲揚、国歌斉唱などで「当局や権威に反対する」根性の座った先生がかすかに残存しているだけの世の中になった。私はこのような先生はでもしか先生ではなくて「歌旗先生」と呼んでいるのだが昔に比べればニュースになるのも減ってきたと思う。

・ 「でもしか先生はいなくなった。歌旗先生も減ってきた」。今最も現場で問題なのは「弛緩教師」と私が造語したタイプの先生である。「弛緩とは緩んだ、だらけた、だらしない、常識に欠けるなどの総称」として用いている。

・ 一部の新聞などでは「教員の免許更新制度」に関連して「駄目教師」と言う表現があったがこれは広い意味で捉えた言葉であり「教師として駄目」と烙印するには少し過激だと思う。しかしマスコミの論調は平気でこの駄目教師を使っている。丁寧に言えば「資質に問題がある教師」なのだが「資質欠落教師」では何を言っているのか分からない。

・ 難関の就職試験を経てきただけに「総合力としては平均以上」である。すなわち「入り口」の学歴インフレとしても相当高いところにある。そうでなければ教師の職にありつけないのが現実であるからだ。聞いたことも無い大学から教員になるのは至難の技ではないか。

・ 教師と言うのは「全員が大学卒」である。世の中にこのような職場はない。卒業した大学も偏差値ランキングで言えばかなり高位に位置する。本校の例で言えば管理職を除き常勤講師を含めた教員数が93名いるが内35名が国公立大学卒である。比率は38%である。これが公立高校になったら相当高い数値となる。

・ 次に「関関同立」卒の教員数は17名であるから18%となる。すなわち本校で言えば国公立と関関同立卒の教員比率は54%になるのである。次は「産近甲龍」、武庫川女子、天理大が複数を数え早稲田大学とか東京女子大とかが来る。いずれも高偏差値の大学として知られている。

・ ところがだ。このように高い偏差値の大学を卒業して難関の職業に就職しても、それは「入り口だけの話」でこれが継続するという保証がないところが教員社会の特徴である。勿論企業だって同じことは言えるがその「比率の問題」として捉えるなら教員社会の方が高いことは間違いない。

・ この要因と対策を考えておかないと結局は「弛緩教師」を作ることになるのである。ある人は「戦後の日本の教育界は立派な教師と言う人材育成ではなくて反人材育成の道」を辿ったと言われていたが私はある面肯ける意見だと思う。

・ それよりもどちらかと言えば偏差値ランキングの高い大学を卒業してきた人材よりも大学名によらず結局は本人の意識次第という風に最近はつくづくと思う。大学名が良いからといって良い教師には成り得ない。

・ 詳細なデータがないから断定的にいえないけれども「入り口」は問わず、入ってからの意識と自己抑制、自己啓発、自己訓練などがより立派な教師には必要と言う気がする。謙虚な人柄、責任感、陰日なた無き言動だ。結局「お人柄」なのである。

・ 公立4年間、私立4年間、合計8年の間には他校を含めて多くの教師を見詰めてきた。すぐ弛緩するタイプの教員はどのような言動と行動を取るか、大体分かってきた。これについては別途の機会に詳述したい。本校ではでもしか先生は居なくなったが弛緩先生はまだ居る。圧倒的に優秀な真面目な先生が多いだけに弛緩教員は良く目に付くのである。