2011年5月31日火曜日

23年5月31日(火)5月決算理事会・評議員会

会議に先立ってカフェテラス建設現場を視察頂いた


33名中30名が出席した理事会・評議員会


牽引するトップ3理事長、名誉理事長、理事長職務代理

今購入を検討している大型バス71人乗り
・ 本日は「理事会・評議員会」の日であった。特に5月は「決算理事会」とも言われ、22年度の「学校会計諸表」が審議承認される重要な理事会である。学校会計基準では年度終了から「2ヶ月以内」に行い理事会を行い、その議事録とともに「監督官庁即ち大阪府橋下知事に提出」しなければならないとなっている。

・ 2ヶ月以内というところが「ミソ」で極力「年度替わり直ぐにやれ」ということだろう。前年度の会計が確定しなければ翌年度の方針も「ママならない」だろうということである。

・ これは「法律」だから破ると大変なことになる。「何か粉飾決算でももくろんでいるのではないか」と疑われかねない。しかし事務処理が実は大変で事務室の担当は大忙しである。特に決算は公認会計士の実印が必要となってくる。

・ このため通算三日間は会計士の先生が本校に来て「伝票一枚一枚」チェックされる。そして理事会に出席して頂いて会計士の先生から「肉声」で理事・評議員に説明報告して頂く。ここまでやっている学校は多くはないのではないか。

・ 本校の理事会は「本格的」なものだ。まず資料が徹底している。「全てを明らかにして公開」している。これは私の主義であり哲学である。今朝まで資料のチェックが続いた。

・ 従って理事会の場所も他の一部の学校のように一流ホテルとかではやらない。あくまで「舞台である学校」でやる。「しゃんしゃん理事会」とはせず「真剣勝負の理事会」である。

・ 現場でやるに限る。そしたら建設中の校舎などご視察して頂けるメリットもある。理事、評議員の先生方も現場の空気に触れるのは大いに刺激になる筈である。そして終ったら即解散である。本校では理事会後の懇親会など全くない。

・ 特に私は理事と評議員の出席状況を重要視している。今回も理事評議員総数33名のうち、出席者が30名である。これはかなりかなり高い出席率で新記録ではないか。理事会・評議員会が「活性化」している証明である。

・ 何時も理事長職務代理が言われるのは昔の評議員会は数名の出席でいかにも元気がなかったが「一変」したという。それも準備万端整えた「中身の濃い資料」にあると思う。ご理解頂き深い考察をして頂くためにも今後とも学校からの「プレゼンテーション」には留意して参りたい。



・ 私は今後とも「理事会を総理する責任がある理事長としての説明責任」を徹底的に果す積りである。私学経営において最も重要な基準は公益法人としての「会計基準」である。それは大きく分けて「資金収支」と「消費収支」、それに「貸借対照表」の三つある。

・ しかし大切なことは「細かい部分」であり、まとめの表を見ただけでは直ぐには「ピンッ」と来ないと思う。だからプロセスを「特記事項」で説明することが親切な配慮なのである。本校には「各管理職が説明する特記事項」が極めて多い。本日は何時もよりは少なかった。


*学校土地の地目変更について(資料4)            事務長

*カフェテラス・予備教室・クラブハウス棟の建設にともなう
 設備関係支出について(資料5)               事務長代理

*自校保有バスの方向性について(資料6)           事務担当

*節電対策とスクールサマータイムの導入の検討について(資料7)高校教頭

*関西大学連携浪速中学校の学力の伸びについて(資料8)    中学教頭

*平成23年度私立高校入試 入学者状況           入試広報担当教頭



・ 大切な指標は資金収支で、これは「資金の使い途と調達先を明らかにする」ものである。消費収支は「年度の消費収入と消費支出の内容を明らかにして両者の均衡状態を表示」するものである。企業で言う「損益計算書」に類似したものであると考えてよい。「貸借対照表」は年度末の資産、負債を明らかにして「正味の財産の状態」つまり「財政状態」の表示である。

・ 本日「改定新経営計画」は承認された。これで「新校舎建設」は夢ではなくて軌道に乗った。特に4年目の決算は浪速始まって以来の「好決算」となった。ようやくお金が溜まりはじめたのである。「潤沢」とはいかないが目標に向かって近づきつつあるのである。

・ 内部蓄積をしてなおかつ手元繰越現金が豊富になってきた。安定軌道にのり間違いなく「新経営計画」通りに学校は進んでいるのである。非常に中味の濃い理事会と評議員会は手前味噌であるが見事に終了した。

・ 重要な議案であった現在工事中の「教室、カフェテラス、クラブの部室」や養護室、校務員室などの移設費用など本日の理事会・評議委員会で正式に予算が承認された。合わせて「資金調達計画」も承認された。

・ 特に今回は自家用のバスを保有することが議案として上程された。悩ましいがそのうちに最終結論を出そうと思う。理事会や評議員からは異論はなかった。中学生の外部模擬試験の成績の向上、今年の入試結果など盛りだくさんの議題であったがすべてが「前向き」なものばかりだから嬉しい。

・ これで私の4年目が会計的には公式に終了したことになり、5年目に突入した。私にとって今日は「企業で言う株主総会」みたいなもので「全権委任」を得て新年度に入ることになった。頑張らねばならない。

・ それにしても資料の説明の上手い下手が直ぐ出る。何回言っても直らない。特に事務のY担当と事務長代理だ。口を酸っぱくして言っているのだが書いた資料を全て読む。どうしようもない。終わった後部屋に呼んで厳しく指導した。
・ 資料を目で追うスピードはものすごく早いのだ。書いている文字の60%説明しても多い位である。それを書いている文字を全て読んでどうするのか。聞く方が飽いてくる。それに説明するときに資料ばかりに目をやっているから駄目なのだ。聞いている人の顔を時々チェックしなければならない。
・ 上手いのは高校教頭、それに入試広報担当教頭だ。この二人は上手い。珍しく中学教頭が本日は上手かった。何時もはそうでもない。副校長も大したことはない。どちらかと言えば下手な方だ。事務長は前回こっぴどく私から指導されたので今日は別人みたいに腕を上げていた。
・ 私といえば彼等とは「段違いに上手い」と自負している。サラリーマンはプレゼンテーションで出世が決まるところがある。訓練されてきた。しかし考えてみると下手な二人は「真面目人間」であることは間違いない。

・ しからば高校教頭や入試広報担当教頭は真面目ではないのかと問われるかも知れない。下手な順に 事務のyさん、事務長代理、中学教頭(今日は例外で上手かった)、事務長、副校長、高校教頭と担当教頭は同レベル、数馬身おいて私だ。この順番って真面目人間の順序だと確かに言えるかも知れない。さすれば私は真面目ではないのか。それは違うから上記の定義はやはり間違っているのだろう。


2011年5月30日月曜日

23年5月30日(月)卒業生教員


・ 卒業生を教師として迎えることは果たして「良いことか」か、はたまた「うーん、良く考えなさいよ」となるのか、「ビミョー」である。私としては「OBだろうと何だろうと良いものは良い」のであって「卒業生だからどうだ」などは考えてはいない。

・ しかし正直言って多くの意見があるのも事実だ。本校で言えば今日までの4年間で「良い思いも、辛い経験」もOB教員から受けてきた。思い出すのも嫌な思い出もある。腹が立って「石を投げたい」くらいな奴もいる。

・ どうも卒業生教員には二つのタイプがいると考える。一つ目は「本当に立派な教師」である。決して彼らは「自分が卒業生だとは自らは言わない」タイプである。お世話になって育てて貰った学校に勤務できるだけで「幸せ」であると感じている。

・ 自分の出来る範囲で「陰日なたなく」仕事をする。そして職場には圧倒的に浪速高校卒でないが、偏差値も自分の出た大学よりも高い教員が多いと言うことも彼らは知っている。それだけに人一倍「謙虚」である。それに見ていると「一芸に秀でている」。

・ 私はこういうタイプであれば文句なしに採用する積りだ。ところがトンでもない「鼻つまみ者」が時に発生する。一言で言えば「自分の学校と勘違い」している輩である。私は良く言うのだが単に3年間ここで学んだだけの話だと。

・ ところがこういうタイプは「私はここの卒業生だ」とすぐに言う。そしてその気持ちが嵩じてきて「精神的な公私混同」をする教員である。こういう連中はあらゆる面で「学校を利用」しようとする。

・ 口では「母校のため」というが実際はそうではなくて母校を利用しようとするのである。金に汚く、何とかせしめようとしたりする。又目の前の生徒は「自分の後輩」になるものだから身内感覚で学びの途中にある対象として見えなくなったりする。

・ 酷いのになったら「生徒を自分のものと錯覚」したりする馬鹿も出たりする。大体管理職に対して「変な目」をする。「私のほうがこの学校のことは良く知っていますよ」といわんばかりにだ。そういえば全く礼儀も知らない卒業生講師もいたな。

・ そう言う時には「お前、何か勘違いしていないか」と私は教える。「君は単に私に雇用されている従業員であってこの学校は君の学校でもなんでもない。その他大勢の一人だ」と。そういう場合でも大体言っていることが分からないから「キョトン」としている。

・ 特にそういう教員上がりが同窓会の役員になったりするともうこれは「悲劇」である。完全に同窓会を私物化する。一度こういう事件があった。それでなくとも少ない同窓会の資金を使って「魚釣り大会」とか「伊勢神宮旅行」とかに多額の金を流用していたことがあった。

・ 高校3年生が卒業すると同窓会入会金として一人当たり相当大きな金額で人数分が同窓会会計に振り込むのだがそれを平気で使っていた。会員を集める目的と言うが参加するのは何時も同じ顔ぶれでそれも60歳を超えた「ええおっさん集団」である。

・ これらの年代は金も持っており「自分の金で旅行に行け」と私は名誉会長の立場で同窓会総会で一発かました。これは多くの会員も疑問に思っていたらしくその場で取り止めになった。万事がこのように「私物化する」のである。

・ 私は過去の出納簿と預金通帳を持ってくるように事務局に言ったら出てきた通帳は更新され残高のみ記載されたものだった。これでは過去どのように支出されたかさっぱり分からないではないか。要は卒業生の入会金で60歳を超えたおっさん連中が好きなようにしていただけの話だ。


・ 今本校には数えてみたら4人の卒業生教員がいる。3人は私が着任した前からこの学校の専任教諭であった。内二人の結婚式にも出席した。4人ともまあまあで教師としてのレベルで言えば比較的高いところにあると思う。
・ 概して厳しい私が評価するのだから間違いないし、この事は皆が認めているのではないか。まず「人間の人柄が良い」。まず全ての出発点はここではないか。とにかく「人間性」が最も大切なファクターだと年を取るに連れて思うようになってきたが、間違いはなかろう。「何といっても最後はお人柄」だ。

・ 一人ひとりについて言及してみる。年長の46歳の教員、この教員は永い間某クラブのナンバー2として「下働き」をしてきた。いい加減な長さではない20年近くであったろう。スターみたいな監督の下でよく頑張ったと思う。ところがだ。驚くことに彼は次の監督には指名されなかった。

・ その辺の理由については容易に想像できる。プロでもあるまいし、あくまでクラブは教育の一環だ。「それはないだろう」と私は思った。結果としてその監督とそのクラブのOBを中心として彼は排除された。この流れに乗った「ユダ」みたいな同僚教員がその教科に居たりした。

・ 私は徹底的にその辺の事情を調査したが、まあ理由は書くまい。そして外部からこれまた卒業生を持ってきて現役の教師を差し置いて監督に据えたのである。この間当時の校長は「傍観者」であった。この校長も卒業生であった。結果的に自分の部下たる現役の教員を差し置いて外部の人間を持ってきたのである。

・ クラブの監督人事に口を出すようなOB会は「分を超えている」と私は厳しく指弾した。「今後一切クラブの監督人事に口を出すな」と申し渡した。このようにOBは人事にまで口を出してくるものである。こうなったらもう学校はお仕舞いである。恐らく陰で私のこともあれこれ言っていたのだと想像に難くない。
・ 私はこの教師を「浪速ふくろうスタジアム」の建設担当にして仕事ぶりを観察した。見事な仕事ぶりであった。スタジアムが完成した後、私は彼を監督にした。「脇の甘い」アホなところはあるが人柄が良い。「育ち」が良いんだと思う。
・ただし5年だ。5年で結果が出ないときは「無能監督として首」だ。彼にはその旨伝えている。その時にはそれこそOB以外の人物を監督に据える積りである。彼も分かっているだろう。彼は私に感謝してる筈だ。監督になって「男が立った」と思っている筈である。未練たらしい男ではないからスパッと止めるだろう。私は今後とも全面的に支援してやる積りである。特待生度まで作ったのは彼の為だ。良い選手を探して来いと何時も言っている。

・ 次の二人の卒業生教師については「人間的に賢い」。だからアホなグループとは交わらず自分の仕事を精一杯頑張るのが役目とそれこそ陰日なたなく頑張ってくれている。二人とも将来有望だがまだまだ勉強が不足している。人間としての修行が足りない。

・年の食ったほうは昨年本当に某事件で痛い目にあった。いいようもない事件があったからである。勿論彼の責任ではなかったが、直接のクラブ担当者として結果的には本人の瑕疵もないわけではない。企業だったら全責任を負わされて「一貫の終わり」だったろうが私はこの教員を護った。良い勉強になったと思う。欠点はすぐ「顔に直ぐ出る」がこれは直さないといけない。
・ 若い方は「パーフェクト」に見えるが少し気にかかっている。最近学校に来るのが遅いので厳しく指導した。この教員は日本でも大変有名で「その道の達人教師」であり、海外出張なども多いし対外試合で学校を留守にすることが多い。

・それだけに学校に居る時は少しでも早く来て、自分が不在の時に他の教師から助けて貰っていることへのお返しでも考えるべきではないかと私は言ったのである。若造教員の癖して「重役出勤」だったのである。この教員の結婚式にも出席しており、夫人もよく存じ上げている。最近第二子が誕生した。自覚して頑張らねばならない。

・ 最後の最も若い教員は昔は酷かった。私は苦労した。この教員の結婚式にも出席し夫人もよく存じ上げている。「組織人としての訓練」が出来ていなかったからだろうと今になって分かるのだが、着任した時には前の卒業生校長から見せられた「解雇リスト」に名前が載っていたのである。

・ 卒業生校長が卒業生教員を首にしようとしたのだ。 しかし私は「理事長人事」の声を張り上げて救済した。理由は簡単、「並外れたコンピューター技術」を有していたからである。又彼を評価する教員も多くいたからである。この点が救いであった。この教員の欠点は一言で言えば「気配り、心配りがない」ことである。
・ 徹底的に私は鍛えに鍛えた。最近少し改善されてきたと思うがまだまだだ。仕事が出来るし何よりIT技術に関してはダントツのナンバーワンであるだけに私は将来を期待している。それだけに「何でも仕事を与え」、厳しく指導しているのである。


・ 今は33歳で教師をさせているが20年後ひょっとしたら事務室に回し「事務長」をさせたいとの考えもあったがその考えも今は消え失せている。さぞかし立派な事務長になるのではないかと思ったが今の状態では駄目だ。
・ 私は教員が学校の事務を司るのも一案だと考えているのである。その場合第一号は彼だと思ったからである。前の3人はスポーツマンだから礼儀などわきまえているがこちらは若干「おたく」に近いから人間関係の基本が出来ていなかったのである。

・以上4人について厳しいことを書いたが私はこの4人が「可愛い」のである。若し「浪速丸が沈没」する時があれば、最後の最後まで船長キャプテンの私の傍で頑張ってくれるのはこの4人だと信じているからである。だって彼らの「母艦」だからである。

・ 昨年10月に常勤講師から専任教諭に採用した若い卒業生教員は今年2月突然学校を去った。自主的に退職したのか、そうでないのか、一時期、生徒が「怪訝な面持ち」で私の部屋まで聞きに来たりして大変だったが今は完全に落ち着いた。しかし「こいつ」には参った。これ以上は書けない。こんな奴は初めてだった。

・ 私は今から3年前に退職して行った一人の卒業生教師を今でも思い出す。立派な先生であった。「絶対に管理職に」と思っていた人材であったが体調を理由に舞台を去っていった。私は着任前、彼のことを知り、天王寺辺りに呼び出して飯を食いながら学校の様子を詳しく聞いた。
・ 最初の管理職人事で彼の考え、判断がどれほど役に立ったか、今でも感謝に耐えない。前のS副校長先生の人事を固めた時に「名人事」と大変喜んでくれたのを思い出す。今居れば私の右腕としてどれだけ本校は助かったことだろうか。

・ 想像するに、退職の理由は体調もあったりお家の事情もあったのだろうが、卒業生校長、並びに他の卒業生教員との軋轢で疲れ果てたのだと聞いた。良く耳に入ってきたものだった。驚くことに社会科の教師でありながら海外英語研修を担当させられていた。
・ これも信じられない話である。英語の教員は30人近くも居たが、このプログラムに誰も関与せず社会科の教員に海外英語研修を振るなど、経緯や理由はあったのだろうが当時の英語科には「骨のある教員」は居なかったのである。
・ しんどいことはイヤだ。英語科は「知りません」と訳の分からない理屈で仕事を放棄したのである。もしその時に私が居れば首謀者は解雇しただろう。英語科の教員の「面汚しだし恥」だ。英語教師など辞めてしまえと言いたい。

・ 本日は23年度の「教育実習生」の着任日であった。今年は11名のOB、OGが久しぶりに学校に戻ってきた。OGと書いたように初めて女性の実習生の登場である。平成17年に共学に移行して遂に女性卒業生が教員を目指して学校に戻ってきたのである。私は「時を感じ歴史の回転」を思わざるを得ない。

2011年5月29日日曜日

23年5月29日(日)多聞へ行く

手を振って見送ってくれた付き添いの先生










このスタイルを見てください。ものすごい気迫です。
関大コース長


冷蔵庫が2台になりました

小雨に煙る静寂の多聞尚学館
・ 朝7時に家を出て学校に向かった。新聞に目を通すが最近は記事内容にも面白いものが余りなくてブログの対象が「内向きのもの」になってきている。もっと学校内部の事から離れて「世評評論」をしたいのだが「食欲をそそる記事」が少ない。
・ 大阪府の「国旗国歌起立の条例化」について教育長が明確に「条例化反対」と議会で明言したがその理由は「府教委と校長でしっかりやるから」というものだった。これに対して橋下知事は「2002年からこっち出来て来なかったではないか。そんなことは信じられない」と反論していたのが奇妙な光景だった。
・ 知事と特別職の教育長の間で話がまとまっていないのだから、これではどうしようもない。これで私はこの問題の先行きは「混沌」としてきたと思う。世論も時間が経てばどちらかというと「ウーン、そこまでしなくとも」という雰囲気になってきている。
・ このようにして「社会は一部の教員のでたらめを許していく」のだろう。しかしこれは「寛容」というものではない。実態を知らないから「甘い」だけだ。これは学習指導要領上の法令なのだからコンプライアンス違反として捉えれば良い話である。「職務命令」とか「府教委教育長通達」とか関係ない話ではないのか。
・ とにかく対応が甘い。そういう意味で橋下知事の論点は意味あるのだが知事も教育現場の「どろどろ」している現実をそれほどご存知ではないと私は見ている。だからこれ以上の「理論武装」が出来ていないように見える。
・ 大阪市の平松市長は「大阪市にはこのような教員はいないから条例化は不要」と鼻を膨らませて言っていたがとんでもない話だ。市立の小学校、中学校の実態をまったくご存じない感じである。小学校、中学校の実態を暴きだし、直視せよと申し上げたい。

・ 最近それでも面白かったのは東電福島第一原発での例の「海水注水ストップ55分間の問題」だ。管総理、官房長官、谷垣総裁、経済通産省、原子力保安員会それに東電と多くの関係者が「言った、言わない」と「誰が指示したのか」と犯人探しでこの2ヶ月ほど世間を騒がせてきた。
・ ところが面白いではないか。国会での党首討論が終わった二日後。「実は海水注入は止めていませんでした。現場の所長が自らの判断で継続して注水していたそうです」と東電本社がのうのうと発表したことだ。
・ 私は思わず「づっこけた」のである。国民誰もが55分の注水ストップがあって事態を悪化させたと思い込まされていたのだが「そんなことはなかった」と2ヶ月経って知らされたのである。一国の総理を動かし自社の社長にまで報告せず「ずーっと」黙っていたこの吉田という所長さんは極めて面白い。

・ 新聞を読み終えて8時過ぎに学校車で「多聞尚学館」に向かった。途中風雨の若干激しい所はあったがまあ普通のドライブで9時20分には到着した。慣れた道である。到着した時には生徒は1コマ目の講義を受けていた。
・ 中学1年生の4クラス合同の授業だから4部屋全てを使用していた。多聞を開くときに教室数は3にするか4にするか議論があったが4教室で良かった。付き添いは教頭先生込みで7名の教員が担当してくれた。周辺の様子を見た私は、「保護者参観」は止めて正解だったと思った。
・ 本当であれば300人以上の人間がこの多聞に集結して「にぎやか」だったが「雨に煙る多聞尚学館は静寂で美しかった」。昼食には生徒、保護者、学校合同のバイキング昼食会を計画していたのだが取りやめたので私は給食業者さんにお詫びのために給食室に出向いた。
・ もう顔なじみであり、「全く問題ありません」と言ってくれた。それよりも依頼されていた冷蔵庫が新しく入っておりそのお礼を言われた。生徒が増えたので「用意する食材の料」も増えて冷蔵庫一台では不足だと言われてきたのである。

・ 私は何時も各部屋を回って生徒と先生を激励するのだが、これは大変勉強になる。今まで3年間何時もこのやり方をしてきているので「それぞれの先生の教え方の違いが大変良く分かる」のである。これは私にとって大変重要な情報になっている。
・ 人間個性があるから同じような教え方というのは表面上は有り得ない。しかし問題は「教え方の先にあるもの」である。ポイントは「生徒が理解しているか、教師の指導が伝わっているか」である。教員の独り舞台に陥っていないか、生徒は退屈していないか等々私は観察するのだ。
・ 教師の側も板書が汚い、字が小さい、声が小さい、山場もなければ常に平坦な説明とか「教え方の未熟さ」など見えてくる。特に私は「漫談授業」は大嫌いだ。教員の中には生徒におもねり「漫談で最初の10分を過ごす」などの人がいるがこれはいけない。
・ 教壇に立ったときに生徒が沈黙して先生を凝視し「次に何を言われるのだろうか」と「緊張感を持たせるような腕」を持たねばならないだろう。当然だと思うが概してベテランの先生は上手い。最も何十年もやっているのだから下手な方が逆におかしい。
・ これに対して新人の教員には未熟な面が多く見られる。まず授業が平坦である.リズムがない。またこの反対で必要以上に「甲高く一方的に喋る」だけの先生もいる。若い先生はもっとベテランの「授業が上手いと評判の先生」の授業を観て勉強しなければならない。何での同じだが「蓄積の浅さ」は何処かに出てくるものだ。
・ 私は休日の多聞での先生方の奉仕には「手当て」でもって報いるようにしている。今年もこれだけは減らさなかった。「心から感謝している」からである。何回も書いたが「自分の時間を犠牲にして頑張ってくれている先生」には頭が下がる。
・ 「国旗国歌反対」と叫び「自己の内心に立ち入るな」「思想信条の自由だ」と叫んでいるような教員まがいの連中には「生徒にために自己を犠牲して」頑張ってくれている本校の教師の高い志を知らないだろう。
・ 自分の要望を言う前にまず黙って仕事をしたらどうだ。公務員として高い給料はちゃんと受け取っているのだろうに。社会の人はご存じないと思うが国旗反対国歌反対と具体的に行動に出る教員の中には実は「何でも反対の人」であり、まず「自己犠牲」などしない先生方が多いと私は知っているから厳しいことを言っている。こういう人は教員を辞めて市民活動家にでもなったらどうだ。
















2011年5月28日土曜日

23年5月28日(土)明日の授業参観は中止

















・ 悩んだが明日予定している多聞尚学館での中学1年生「保護者授業参観は中止」とした。朝一番に中学教頭先生と統括学年主任の先生に来てもらって相談した。難しい判断であったが最後は私が決めた。「危険を予知」して取り止めたのである。
・ 万が一台風の風雨で大変なことになった場合私が「想定外」などと言って正当化できないからだ。昨年初めて大変保護者や教職員からも好評な企画だったが、「チャンスはまだある」。焦る必要は全くない。

・ 元々入学して間もないこの時期にしたのは「早い段階で本校の教育」を観察して欲しかったからである。私立中学の中で浪速中学を選択してくれた保護者のお気持ちに応える解答がこの「多聞での宿泊学習授業」だった。


・ 但し生徒は予定通り本日午後多聞に大型バスで向かい明日は天気の様子を見て柔軟に対応させる。朝一番に帰っても良いし午前一杯は授業をしても良い。天気次第でどうにでもなる。ただ昼食を済ませたら午後の授業は中止して学校に戻って来させることにした。
・ 保護者の場合、千早赤阪村にある多聞尚学館は標高700メートル近いところにあるので周辺は狭い道で勾配もかなりきつい。運動場を駐車場にしているがここから校舎までがまたきつい坂道である。マイカー以外の保護者のためにマイクロバス2台を用意してるが降りてから校舎に着くまでに脚と靴は「ビショビショ」になるだろう。
・ それに台風の来ている中をお家を空けると言うわけにも行かないだろうと私は考えたのである。結論が出れば後の行動は教職員がすばやく行う。まず保護者用のバスのキャンセル、問題は明日の生徒・保護者・教職員合同のバイキング昼食のキャンセルである。
・ これは給食会社さんが上手く対応してくれそうで安心した。冷凍食品が多いので次回に回せば良いからと言ってくれたそうだ。明日の帰りの生徒のバスは「待機」と契約を変えた。こうすれば何時でも下山できる。料金の上乗せがあるがこれは仕方がない。
・ 後は個別のご家庭に電話して「中止」の旨連絡を入れるだけでこれもうまくいった。生徒は連れて行って徹底的に勉強させる、生徒はそのような支度をしてきており「やる気満々」であった。
・ 本日は5月の中学朝礼であった。私は多聞での授業参観の中止を伝達し、「学年単位にそれぞれの注意事項」を申し述べたが、何時も感じるのは中学生と高校生の違いである。全然異なる。中学は本当に幼く見える。それが高校生になると「豹変」するくらい変わってくる。本当に中学3年生と高校一年生では年の差、1歳以上の違いを感じるのである。
・ 昨年から中学生は「ウィークデイ」で多聞での集中講義をやるようになった。ウィークデイというのは多聞が「週末スペシャル」でほぼ高校生の利用で100%埋まっているから中学生にまで回って来ないからである。
・ そして昨年から「高校からエース級の教師を中学1年生の関大コース長に当てはめた」のだがその効果が早速現れてきた感じだ。この先生は仕事は出来る。「5月の外部模試の結果」でも成績を上げてくれた。
・ ただ英語と数学は良いが国語に課題が残る。一年に投入した国語の先生が今後、知恵と工夫で何とかしてくれるだろう。とにかく「今の子どもは国語力が弱い」。国語は幼い時からの積み重ねであるだけに心配なのである。
・ 今日的生徒は本を読まない、作文をしないと良く言われているが全くその通りで高校生でも書いた文章のお粗末さに驚くことがある。私は今「本校の歴史」と称して大正12年創立時代からの歴史を振り返っているが「昔の教育の中身」に驚いている。
・ 旧制浪速中学校の教育課程の概括は以下のようなものだった。明治19年の中学校令は明確に「授業内容を規定」しており1931年までは旧制中学1年から3年までは国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の半数を占め、他に歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)修身、図画、唱歌、体操があり4年から5年で物理、化学、法則、経済が加わり、図画唱歌の代わりに数学の比重が高かった。
・ 特に本校では「ドイツ語教育」が有名であったと記録にある。「浪中名物」とまで言われたそうである。第一次世界大戦前で日独協定時代のこともあり、日独親善のためドイツ語教育で覇を競っていたのであろうか。
・ 尋常小学校が6年で義務教育だったが年齢は今の小学校と全く同じだ。従って旧制中学は1年から3年というのは今の中学校の年代である。この時に今日は「国語、漢文、外国語が全授業の半分」だったというのだからこれはすごい。
・ 12歳からドイツ語だ。しかし私が驚くのは国語漢文に力を入れていることである。これが素晴らしい。旧制中学は5年生で後期の4年生と5年生は今の高校1年と2年生になる。ここで専門的な科目が多くなってくる。
・ 結局旧制中学校は今でいうところの「5年生の中高一貫教育」だったのである。ここがポイントである。旧制中学から当時は旧制中学4年終了後は旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。
・ 旧制中学からの次の進路は「変化球」が多く複線であったのである。今のように「硬直化」していないところが素晴らしい。それだけに私は今の浪速中学の生徒には「旧制中学の指導の仕方」に近づけて欲しいのである。
・ さすれば高校3年生の1年間は昔で言うところの「大学予備門」と位置づけられる筈だ。高校3年生は5年間の復習と演習問題ばかりの予備校として良い。勿論全てにクラスに適用することは無理だしその必要もない。
・ しかし関大コースだけは出来るはずである。是非私はそのように仕向けて行きたい。そのための関大コース長であり、関大コースのクラス担任であることを忘れてはならない。関大コースが4年後どのような進学実績を出すかが本校の未来を決める。
・ 校舎は「ピカピカ」でも大学進学実績が「ヘナヘナ」では駄目だ。関大コースはもっともっと生徒を鞭を使って鍛えねばならない。必ず「特進との入れ替え」は行う。その時には一部の保護者とはもめる可能性はあるがそれは「入学時の約束ごと」だから仕方がない。私はご理解して貰う積りである。















画像を追加

23年5月27日(金)本校の歴史その11「学校法人名の変更」



昭和26年最初の看板
「浪速学院」


旧本館の何と素晴らしいことよ
大正12年から昭和37年まで使用された
見えにくいが浪速学院の看板がかかっている

・ 正門西側コーナー塀のところに学校法人名「浪速学院」の看板が完成し昨日設置した。十字路交差点の角にあり4方向からの車からも大変良く見える。ご通行の方々や赤信号で停車しているお車からも大変良く見えるだろう。

・ これで浪速学院の看板は二つ目である。第1号は「浪速武道館の正門右側」に設置し武道館の竣工式にご披露申し上げた。今のところこれ以上法人名の看板を設置することは考えていない。法人名というよりやはり学校名が大切であり重要だからである。

・ しかしこの学校法人名の変更に関して私は大変に気を使った。今でも幾分心が痛む。それは神社界の皆様のお気持ちを考えるからである。良くぞ気持ちよく認めて頂いたと思う。

・ 外部から参入し、たったの4年の勤務やそこらで「よくぞ、法人名を変更したいと言った」とは思われるだろうが、それを受け止めて頂いた大阪府神社庁の皆さまの「大きな心」にただただ感謝するばかりである。

・ 大阪府神社庁庁長からは「創業の原点に立ち戻って再出発するという覚悟の意義付け」のご指導とご支援を頂いた。また理事長職務代理の力強いご支援もあった。この4年間の「学校改革」を評価戴いたからこそのご了解であったと思う。

・ 戦後新たに出発した浪速高等学校、浪速中学校を継承した最初の法人名である「浪速学院」の名に恥じないように頑張るだけである。私は本校に勤務している教職員と心を一つにして浪速学院の発展のために頑張って参りたい。

・ 以下に本校の簡単な年表を整理してみた。

    明治15年(1882)皇典講究所大阪分所設立

    明治41年(1908)神職養成のため講究所内に大阪国学院設立

    明治43年(1910)財団法人大阪国学院改組設立を文部大臣より認可

               大阪市南区天王寺夕陽丘555番地に置く

    大正 5年(1916)大江神社下に大阪国学院学舎建設 80名入所

    大正12年(1923)大阪国学院、中学校の設置出願 許可 神道科併設

    昭和 7年(1932)浪速中学校後援会結成

    昭和 9年(1934)室戸台風 浪速中学校校舎倒壊 新校舎建設へ動く

    昭和17年(1942)神職養成のため浪速中学校の一部学舎を利用して放課後教育し昼間は神社で実習すると言う定時制的な意見が評議員会で開陳される

    昭和24年(1949)国学院事務所を福島区天満宮上の社に置く

    昭和26年(1951)私立学校法により財団法人大阪国学院は学校法人浪速学院を設立し浪速高校、浪速中学校を継承

    昭和27年(1952)浪速学院神道教育復活

    昭和34年(1959)国学院事務所を天王寺区生玉町の大阪府神社庁内に置く

    昭和48年(1973)浪速高校創立50周年式典

    昭和59年(1984)学校法人浪速学院は学校法人大阪国学院と改称

               財団大阪国学院は神職養成機関として認定

    平成7年 (1995)阪神淡路大震災

    平成20年(2008)学校法人大阪国学院は千早赤阪村に「多聞尚学館」を開設

    平成22年(2010)財団法人大阪国学院設立百周年

               学校法人大阪国学院は堺市南区に「浪速ふくろうスタジアム」を開設

               学校法人大阪国学院は本校に「浪速武道館」を建設

    平成23年(2011)東日本大震災
               学校法人大阪国学院は学校法人浪速学院と改称


・ しかし昔の本館の外観の何と素晴らしいことよ。大正ロマンが感じられる建物である。

これからすれば今の本館は何か物足らない感じである。旧本館のてっぺんに立つ「塔」が素晴らしい。

・ 実は昨日から新校舎の設計をお願いする設計事務所のエンジニアとお会いしている。昨日が3社で本日が1社であった。この4社から選ばせて貰おうと思っている。それも出来るだけ早くと担当は急かすが私は「命の新校舎」だから慎重に見極めたいと思っている。

・ 各社さん、実績は申し分のない会社ばかりであり、あとは「気風」というか「相性」というか施主との関係性だけだろうと思う。新校舎を使うのは先生方であり理事長ではない。教員の思いを大切にしてくれる設計者を望んでいる。

・ 新校舎のキーワードを思いつくままに:

「光と風」「中層と高層建物の組合せ」「レイアウト」「学院神社の配置」「シンボルの塔」「プールの位置」「大型バスが一台校内に入るか」「講堂の設計(階段椅子、アコーディオン方式の椅子の格納)」「地下部屋の設置」「外周塀の更新・・外部への開放」

「第二正門の設置・・救急車輌、来客」「エレベーター台数」「クスノキの植樹」「テニスコートは何面取れるか」「屋内テニスコート1面でも」「教室は今よりも広く」「一足制か二足制か」「IT武装された職員室と教室」等々だ。新校舎建設チームは検討をぼつぼつ急がねばなるまい。

・ 昨日も設計会社さんへ申し上げたのだが、冒頭の「光と風」は深い意味がある。単なる採光と風通しだけではない。光は「未来であり希望」だ。風は「進化であり変革」である。私のブログを読まれるなら読みきらないといけない。

・ 旧制浪速中学校を基点として100年が経過した。現在の浪速高等学校が21世紀に生き続け200年の歴史を刻むマイルストーンが新校舎である。私は先頭に経って新校舎の完成まで全力で邁進する。


2011年5月26日木曜日

23年5月26日(木)本校の歴史その10:「府内の旧制中学校」

浪速名物とまで言われたドイツ語科目でこれを狙って生徒が入ってきたと言う。
写真は昭和2年の上宮中学との合同研修会

ドイツ国領事をお迎えしての研修会
  



  ・ 歴史その8、その9において旧制中学と旧制中等学校の違いとその歴史的経緯について様々な視点で記してきた。旧制浪速中学校は「旧制中学校」であることを確認した。旧制中学は中等学校と違いその教育の中身は「普通科の学校」で実業教育を主体とするものではなかった。

・ 旧制中学はまず明治の一時期「尋常中学校」と称されその後明治19年中学校令でもって「中学校」となった。従って沿革に尋常中学校から始まっている学校は歴史のある学校である。大阪府立で言えば現在の府立北野高校に見ることが出来る。

・ 北野は「大阪府第一尋常中学校」を始まりとしその後「北野中学校」そして戦後「北野高校」と変遷した。旧制中学校は含めて第二次世界大戦終結後の占領統治下における民主化政策によって定められた1948年の「学校教育法」の下で新制の高等学校へと転換されたのである。

・ 現在の新制浪速高等学校の誕生である。この時に多くの公立学校は共学化された。「高等女学校との合併」である。しかし私学の大半は「男子校」のまま残った。本校も戦後60年間男子校として存在し共学になったのは実に平成17年のことであった。

・ 話を旧制中学に戻そう。明治19年の中学校令は明確に「授業内容を規定」しており1931年までは旧制中学1年から3年までは国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の半数を占め、他に歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)修身、図画、唱歌、体操があり4年から5年で物理、化学、法則、経済が加わり、図画唱歌の代わりに数学の比重が高かった。

・ 特に本校では「ドイツ語教育」が有名であったと記録にある。「浪中名物」とまで言われたそうである。第一次世界大戦前で日独協定時代のこともあり、日独親善のためドイツ語教育で覇を競っていたのであろうか。

・ 昭和2年頃から19年ごろまであったと言う。上宮中学にも有り浪中、上宮中の合同研修会が上宮中学であった時の写真が残っている。日本とドイツナチスの国旗を掲げドイツ総領事も出席している。

・ 本校にも総領事が来られドイツの男女学制が大勢来て講堂で交歓会を催したとある。わずか13歳や14歳でドイツ語の勉強だから立派ではないか。今では大学の教養でしか習わないドイツ語を旧制中学の生徒は学んでいたのである。

・ しかし私が注目するのは上宮中学と合同研修会である。色々と資料を探ってみると当時の旧制中学はお互い学校をオープンにして勉強会を行っているところが素晴らしいと思う。その証明は浪速中学校第一期生の卒業記念帖にある「学年史」からも分かる。

・ 毎年10月には「府下中学校聯合競技会」があり、必ず参加していた。その他実に多く外部の声に耳を傾ける機会を有している。「立派な人の話を聞け」という教育の根本がそこにあると私は考えるのである。

・ 例えば第一期生は5年間の間に実に多くの講演者を学校に招聘してお話をしてもらっている。「嘉納治五郎」先生もあったし「西野田職工学校長豫田氏ノ南洋観察談ヲ聰ク」というのもあった。神社界からも多くの神職の方が講演というか授業をされているのである。

・ 何と素晴らしい教育内容であろうかと私は思う。旧制中学はその後明治32年に中学校令の改正でもって「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以ッテ目的トス」として「エリートの登竜門」としての役割を真正面に出していたのである。

・ 従って旧制中学校の後身となった高等学校は現在の地域の中核校、伝統校として難関・進学校であるとされている場合が多い。しかし入試改革や新たな学校群、総合選抜とかの新しい方法は旧制中学と言えどもそのレベルを簡単に低下せしめた。

・ 一方実業学校の中には戦後進学実績を伸ばし旧制中学に負けない新たな校風を確立し社会の支持を得ている学校もある。府内でもそのような私立高校は多く見られるのである。しかし「出自」は重要なアイテムである。自分ではどうしようもないアイテムであり長い年月を経て今に存在する伝統校というのはそこに関係する人間をして「誇り」を持たせる。

・ 私は今浪速高校浪速中学校の生徒、その保護者、教職員全てに本校の歴史を正しく認識し誇りを持って欲しいと思う。それが21世紀に生きていく力になろうと思う。先人の苦労を思い、働ける場所を作り残してくれた偉大なる諸先輩に感謝しなければならない。

・ ここで記録のために大阪府内の旧制中学校の歴史の変遷を記述しておきたい。「学制と言うのは国策そのもの」であり当初から「公立主体」であったが明治32年(1899年)「私立学校令」が制定され公立私立の区分がなされてきた。

・ しかし特に浪速中学校はこのブログに書いてきたように大阪府との密接な関係を有し支援を受けて誕生した学校である。現下の本校の実力を考えた時に本校の創立に関与された先達の人々は如何に思われるであろうか。

・ それだけに私は私立の旧制中学校が6校、公立の旧制中学校が20校あるがそれらの学校郡の中で本校のポジションを正しく捉え教職員は誇りを持って「学校改革を推進」し生徒の為に不断の努力を期待したいのである。

・ 特に橋下知事の誕生以来大阪府は公立、私立授業料無償化の中で生き残りをかけた市場競争の真っ只中にある。このことが良いか悪いかの議論ではない。明治以来の伝統を有する学校だけにこの勝負に負けて衰退させる訳には行かないのである。現在の教職員が頑張って呉れれば絶対に負ける訳が無い。私は確信している。

私立の旧制中学校

・ 桃山中学校 ⇒ 桃山学院高等学校
・ 上宮中学校 ⇒ 上宮高等学校
浪速中学校 ⇒ 浪速高等学校
・ 大阪偕行社中学校 ⇒ 第二山水中学校 ⇒ 香里高等学校 ⇒ 同志社香里高等学校
・ 高槻中学校 ⇒ 高槻高等学校
・ 日本大学大阪中学校 ⇒ 大阪高等学校

公立の旧制中学校

・ 大阪府第一尋常中学校 ⇒ 大阪府立堂島中学校 ⇒ 大阪府立北野中学校 ⇒ 大阪府立北野高等学校
・ 大阪府第二尋常中学校 ⇒ 大阪府立堺中学校 ⇒ 大阪府立三国丘高等学校
・ 大阪府第三尋常中学校 ⇒ 大阪府立八尾中学校 ⇒ 大阪府立八尾高等学校
・ 大阪府第四尋常中学校 ⇒ 大阪府立茨木中学校 ⇒ 大阪府立三島野高等学校 ⇒ 大阪府立茨木高等学校
・ 大阪府第五尋常中学校 ⇒ 大阪府立天王寺中学校 ⇒ 大阪府立天王寺高等学校
・ 大阪府第六尋常中学校 ⇒ 大阪府立岸和田中学校 ⇒ 大阪府立岸和田高等学校
・ 大阪府立第七中学     大阪府立市岡中学校 ⇒ 大阪府立市岡高等学校
・ 大阪府立第八中学     大阪府立富田林中学校 ⇒ 大阪府立富田林高等学校
・ 大阪府立第九中学     大阪府立四條畷中学校 ⇒ 大阪府立四条畷高等学校 ⇒ 大阪府立四條畷高等学校
・ 大阪府立第十中学     大阪府立今宮中学校 ⇒ 大阪府立今宮高等学校
・ 大阪府立第十一中学    大阪府立高津中学校 ⇒ 大阪府立高津高等学校
・ 大阪府立第十二中学    大阪府立生野中学校 ⇒ 大阪府立生野高等学校
・ 大阪府立第十三中学    大阪府立豊中中学校 ⇒ 大阪府立豊中高等学校
・ 大阪府立第十四中学    大阪府立鳳中学校 ⇒  大阪府立鳳高等学校
・ 大阪府立第十五中学    大阪府立住吉中学校 ⇒ 大阪府立住吉高等学校
・ 大阪府立第十六中学    大阪府立池田中学校 ⇒ 大阪府立池田高等学校
・ 大阪府立第十七中学    大阪府立布施中学校 ⇒ 大阪府立布施高等学校
・ 大阪市立中学校 ⇒     大阪市立高等学校
・ 大阪市立汎愛中学校 ⇒ 大阪市立汎愛高等学校 ⇒ 大阪市立東高等学校に一時合併 ⇒ 大阪市立汎愛高等学校として再独立






2011年5月25日水曜日

23年5月25日(水)本校の歴史その9「旧制中学の中途退学と授業料


大正15年の生徒写真帖の表紙


大正15年当時の教職員写真総勢31名



浪速中学2年生大石クラス


浪速中学4年生のクラス
・ 本校の歴史その8「大正時代と旧制中学」について本校が出来た時代背景について記した。本校は大正ロマン溢れる時代の大正12年に産声をこの住吉山之内の地に上げた。開校に間に合わなくて沢の町の借り物の仮校舎で204名の入学生で入学式が執り行われた。

・ 校長先生も間に合わなくて校長事務取扱の大島鎮治先生が大阪府から赴任された。入学者は「高野線にある私立中学」ということで、恥ずかしがり中には校章を隠してまで登校する生徒もいたと記録にあった。

・ 周辺は焼場と墓場と我孫子南京と我孫子大根畑ばかりであり、入学生はまだ「依羅池」を埋め立てた土地に大和川から砂を運んでグランドを整備したという。写真が残っている。本館は旧梅田高等女学校の古い建物を移設し、殆どの校舎が「戴きもの」で学校は出発した。

・ 開校して1年が経ち、ようやく「大里猪熊先生」と言う素晴らしい本流の校長を迎えて学校は着々と形を作って行った。1期生、2期生、3期生などが書き残した文章を読んでみると生徒は「個性溢れる素晴らしい先生ばかりであった」とある。

・ 本校は間違いなく旧制中学であり旧制中等学校ではない。「本流の中学校」であった。歴史その8の末尾に記したが当時は旧制中学4年終了後は旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。

・ 1期生のうちその進路を取ったものは6名いた。浪速中学校を卒業したものは148名であったから入学総数からすれば50名不足している。これは「中途退学者の数」である。比率は24%と1/4にも上るが実はこの数値は当時としてはまだ低い方だと今回私は知ることになった。

・ 明治から大正にかけて「立身出世主義」「成功熱」から中学進学熱は高まるばかりで国策ともあいまって中学校、中等学校は雨後の筍の如く誕生したが、それでも一般には「中学に行くのは高嶺の花」であった。

・ 昔の映画などで田舎の勉強の出来る子どもが尋常小学校の先生から「この子は良く出来るから中学に行かせたらどうですか」などと家庭訪問などで母親に言ったりする場面が出てくるが当時中学に進学するなどは稀有なことだったのである。

・ 農村からの進学者は「地主の子弟」で村で一人か二人がせいぜいで農村の次男三男は尋常小学校6年卒か高等小学校2年卒で町工場へ出稼ぎに出ていた時代である。したがって結局は金銭的に中学校を最後まで完遂できる比率は低かったと文部省の記録にはある。

・ 大正の時代において当時の代表的インテリ層の代表である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円だったのに東京市立中学の入学年次の学費は直接経費だけで146円19戦だったと記録にある。

・ したがって折角入学しても中途退学を余儀なくされた割合は入学者の1/3にも達した。この状況を結果的に文部省は放置したと考える他はない。それはそのように考えざるを得ない文章が残っているからである。

・ 当時の文部省の考え方は「エリート養成の中学校であり、一定の方針もなくただ漫然と入学した者の退学は父兄にその責任がある。出鱈目な入学に目覚め・・・」と退学者の多きをむしろ歓迎しているのである。

・ これは「中学校が一種の淘汰機関」となっていることを示す。私はこの考えに大変な興味が沸いた。中等学校が整備されていったものの中学校を無事に卒業して学歴の階段を更に登っていくことは決して容易なことではなかったのである。

・ 私の発想はこうだ。旧制中学が今の新制高等学校と考えるなら「高校進学率が97%程度」と高校全入時代の今、もっと高校卒業認定を厳しくするという考え方はどうであろうか。高等学校を「淘汰機関」と捉えるのである。そうすればもう少しましな大学生が出来るだろう。

・ 従って旧制浪速中学校の第一期生が50名もの中途退学者があったとしても全くそれは不自然なことではないのである。ここに記録があるのだが明治33年(1911)全国の中学生78000人に対して退学者数は11000人、14,2%となっている。これは同年の卒業者7747人の1.4倍であり、中でも熊本県立中学校の明治38年(1905)から明治41年(1908)のデータによれば中学校を5年間で無事に卒業した生徒は入学者の22%から34%に過ぎないとあった。

・ ところで本校の40年史には大変貴重なデータが残っている。「大正15年当時の学校経費」である。それによれば歳入歳出額が56197円で、歳入の内訳は大阪国学院からの補助が10000円(17.8%)、授業料44000円(78.3%)、検定料600円(1.1%)大阪府補助金1500円(2.7%)、繰越金97円とあった。

・ 授業料収入は生徒800人分で一人平均55円とあり、検定料は入学者数300名とおいて一人2円の計算であった。これらを観ても収入の80%程度が授業料であり、当時の授業料55円レベルが府立中学に対して高いのかどのような位置関係にあるのか別途調べてみたいと思う。

・ ちなみに歳出の部では教職員俸給が43260円であり歳出全体の77%となる。今日の学校経営での重要な判断数値となる「帰属収入に対する人件費比率」という見方でみると帰属収入は府の補助金を入れて55500円となり人件費比率は78%となる。

・ この数値をどのように見るかであるが平成21年度の全国平均が65.6%、大阪府の平均が71.5%、であるから当時の教職員の給与は少なくとも安くはなかったと言える。大正15年の教職員の数が正確ではないかもしれないが卒業写真から数えてみると31名であった。

・ これから人件費を割ってみると教職員一人当たり月額116円となり相当高い数値であったとも思える。大正15年当時の旧制浪速中学校の授業料が年間55円,教職員の月給が116円と言っても現在価値では一体幾らぐらいになるのであろうか。日本のお金の価値について日本銀行が記録している「企業物価指数」から推定してみると面白いかも知れない。

・ しかしそれにしても大阪府からの補助金の1500円は少ないと感じる。現在における補助金比率は30%程度でありこれを見ても今日の私立学校の恵まれた環境が分かると言うものである。昔の学校経営者のことを考えれば橋下改革で補助金が減少する、学校が潰れると騒ぎ嘆くだけでは解決にはなるまいと私は感じたのである。私立の旧制中学を創立した先人の苦労を忘れてはならないとつくづくと思う。


2011年5月24日火曜日

23年5月24日(火)本校の歴史その8「大正時代と旧制中学

A組の卒業生

昭和3年第一期生の卒業アルバム

第一回卒業式の行われた講堂
・ 本校が創立されたのは大正12年である。この大正と言うのは一体どのような時代であったのだろうか。「大正時代について記せ」とは大学入試問題に出てきそうな格好のテーマである。明治と昭和に挟まれたわずか15年の時代であったが、その12年に浪速中学校は創立された。

・ 明治45年が大正元年となるが細かく言えば明治45年(1912)7月30日明治天皇が崩御され、元号が大正と改められた。明治45年は大正元年である。そして大正15年即ち1926年12月25日に大正天皇が崩御されたので元号は昭和に変わった。この15年間の期間を大正時代と言う。

・ 大正時代といえば「大正デモクラシー」を解答に書かないと点は取れない。大正年間には二度も護憲運動が起き、明治以来の藩閥支配体制が揺らぎ「政党勢力」が進出した時代である。尾崎行雄や犬養毅らが指導層として活躍し大正デモクラシーと称されるようになった。

・ 大正7年には「米寄こせ」の米騒動が起き、平民宰相原敬が登場した時代である。とにかく大正3年の第一次世界大戦に日英同盟の義理のために参戦したが結果的に戦勝国の一員になってしまった。これは大正を語る場合のキーワードである。誰もが「大国」を意識したのではないか。

・ 大正時代とはスタートから「良い時代」だったと言える。しかし大正時代を語る場合は大正12年9月1日の「関東大震災」も書かねば解答は減点となろう。本校はこの関東大震災の発生した年に創立された。

・ 我々は今東日本大震災と福島原発で当に「国難」とも言うべき状況下にあるが今から90年前にも酷似した状況下にあったのである。この未曾有の大災害を逆手にとって今日の大東京の基盤を築いたのもこの時代であった。日本は再度立ち上がらねばならないがこのことは別のブログで。

・ さて芸術文化でも大正時代は芥川龍之介、有島武郎や白樺派の人道主義(ヒューマニズム)が台頭した。大正14年にはラジオ放送が始まり、「大正の三大洋食と言われたカレーライス、とんかつ、コロッケ」が出たのもこの時代であった。

・ 言ってみれば「一種独特の雰囲気を醸し出した時代が大正時代」であった。良く人は「明治時代と比較して大正時代を言及」する。私の父は大正8年の生まれで母は大正12年浪速中学校が出来た年の誕生であった。今でも覚えているが明治生まれの祖父とは全く父は異なっていたのを覚えている。どのように違っていたかはこのブログのテーマではないので別途の機会に。

・ 以上のような時代背景の中で浪速中学校、今正しく表現すれば「旧制浪速中学校」は誕生したのである。私はこの機会と思って「旧制中学校」のことを相当勉強した。しかしそれは案外大変な作業であった。それは幕末明治維新以来の日本の教育制度と歴史を頭に入れなければならないからである。

・ 教育は当に「国家百年の体系」というが、今日の我国の教育制度と教育の成果を考えた時に私は明治新政府の果たした役割の大きさを思わざるを得ない。当に今日の日本の繁栄に繋がる教育制度の改革こそ「坂の上の雲」そのものであったと考えるのである。

・ まず「旧制中学校と旧制中等学校との違い」を理解しなければならない。旧制中学校とは戦後「学校教育法」が施工される前の日本で男子に対して中等教育(普通教育)を行っていた学校の一つである。通常、誇りを持って「旧制中学」と称されることが多い。明治時代には「尋常中学校」と呼称した時期もある。本校は誕生以来「浪速中学校」であり、旧制中学である。
・ これに対して旧制中等教育学校とは旧制中学校のみならず、高等女学校、実業学校(農業学校、工業学校、商業学校)をも包含する概念である。約して旧制中等学校と称されることもある。即ち旧制中学と旧制中等学校は根本的に異なるのである。
・ 旧制中学は明治19年の「中学校令」に基づき各都道府県に少なくとも一校以上の規定で設立され前述したように「第二次世界大戦後の学制改革」まで続いた。入学資格は「尋常小学校」を卒業していることであり、修行年限は5年間であった。

・ 中学校令は明確に授業内容を規定しており1931年までは中学1年から3年までは国語、漢文、外国語(英語、ドイツ語、フランス語)で全時間の半数を占め、他に歴史、地理、数学、博物(動植鉱物)修身、図画、唱歌、体操があり4年から5年で物理、化学、法則、経済が加わり、図画唱歌の代わりに数学の比重が高かった。

・ 何と素晴らしい教育内容であろうかと私は思う。旧制中学はその後明治32年に中学校令の改正でもって「男子ニ須要ナル高等普通教育ヲ為スヲ以ッテ目的トス」として「エリートの登竜門」としての役割を真正面に出したのである。

・ その背景としては男子は農業・工業などの産業従事や兵役といった事態に対しての即戦力なる者が多く求められて必ずしも「旧制中学へ進学」と言ったエリートコースを制限せざるを得なかったのである。これは極めて興味ある施策であった。

・ 確かに明治時代の旧制中学進学者は華族、士族、地主、そして新しく誕生したブルジョア階層に限られていた。ところが良い時代である大正時代になると中学進学熱が一般市民の間にも広がってきたのである。

・ 特に前述した第一次世界大戦の戦勝国になった後、都市住民の子弟の中学校、高等女学校、実業学校への「進学熱」は急速に高まり「学校不足」の状態になり旧制中学、旧制中等学校はドンドンと誕生したのである。

・ 文部省発行の「学制100年史」によれば明治19年(1886)中学校令の発布された年には全国で中学校が56校、生徒数が1万人しか存在しなかったが明治33年(1900)には194校7万8千人になり、明治43年(1910)には302校、11万人と明治の後半25年で学校数は6倍、生徒数は10倍に急増したのである。

・ この背景には教育機関の整備拡充や学歴の価値が次第に社会に浸透していたことを示す。言ってみれば士族や官吏だけでなく富裕な商人や農林漁業従事者の子弟まで「成功熱」や「立身出世主義」が拡大していたことを示す。

・ この流れは大正時代になっても更に拡大を続け企業も官公庁も組織の中堅を担う人材としての「中学校卒」を求めた。高まる高等教育機関への進学熱に対して政府も遂に大正2年に教育調査会、大正6年に臨時教育調査会などを設け遂に「大正8年に中学校の量的拡大策」を打ち出すなどした。このような時代の大正12年に旧制浪速中学校は誕生したのである。

・ 大正12年入学した204名の浪速中学校の生徒は元号をまたがり、昭和3年5年間の修了を終えて一回目の卒業式を迎えた。しかしその数は148名であった。その他第4学年終了後「上級学校ニ進学セシモノ6名」とあった。6名の進学先は高知高等学校、龍谷大学、中央大学、関西大学、大谷大学、浪速高等学校(大阪大学付属)であったと記録にある。






2011年5月23日月曜日

23年5月23日(月)学校サマータイム





部屋の一部の照明を消してスタンドを使っています
・ しかし「感無量」である。今から4年前平成19年に中学校校長となった時にも同じように見送りに行ったがその時は男子中学最後の学年で生徒数も30名であった。あれから5年目3クラスで男女共学100名を超える生徒数の学校に育った。来年は120名となる。
・ 私自身は中学の修学旅行の付き添いは2年おきとなっている。別に考えてそうしているのではないが結果的にそのようなことだ。結構体力を消耗する。全責任は中学教頭で付き添い教員が6名、それに添乗員が2名と看護師さんが付いてくれる。



・ 私は本校の修学旅行先には自信を持っておりこれを最初に始めた人々に敬意を表する。中々中身が濃い。私は手を加えたのは「種子島」を入れたことと「カヌー下り」を廃止したことだ。これは危ない。最初見たときにはびっくりした。
・ 鹿児島の「知覧特攻記念館」と世界自然遺産に指定されている「屋久島の大自然」は圧巻である。必ず生徒の心に何かを残してくれるはずと確信している。本当にこれは素晴らしい。天候と体力によるが「縄文杉登山」は最高だ。今回も天気に恵まれることを祈念するばかりである。

・ 学校に戻って来たら中学の関大コース長が部屋に飛び込んで報告に来てくれた。5月の「外部模試」の速報だが中学2年生とこの4月入学の1年生の成績が素晴らしいと言う。私は嬉しい。関大関連中学には関大中学、北陽中学、高槻中学それに浪速中学とあるが何時もこれらの中学との競争である。胸を借りているのである。
・ 少子化の中で高校への専願者となる優秀な中学生を確保しておくことは極めて重要な戦略でもある。近隣の某私立中学は来年から「募集を停止した」とのニュースが入ってきている。情勢は益々厳しいのである。
・ そういう意味からも浪速中学の生徒の学力レベルは重要な学校判定レベルの一つであり教員の人材にもエース級を投入しているのだ。関大コース長が頑張ってくれており、「この男、とにかく数値で結果を出す」。これは素晴らしい。

・ この良いニュース、早速纏めて31日の理事会・評議員会に報告する必要がある。入試広報室にも活用しなければならない。今年の4月私は入試広報室全員を集めて「檄を飛ばしている」。教員の努力を外部に発信し「小学校6年生を集めて来るのは彼らの仕事」である。
・ ところで我ながら、つくづく私は「勘の良い人間」だと思う。自慢で言っているのではないが、とにかく全てに反応が早いと思う。「敏感」「感性の鋭さ」と言ってくれると有りがたい。だから「感性の鈍い人間」に寛容ではなくなるのである。私の欠点である。
・ この夏の省エネとして「学校として何が出来るか」検討するように副校長に指示を出したのが先週の初めであった。今の季節気候は一年で最も快適な時期である。しかし問題は今年の夏だ。

・ 今年の夏は一体どのような「電力事情」になるのか現段階ではさっぱり分からないが毎日読む新聞情報などから大阪地方も大きな影響を受けると想像するのである。中部電力の浜岡原発は管総理の要請を受けて全面停止となった。今は良いだろうが夏場には関西電力から中部電力への応援があるだろう。
・ 又関西電力の福井県の原発は6基が検査で停止しており福井県は安全対策が不十分と再稼動を認めていない。そこへ持ってきて更に2基が検査に入ると言うからトータル13期の原発のうち8基が停止だ。原発の電気は殆どが関西圏に供給されているから、大きな影響が出るのではないかと誰もが思うのは当然だ。
・ 今のところ関西で「計画停電」などの話は出て来ていないが、その前提として「各事業体」や「各組織体」が具体的な「省エネ活動」でどれくらい消費を抑えられるかにかかっていると思う。

・ 「電気をこまめに消す」などは当たり前で私は既に執務室の天井照明は使わない部分は消灯し小まめに電気スタンドを活用するようにしている。学校の教職員の省エネで言えば職員室の照明、適切な数の冷蔵庫、それに大きなポイントは「パソコン」だ。
・ しかしやはり大きな電力消費は「エアコン」だろう。これは大きな消費である。公立高校も私立高校も「エアコンの電気代」を保護者から徴収しているが、一度エアコンの使い方を検討をしなければなるまい。場合によってはお金をお返ししてでもエアコンを止める場面があるかもしれない。

・ 私は教務部長を呼んで7月から9月にかけて「学校サマータイム」の導入の検討を指示した。要は1限目の授業開始を早くしてその分午後早く授業を終了させるのである。又一日は最大5限までにして不足するのは長期休業期間を短縮して取り戻すのである。
・ 早速昨日の夕刊には関西広域連合が「サマータイムの導入」に積極的な動きと出てきた。各府県の公務員が1ないし2時間の早出で仕事をして早く帰るフレックスサマータイムは今年初めて実現するのではないか。

・ 我々は今年は例年より2週間早く生徒の夏服への切り替えを許可したし、教職員の「クールビズ」も早めている。教職員も涼しい姿で業務を執行する代わりに教室や職員室のエアコン温度は当然制限される。
・ 家庭生活でも省エネの工夫は必要である。私は昨日部屋の白熱電球を「LED電球」に切り替えるべく大型量販店に行ったが大変な人出であった。又LED電球の値段が高いのにも驚いた。
・ 今年は部屋のエアコンも絞ろうと考えて「扇風機」を見に行ったがここもものすごい人出で「品不足」となっていた。21日の朝日の記事には某電気店ではLED電球が2倍、扇風機は3倍の売り上げになったとあった。誰しも考えることは同じなのだ。

・ 今年の夏は人それぞれが事情に応じて暑さ対策と省エネ作戦を考えねばならない。そのような状況にあって私は「学校全体の省エネ作戦」を本校らしく先手を打って始めたいのである。
・ 最後は強制力しかないだろう。今年の夏の「ふくろうスタジアム」の夜間照明は10月末までは点灯禁止にするとか武道館の閉館時間も早めるとかするということだ。そのためにも学校サマータイムが成り立たないのか頭を使っているのである。



2011年5月22日日曜日

23年5月22日(日)本校の歴史その7:「理事長体制」

昭和38年当時の理事体制
前列中央が寶來理事長


寶來正信理事長

・ 大阪府との密接な関係はすでにブログ「本校の歴史その5大阪府との関係」において私は詳述した。相当大きな関与と支援があって本校は順調に歴史を刻み始めた。しかしどうも設置者たる大阪国学院の存在感が薄いようにこのブログを読まれた方は感じる筈である。確かにそのように感じられても不思議ではない。

・ しかし実際は影に隠れて大阪国学院の神職の方々は「血の滲む様な努力」をされていたのである。ただ学校と言うのは今でもそうだがこの時代も「校務を運営する校長以下教職員が主役の組織」であって、設立の母体組織は表立って出てこないのである。

・ 又「神社界の気風」みたいなものを理解しなければならないだろう。特に「神職の気風」については私がこの学校に着任して以来感じているのだが、神社の宮司様は「目立とうとしない」「争いは好まない」「一歩後ろに控える」、しかし一方では「義理人情には人一倍敏感で果たす」ような気風が強い。

・ 神社神道の世界は日本の精神、歴史的バックボーンであり、あえて「神のみこと持ち」として目立つことは避けてきたと思えてならないのである。それが浪速中学校の運営にも少なからず影響したと考えるのは私だけであろうか。

・ 基本的に浪速中学校は大阪府神社界の有している学校であるが、校務運営は完全に校長以下に「丸投げ」して来たと言っては幾分憚りがあるが必ずしも間違ってはいない。そこが「オーナー系私学」と完全に違っている点であり校長の力量で土台が揺るぎかねない危険性はある。

・ 大正12年の創立以来、昭和20年頃まで実に二十数年、歴代の大阪国学院院長は大阪府の「社寺行政主管の内務、総務、学務各部長」が兼任してきた経緯があった。副院長は社寺主管課長が就任した。加えて「総裁」という職位まで設けて大阪府知事がその任に当たってきたことは既に書いた。

・ 即ちトップと実質的な学校運営は社寺主管課長が担ってきたのである。教育課程も教材選択も、教員配置も確かに神社界の神職の人々に任せていたら一向に学校の設立は進まなかっただろう。学校の建設には「技術」が要るのである。

・ しかしそれも遂に敗戦によって大きく変わった。年表では昭和20年とあるから間違いなく終戦後神社制度の変革に伴って新たな枠組みが作られたのである。即ち組織変更を行い、院長、副院長制度を廃して「理事長制度」となった。

・ 余談ではあるが「理事報酬は支給しない」として大阪国学院浪速中学校は創立以来スタートした。これは有名な話である。従って今日まで本校の理事者の報酬はない。世の中にこのような私立学校はあるだろうか。

・ 当に神職らしい物事の考え方であると私は感服した。しかし一方これでは責任ある理事職として業務の責任はどなるとの思いもあって私は就任と同時にこの制度を改めようとしたが結果的に受け入れられず現在に至っている。強いご辞退である。

・ ただ私自身は神社界とは無縁の者であり、外部招聘の理事長であるから無報酬ではない。無報酬なら来る訳がない。当然の事であり、「適切な報酬に見合う仕事を遂行し必ず結果を出す」ということが民間人の私の責務と考え今日まで来ている。

・ ただ理事・評議員の各位には報酬はないが年に5回程度はある理事会・評議員会の出席においては「費用弁償」として「日当」を出すことだけは認めて頂いた。そしてご退任の時にも些少で恥ずかしいのだが「記念品」を贈呈することとした。それも私の代からでありそれまでは一切そのようなものはなかったのである。

・ とにかく大阪府からの直接的運営から離れて本校は昭和20年敗戦と同時に、言ってみれば「大阪府から独立」したとも言える。国学院評議員会において理事を選出しその互選によって理事長が決定されたのである。

・ 初代理事長は「寶來正宣」先生と言って後のブログで詳述する名実ともに創立時代から戦前戦後を眺めて来られた「大理事長」であった。実に昭和21年から昭和46年現役でお亡くなりになるまで理事長職を25年間も務められた。尚この寶來理事長のお孫さんが私の前任の理事長であった寶來正彦氏である。

・ 設立当時の国学院役員は以下の通りであった。(敬称略)

  院長:平賀周(大阪府内務部長)、副院長:児玉政介(大阪府地方課長)
  理事:武田充忠、松尾幾太郎、浅香千速、渡辺醇、長谷川熊次郎、奥野勝二
・ 昭和38年当時、即ち「浪速高校40年史」には以下の国学院体制であった。
  理事長:寶來正信、理事:校長平石芳太郎、園 克己、別所貫一、
  それに下のお名前が分からないのだが山畑、薮野、露野、宮脇とあった。
・ 昭和48年当時、即ち「50年史」における理事体制は以下のようであった。
  理事長:園 克己、理事;校長浅田光男、高松忠清、長谷川義高、寺井種茂、
       加藤知衛、田島 瞳、菅尾竜雄
・ 昭和58年当時即ち「60年史」における理事体制
  理事長:足立信治、理事:寺井種茂、校長一ノ瀬博、加藤知衛、田島瞳、江端市松
       岡市正、津江孝夫、玉田義美、丸岡隆二
・ 平成5年当時即ち「70年史」における理事体制
  理事長:玉田義美、理事:岡一正、一ノ瀬博(校長)、加藤知衛、江端市松、友田譲
       若宮房又、若宮春典、寺井種伯
・ 平成15年当時即ち「80年史」における理事体制  
  理事長:寶來正彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、大戸道彦、加藤知衛、森山一正
       平岡公仲、畦地道俊、津江明宏、岡市正規、村上晃美
・ 平成23年現在 恐らく90年史は私の手で
  理事長:木村智彦、理事:寺井種伯、南坊城充興、森山一正、岡市正規、藤江正謹、
       小西靖弘

・ 戦後の話が続いたので話を原点に戻そう。学校が出来たのが大正12年で卒業生を初めて出したのが昭和3年であった。経営的にも苦労があったのだろうと思うが昭和6年5月になって「浪速中学校後援会」が組織されている。後援会組織があると言うのは当時としては珍しいのではないか。その背景を探ってみた。

・ 初代会長は石切神社宮司の木積一雄氏、副会長が今宮戎神社宮司の津江正規氏、会計幹事が福島天満宮宮司の寶來正信氏(後の実質的初代理事長)と記録に残っているがこの組織は40年史の文章によれば「校運の発展とともに解消」したとある。

・ この後援会について前述した寶來正信理事長が40年史に「回想」として一文を寄せられている。「創立後の苦難時代」として当時の状況を次のように回想されている。少し長くなるが転記したい。

 “本校設立者財団法人大阪国学院は当時の社会情勢を憂えて民族精神を基調とする国民教育の必要性を痛感し、一面甚だしい入学難時代であったのでその緩和と言う社会奉仕の一端にもと浪速中学校の設立を企画したのである。

  そこで資金は広く世の篤志家に仰ぐ方針で敷地は各所を物色の末、依羅村から寄付される依羅池(1町2反12歩)を埋め立て、差し当たりの工事費は財団の基金を一次流用して賄うこととし、設立認可を得るとともに仮校舎で発足、授業を開始するというように頓頓と運んだのであった。

  然しその後は予定の資金は計画通りに集まらない。工事は進めねばならぬ。結局資金面に行き詰って抜き差しならぬ破目に追い込まれた。背に腹は変えられず無理な金策が続けられ最後は神社の基本金までも借り入れたのであるが、その整理は永く理事者の頭痛の種となって残った。

  かくて昭和6年頃の本校は大きな負債を荷おうた上に在校生は少なく最も悲況の時代で一本の煙草、一杯の酒を節約して神職大会に建議案を出し後援会を造ったのも子の年であった。“

・ 以上のようは経済的困窮から大阪府神社界は浪速中学校後援会が出来たものであり、我々今の浪速に生きるものとしてはこのような時代の中で如何に多くの人々が本校存続のために辛酸をなめて努力されてきたのか忘れてはならない。


2011年5月21日土曜日

23年5月21日(土)新校舎への夢が膨らむ



現在の北館窓から入る日差しが優しい


巨大な鉄骨
・ 新校舎は「高層ビル」形式とする。虎の子の運動場をこれ以上狭くはしたくないからだ。理由のもう一つは今の校舎の有る場所に「近接して新校舎を建てる」ことになるからあちこちに分散する郡有校舎(?)は考えられないからである。

・ 集中し「巨大な校舎を二棟」まず作ることから始まる。残念だが「中廊下方式」とせざるを得まい。理想的には「片側廊下方式」が「採光」や「風通し」から良いのは分かっているが「背に腹は変えられない」のである。採光や風通しは「設計によって工夫」が可能である。

・ それにしても今私の執務室がある「北館」はもう40年以上の建物だが天井が高くて窓が大きくて光が一杯に差し込んでくる。この光景を見ただけで何か「心も体も生徒は健康」になりそうな校舎であり、新校舎も何とか「光と風に富んだ校舎」としたい。

・ そうだ、キーワードは「光と風」だ。近い内に設計者との面談があろうがその時にこのブログを読んでいないような設計者は「失格」だ。施主の思いを大切にするような新進気鋭の感度の良い設計者を期待している。

・ 本校はお金持ちの学校ではないから「安藤忠雄先生」みたいな立派な有名な建築家にはお願いできるほど余裕はない。だけどまだ世に出てはいないが才能に満ち溢れた若き建築家は要る筈である。私は担当に洗心亭に古事記の世界を描いて貰った画家先生みたいな人を探して来てと言っているのである。

・ 新校舎建設チーム員が大阪市立西高校を見学に行ってくれ、その報告を聞いた。大いに示唆を得た。こころから西高校には感謝申し上げたい。ところでこのチーム長のY教諭は大変立派な教師なのだが時々「足らない面」があるのでその都度私は指導している。本校の将来の幹部候補の一人であるからだ。

・ 候補はそれ以外にも一杯いるので単なる候補なのだが、私は特にそのような候補者には厳しい指導を加えている。今回も「視察報告」と出張報告書にあったが、この視察報告と言うのは頂けない。その昔私が企業時代にも同じようなことで上司から指導を受けたことがあってその分余計に敏感になっている。

・ 「視察」とは上司とか大学教授と社会的にも高い地位にある人に「観て貰って考えて貰う」ことを言うのであって「高層校舎を見せて貰って勉強する側の人間」が使う言葉ではない。ここは「見学」でなければならない。「見学報告書」である。

・ このように教員と言うのは基本的に「書いたりするレポートの類は苦手で表現方法も下手」である。こういうと社会の人々は「エー、学校の先生が報告書や表現方法が苦手ですって」となろうが実態はそうである。

・ 本校では厳しくレポート提出を義務つけているから、かならかなり教員も訓練されてきたが未だに学校によっては報告書やレポートの類など書く機会の少ない教員はおおいのではないか。

・ しかしこの市立西高校の教室レイアウトは大変参考になった。私の胸に「ストーン」と落ちるような感じがした。私はチーム員に指示した。「後2ないし3校高層校舎の学校を見せて頂いて勉強するように」と。

・ 課題はエレベーターの数となろうがこの西高校では生徒には使わせていないと言うが本校では使わせたい。だからエレベーターの数と階段のレイアウトが勝負となってくる。エレベーターの数が3台とすれば内1台は大型のエレベーターで30人は乗れる人・物兼用エレベーターだ。後の2台は教職員と来客用それに生徒も可能とする。

・ 採光は一般教室は必ず何処か一壁面は外部に面していることが絶対条件である。いろいろと考えていくと本当に嬉しくなってくる。夢が膨らんでくるのだ。早く立派な、人々が「あっと」驚くような校舎を作りたい。

・ ポイントは特別教室の配置だ。LL教室、家庭科調理実習、被服実習室、音楽ホール、美術,書道の実習室、それに理科実習室が入る。本当に必要なら社会科教室も要るだろう。それが「普通の学校」なのだから。

・ 西高校も屋上に25メートル、6レーンのプールを設置していた。これも我々は入れなければならない。7階建て屋上の「天空プール」である。生徒は喜ぶのではないか。西高校は市内に有るから「外部から水着姿を見られる」と言って神経質になっていると聞いたが本校周辺には高層ビルマンションはないから問題はない。

・ 予てから問題提起していた家庭科の「被服実習」について「指導計画」が出てきた。本日2名の家庭科教員と高校教頭、高校教務部長で最終的に決定した。そのために「ミシンを25台購入」することとした。

・ 共学になって5年、ボツボツ家庭科教育など「形を完成」させなければ駄目だ。昔は「洋裁実習」などと言って「針の縫い方」など教えて貰い、私は今でも自分でボタンなど付けられるが今の男子生徒に至ってはさっぱりである。

・ 又武道館の広間「洗心亭」において「お茶の実習」をしてくれると言う。私は茶道のスタイルで正座させ「お抹茶」でも飲ませたらどうかと言ったのだが当面は「おいしいお茶の入れ方を学ぶ」と「日本茶の種類を教える」という。まあそれで結構だろう。

・ 私はどうも英国数社理の基本5科目も当然だがそれ以上に芸術や家庭科、保健体育などの授業を重要視している。この辺に感性のない人間では駄目と思っているからである。文武両道の文とはこう言う面での感性ではないか。ただ体育科には教員体制が揃っているが芸術のうち音楽と書道、家庭科にはまだ正職員の先生がいないのは私の責任である。

・ クラブの部室工事が佳境に入ってきた。思った以上に巨大な建築物である。想像を超えた鉄骨の枠組みである。一階の「カフェテリアと学びの広場」がポイントである。素晴しいものにしたい。出来あがったらいよいよ新校舎建設の準備作業に入る。益々ムードは盛り上がってくるだろう。


2011年5月20日金曜日

23年5月20日(金)浪速学院のパラダイムシフト

・ 「人材育成・評価システムの22年度結果」がまとまり、熟慮し最終結論を出した。結論が出れば即刻教職員に通知する必要がある。本日午前中に「副校長立会い」で該当教員に部屋に来てもらってお話させて頂いた。

・ 18年度から検討を着手し19年度システムを完成、20年度試行、21年度本番但し50%反映、22年度本番100%反映と手順を踏んできたものである。プロセスの瑕疵はない積りだ。

・ 頑張っている教職員への応援歌として「処遇に反映」する。具体的には「AA,A,B,C.Dの5段階評価」で標準評価はAである。A評価であれば職務に応じて適切な遂行と言う評価である。

・ AAは特に顕著な業績があった人に対するもので、同様にB評価は「もうちょっと」頑張って貰わないと困るという「全体を俯瞰」しての評価である。特に最後は同世代間を横並びして眺めるがあくまで目標に対して成果がどうだったかが第一義的には来る。

・ 「総合特記事項」という欄に業務目標とは異なる業務姿勢、服務等々がくるがこれはあくまで参考である。ただ目標は達成したが「服務はでたらめ」では高い評価にはならない。これは当たり前だろう。

・ いずれにしても公立の教職員が既に常態化している評価システムが私立学校の本校で100%本番化したのは誠に喜ばしい。私としては相当時間をかけてここまで来た。全ての仕事が手早いと言うわけではない。「じっくり構える」ところはこのように構えていくのである。

・ 高い評価を得た先生は当然私の通知に対して「破顔喜び」の雰囲気であったが「頑張った甲斐があった」と思われているに違いない。低い評価が与えられた先生は些か落胆の様子であったが「捲土重来」を期して今年を頑張って欲しい。

・ 今までは教職員の世界は「評価など無い社会」であった。概念さえ無かった。同期、同年齢であれば男女を含めて1円も昇給が違わず、そういう意味では「民主的な社会?」であった。しかしそのことは「本当に正しいことなのか」ということである。

・ 病気で休みがち、仕事のミスが多い、成果は上がらない、プータラ、プータラ文句ばっかり言って、休暇は多く、遅く来て早く帰る人と生徒や学校のために陰日なたなく粉骨砕身頑張ってくれている教職員が全く同じと言うのが「おかしい」のであって戦後60数年日本の教育界はここが問題であった。

・ 23年度は浪速学院にとって「パラダイムチェンジ」の時となった。大袈裟だし不遜だがミニ・ミニ・パラダイムチェンジと言いたい。パラダイムとはご存知のようにその時代や分野において今までは当然、常識と考えられていたことが外的、内的エネルギーによって認識、価値観などが「革新的」「革命的」に「ドラスティックに」変化することを言う。

・ 大震災以降とみにこの言葉が出てきている。パラダイムシフトとも言うがまさしく本校は22年度から23年度が後世「価値観の変わった時代」と言われるだろう。多聞尚学館、ふくろうスタジアム、武道館と「教育トライアングル」が完成し、遂に「新校舎建設へのトリガー」に指がひっかかったのである。

・ そのような「教育施設ハードウエアの劇的変化の中で人事評価というソフトウエア」が回転し始めたのである。又多くのベテラン教員が去り今や半数が勤務3年未満の若い集団に衣替えした。このような時を如何に捉えるかであろう。「昔の浪速は遠くなりにけり」だろう。


・ 東日本の大震災で我々は戦後初めて「計画停電」なるものを突きつけられた。スーパーから物がなくなるということを経験した。駅のコンコースは薄暗くなっている。大自然の前には全く人間は無力だと言うことを知らされた。
・ 政治家がまったく役に立たないということを我々は知った。東大出のエリートは緊急時全く役に立たない人間だとも知った。間違いなく3.11は日本のパラダイムシフトを促すだろう。

・ 大切なことは「認識の仕方」「考え方」「常識」を高めると言うことである。勉強しなければならない。特に学校の教員はそのことが重要である。昨日も書いたが橋下知事は今朝も新聞紙上で叫んでいる。
・ 公務員に「個人の思想信条など関係ない」「起立しない教員は処罰する条例」を作ると意気軒昂である。彼がこの3年間大阪府でやったことは当にパラダイムシフトであろう。良い、悪いの議論ではない。行政府の長の変化で従来の大阪府の常識が一つ一つ覆されているのである。
・ 早速教職員組合は「知事はファッショだ」と言って批判しているがこのファッショと言う言葉さえもう古臭い。こういう感覚だから駄目なのである。よく言われる言葉に「君主専制的リーダー」「ボトムアップ型放任主義リーダー」「民主的リーダー」とか人は様々にリーダー論を展開するがリーダー論などはない。

・ 放任主義リーダーなど有り得ない。皆の意見を聞いて最大公約数の答えを出すリーダー、後は任す、責任は俺が取るなど一見格好良いリーダーなど色々あるがこれらなどはリーダーでもなんでもない。ただ組織の御輿に乗っているだけの人間である。

・ 「リーダーとは一般の組織の人間とは全く別次元で最終決定する人間」のことを言う。成功も失敗も全てを最終決定する人間のことを言うのだ。そこには深く裏づけされた研究と情報と見識と胆力が必要である。孤独な決断をするのがリーダーである。リーダーとはそういうものだ。人の言うことを聞いて決めるなどリーダーではない。

・ 学校社会において果たして真の意味でリーダーが必要なのかどうなのかは分からない。「校長がリーダーたるべし」と言うのも「言うが易く行うが難し」である。一般教員から30年経って「ハイ、校長に成りました。今日からリーダーです。」というのは本当にあり得るのかという疑問もある。

・ しかし社会も地域も組織も学校もこのような変化の中で時に「外部の力でパラダイムシフト」がなされているのであろう。内部エネルギーでパラダイムシフトは起こり得ないのではないか。平成23年のパラダイムシフトは「地震と津波」によってもたらされた。

・ 浪速学院は平成19年から23年にかけて教師出身でない一人の強烈な個性の人間によって「パラダイムチェンジ」がなされているのはほぼ間違いなかろう。浪速の内部の力では何ともならなかったのである。時に組織の変革には「外部の力」が必要である。


2011年5月19日木曜日

23年5月19日(木)クラブの部室

クラブハウス工事順調

硬式野球とサッカーの更衣室の場所を探す

前方に見える建物を解体

ロンドン語学研修を自ら説明

PTA総会でもロンドン語学研修を説明
・ 前にも書いたがPTA総会が済んでようやく学校は「旧年度の香り」が去っていく。全てが新年度の体制となるからだ。本日から中学は中間試験で明日から高校も始まる。このように本当に学校の行事というのは上手いこと、考えているのだ。

・ PTA総会が済んで私は「人間ドック」に入って体のあちこちを診て頂く。この結果を見て今年1年の気をつけるべきことなど頭に入れるというと格好良いが実際はそうでもなく流れに任してしまうことが多い。

・ 運動、食事、睡眠などいちいち「これはどうだ、あれはどうだ」などと気にしていたら生きては行けない。しかし年を取ったから正直言って気になるのも確かだ。何とか後5年現役で頑張って「新校舎」を自分の手で完成させてやりたいと思っているからである。

・ 新校舎建設チーム長から新設するクラブハウスの「部室当てはめ案」なるものが出てきた。今まで数回押し戻してきたが、大体「この辺だろう」と思う。これをベースに次の段階に入ることになる。

・ 全体で「22個の部室」が出来る。一部屋の大きさは14,38㎡であり、今のハウスの大きさと変わりはない。要はこの22の部屋にどのクラブを当て嵌めるかと言う課題であった。

・ 当初は硬式野球、ラグビー、サッカー、アメリカンフットボール、軟式野球など強大クラブだけで22部屋の半数以上を占有すると聞いて私は「これは違う!」と言って差し戻した。

・ まず「自治会用に一部屋は絶対」である。次に校長判断で「軽音楽部に二部屋」を与えることとした。原案ではなかったが私は「これほど生徒に人気のあるクラブ」なのだから「仕方がない」と判断した。

・ 部員数は85名で一人当たり0.34㎡となる。この数値が標準である。この部屋は防音仕様にするからコストはかかるが先行きを考えたら必要と考えた。浪速祭やクラブミニ展示でも活躍してくれるクラブだ。

・ 個人的には何を演奏して何を歌っているのかさっぱり分からないが、それでも配慮してやる必要がある。将来新校舎が出来て、音楽室でも利用できるようになれば、その時には他の目的に使用できる。第一「防音部屋」が一つくらいあった方が何かと役に立つ筈だ。

・ 基準は最低でも部員が20名以上のクラブとし、基準に入らない場合は「共同使用」とすれば良い。そして大きなクラブに育ってくれば独立して一部屋与えるのが上手いシステムではないか。

・ 今回の特徴は「中学生」に独立して部屋を与えることだ。「中学軟式野球、中学サッカー,中学テニス」はそれぞれ一部屋与えるが陸上や水泳は高校との混合部屋とした。これは指導教員の関係からである。水泳部は新校舎でプールが出来ればそちらに移るだろうからそれまでの辛抱である。

・ 文化系クラブの囲碁将棋や鉄道研究会などは混合部屋で十分間に合う筈である。実際の作業などは教室を使えば良いのであってクラブハウスと言っても「ちょっとした物入れ倉庫」なのであろうから。

・ 問題は巨大クラブの硬式野球部とサッカー部だ。これについては別に「ロッカールーム」が必要であり、設置することとした。なるべく武道館や部室に近いほうが便利と考え、あれこれ場所を検討し本日最終的に決めた。

・ 丁度良い場所があってそこに簡便な2階建てのプレハブハウスを置けば両部には大いに助かる筈である。これで22部屋のうち4部屋が余った計算になる。これで良い。大体物が出来たら全てを最初から埋めるというのが一般的な考えだがこれはいけない。

・ 一旦渡したらその時から「既得権益」となって「出て行け」とは言いにくいものだ。だから最初は「余裕というか予備を持っておく」ことがポイントなのだが教員の中にはこのことが分かっていない人がいる。私は今日も新校舎建設チーム長に「注意」した。

・ ところで新校舎建設チームは本日午後市立西高校を見学に行く。この学校は平成6年に7階建ての高層校舎を完成させている。でその「使い勝手」などを聞き取りに行って勉強するのである。大変結構だ。

・ さて次の大仕事は「旧校舎の解体作業」である。まず旧剣道場と柔道場、ならびに旧弓道場と現在の部室、カフェテラスを解体しなければならない。これは時間があるので「ゆっくり、じっくり」解体してくれれば良いと思っている。

・ 大手の会社が重機を使って「バリバリ」と短期間に更地にするほど焦ってはいないので、コストを安くするためにどのような方法があるのか検討させているところである。小型ダンプカー一大とブレーカー一台で「毎日こつこつと」やってくれる「個人業者」でもいないかなと、そのようなことを思っているのである。


・ 先般高校1年生対象に「英国語学研修」の説明会を実施した。担当の要望によって私も直接その意義などを生徒に説明し、その二日後のPTA総会においてもわざわざ保護者に狙いなどをご説明申し上げた。何か旅行会社の担当みたいでやりながら複雑な思いもしたが・・・。

・ それで本日担当に「今のところ希望者は出てきているかね?」と聞いたところ、なんと「すでに40名を超えております」というではないか。皇太子のご結婚と言う節目とロンドンと言う名前が効いているのか。

・ 「ウーン」、これは困った。「嬉しい悲鳴」と言うところである。「物見遊山」や「修学旅行」ではない。ロンドンに送る生徒数は20名程度と考えており、果たしてどうしたものか。まあもう少し様子を見ることにする。


・ 今年も「地区ロータリークラブ主宰のインターアクト海外研修」について案が出てきた。8月上旬にマレーシアとなったそうだ。昨年は韓国と言うことで雅楽部を特別に参加させて貰った。
・ 有り難い話であるが毎回毎回同じメンバーと言うわけにはいかない。初めての生徒となると高校2年生で2名しかいない。高校1年生ではまだ活動実績はない。それに付き添い教員の問題もある。
・ 本日担当が来て「今年はXX先生が行くことになります。」というので「誰が決めたの?」と聞いたら「私が決めました・・・」と言ったところで顔色が変わった。新卒でまだ本校での経験が2ヶ月の常勤講師を海外研修の付き添いに行かせるなど聞いたことがない。私はこの教諭を厳しく指導した。

・ とにかく「教員と言うのはこういう面では信じられないような行動をする人間がいる」のだ。「自分にはここまで決定できるが、ここからは私の裁量範囲ではない」と思いが行かない人が多すぎる。先にも修学旅行の下見の人物を主任が勝手に決めて、決められた本人が私のところに来て超驚いたことがある。結局全く別の人物が下見に行った。
・ 要はこの辺の「考え方の常識に欠ける」のである。いや考えていないのである。この事件は以前にブログにも書いたが今日の教員はこれを読んでいなかったのか。私はこのような教員を相手にするのが疲れる。マア仕方がないので一つ一つ教えて行くしかないと諦めているのだが先は遠い。