2011年5月18日水曜日

23年5月18日(水)本校の歴史その6:「初代校長大里猪熊先生」



・ 初代校長事務取扱の大島鎮治先生は1年と言う短さで初代校長「大里猪熊」先生へバトンタッチされた。見事な引継ぎであったと思う。前のブログにも書いたようにこの人事は「予定の線」であったに違いない。タイミングからそのようにせざるを得なかったのではないかというのが私の想像である。

・ 新設の中学校の開校に当たっては初代校長として本格派のエース級先発投手を投入するものと誰もが普通に考えるが実際は事務取扱として行政官をたった一年間だけ据えたのは背景があってのことである。私はそこに大阪府の考えを感じる。

・ 周年誌を深く読んでもこの初代校長事務取扱の大島先生の1年と言う短期の交代については何処にも理由の記述がなくただ淡々と事実のみ書かれている。これは当に「人事の妙」である。極少数の人間しか知らない人事の話であるし経緯など全く関係ないという組織論理があの時代にも通り相場であったことが逆に私には興味がある。

・ 大正年間の大量中学校増設時代には私立中学校と言えども「私学は私学で自由なように」とは行かなかった。用地買収から肝心な教職員の手配まですべて大阪府の強い行政指導があったに違いないことは前号のブログその5「大阪府との関係」で記述した。

・ しかしいずれにしても浪速中学校は大正13年5月30日に「大里猪熊」先生と言われる本流の校長先生を得た。この大里初代校長は昭和6年1月28日まで奉職されたから、7年間の勤務である。退職の理由は50年記念誌の「回想50年名誉校長平石芳太郎」の中に「ご病気で辞任」とあった。

・ 普通の場合、学校の校長は1月28日などの中途半端な時には辞めないものだ。それは卒業式などがあるからであるが、初代校長大里校長は「自分の育英事業最後の所として浪速中学校を忘れない」との言葉を残して退職された。

・ 期中の校長辞任で校長不在となった浪速中学校に大阪府は、またまたと言うか急遽事務官「奥村泰助」氏を校長事務取扱に任じ同年即ち昭和6年4月11日まで約70日間強勤務させた。このことについては又別のブログにおいて言及したいと思う。尚この奥村氏は後に豊中市の名市長と言われた人物である。

・ とにかく創立2年目、大正13年に浪速中学校は素晴らしい校長先生をお迎えした。「初代校長大里猪熊」先生。素晴らしいキャリアをお持ちである。名門旧制府立富田林中学校長時代から「燕尾服に乗馬」姿で登校された。そしてこれまた名門旧制市岡中学校長を経て揺籃の中にある浪速中学校に着任されたのである。

・ 「国家経綸の国士」を教え、故郷熊本城に扁額を掲げるご尊父の血を受けて東京大学哲学出身の謹厳なる風貌にして人格高潔なまさしく立派な教育者であったと記念誌にはある。お顔の写真を拝見してもそのように感じる。

・ 私はこの大里校長を初代の校長にお迎えすることが出来た「浪速の幸運」を感じざるを得ない。これ以上無いくらいの立派な校長先生を頂いた本校の校長歴史は以後燦然と輝くことになる。「学校の格は校長の格」である。私を含めて現代の校長と明治、大正時代の校長とは「ものが違う」のである。

・ 40年史、50年史、60年史から大里校長に関する記事を抜き出してみると「どのような先生であったか」一目瞭然で分かる。このように書き手の私は当時の大里校長を見知っていた人物の回顧録から「どのような人物であったか」を想像するのが無上の楽しみであり、イメージを膨らませていくのである。

・ 大正12年入学の一期生の一人は以下のように回顧している。“現在の母校の場所に校舎が移ってからは市岡中学の校長を定年退職されて母校の校長となられた大里猪熊先生が教材も見ず始めから生徒を見ながら淡々として修身を担当口述されていく姿は丁度頭の中に収めた糸の塊から一条の糸をするすると引き出してこられるようであってその一字一句が極めて無駄なく説かれた説教は私ら生徒にとっては又とない価値ある精神教育であった。”

・ 又二期生の一人は以下のように述懐している。“確か一年か2年の時、大里猪熊校長先生の修身の時間に「何でも良いから人に優れたものを持ちなさい」と言われたが、自分では何が優れているか、何が優れているか分からない。或る日私が名前を掘り込んだ切り出しナイフを持っていたのを校長先生が見つけて「この名前は貴方が彫ったのか」と尋ねられ、『違います』と答えたら先生は何だか期待はずれされたような感じだった。”

・ 同じく2期生の一人は“あの頃の先生方は個性的な、ひとかどの人物が多かった。謹厳で書が上手く、美術にも理解の深かった大里校長をはじめ、情熱家だった数学の平石先生・・・”。

・ 又二期生の一人は当時の教師と生徒の関係を彷彿とさせるような記事を残してくれている。「大里校長と平石先生と淡輪に釣りに出かけたが朝早かったので車内で居眠りをしたのだが大里校長の腕の中で抱いて寝かせて戴いたことが忘れません・・。」とある。

・ 3期生の一人は以下のように大里校長について触れている。“木下という友人と講堂に入り講堂備え付けのピアノで当時の流行歌「道頓堀行進曲」を弾いて校長先生に見つかり、校長先生と担任の平岩先生からきついお叱りを受けました。”とあった。

・ 4期生の一人は“当時の校長は大里猪熊氏で押しも押されもしない、見るからに立派な人格の名先生でした。・・・”と冒頭書いている。50年史の時代は昭和48年当時であり卒業生も齢80歳を超えているご老体であるからそこは斟酌しなければならないがこの卒業生の一文からも如何に立派な校長であったか分かるのである。

・ 浪速中学校そして浪速高等学校のDNAはこのような立派な初代の校長先生と教師によって成長してきたものだと確信した。前期の4期生は“どの先生も一芸一能に達せられ、信念を持ったかたばかりで魂を打ち込んで教わったことを肝に銘じています。」とまで書かれている。

・ 最初の一期生は昭和3年に卒業して行くのだがその「卒業アルバム」を私は入手した。表紙をめくると大里校長による「漢詩」が揮毫されていた。素晴らしい字である。この詞も自らの作である。如何に教養深き人物であったか分かる。

・ そして私を感動させるのは2ページ目に正門と旧「梅田高女」から移設された本館と一緒に初代校長事務取扱の大島鎮治先生の写真をいれておられるのである。そこに私は「武士道の精神」を感じるのである。極めて貴重な一枚である。