2011年5月6日金曜日

23年5月6日(金)本校の歴史その3:「創立時の教職員と第一期生」

・ 本校の歴史その1「創立記念日」、本校の歴史その2「3人の恩人」において創立時の校舎を中心として歴史を振り返ってみた。本日は「その3として創立時の教職員体制と生徒たち」について纏めてみたい。

・ その2において記述したように財政難の中で相当資金面で苦労した本校の校舎はすべて他校の古い校舎を譲り受けたものであった。それも一度に移設したというわけではなくて「徐々に頂いた」というのが正しかろう。

・ 大正12年7月旧大阪国学院の校舎の移設から始まって大正13年6月に旧梅田高女から受けた本館の移設で一応の校舎郡は整ったことになる。1年かけて移設し、これらの校舎は昭和9年の室戸台風で壊滅状態になるまで使われたのである。

・ これらの校舎について貴重な写真が一枚あるが、見事なまでにに学校の周辺には何もない。これらの情景を具体的に記したものがやはり50周年記念誌にあった。座談会「50年の歩みの中で」からその一文を切り出してみる。

・ 司会者が言う。「当時は高野線と阪堺線だけであったと思いますが、学校の周囲はどうでしたか」という問いかけにある人が答えて、「その通りで学校の周囲は田ばかりで白鷺が飛んできたと聞いています」。

・ 又別の出席者は」「阪和線が出来たのがその後の昭和2年頃だったと思います」「学校のまわりは墓と田ばかりでした。」そして次の文章である。この座談会の会話録の中である卒業生が次のように書いてあるのだが、正直な印象だったのだろうと私は思った。これも書いておかねばなるまい。

・ この方は初代の大里校長が就任された年の入学とあったから多分2期生だと思う。初代の校長事務取扱の大島鎮治先生がご退任されたのが大正13年5月30日で同日初代校長として大里猪熊校長が着任されていることから第2期生と想像するのである。

・ 創立当時の校舎の雰囲気と生徒の印象を上手く表現しているのではないかと思う。「前略:私の入学した頃の校舎はバラック建てのような女子の校舎をそのまま持って来て、みっともない校舎でありましたが、先生は皆立派な方で楽しく勉強できましたことを今になって大変喜んで居ます。後略」

・ 一枚の創立時の職員の写真があるがこれは貴重なものでバックの建物は旧大阪国学院の校舎であるが、その前に8名の人が写っている。前列中央が大阪府から来られた校長事務取扱の大島先生である。それ以外のお方のお名前は判然としない。

・ しかし右上の「浪速中学校の看板の文字」や先生方のお姿に時代を感じる。8名のうち「口ひげ」を有したお方が5名で和服姿は2名、他の方は流行の背広姿で一名は詰襟姿である。

・ 大正末期に日本には「サラリーマン」という言葉が生まれたと聞くがそのサラリーマンの最高のスタイルが、ちょび髭、チョッキ姿にカンカン帽かソフト帽だったというからその頃の雰囲気がこの写真からも伺えるのである。

・ 大正12年4月30日に沢之町の旧工場の建物で入学式を済ませた生徒たちは204名であったと記録にはある。今の浪速中学校が120名だから当時の旧制浪速中学の勢いというものが分かる。これは勿論当時の「中学校進学意識の高さ」が背景にある。

・ これ又貴重な写真であるがこの204名は4クラスに分かれた。A組からD組まであってまずこのA,B,C、Dという表現に驚く。大正年代の学校のクラス訳に英語を使っているのである。

・ ちなみに戦前戦後英米文字は使うなと言ってクラス分けには1組、2組、3組・・・という表現が長い間取られてきたがここ10年くらい前からA,B、C,と戻って来ている。まさに「歴史は繰り返す」のである。

・ 揃いのベージュの五つの金ボタンの制服に白一重線の学生帽が素晴らしい。校舎はバラックだったが204名の生徒の可愛いこと、この上無いではないか。私はそのように感じた。

・ 何と創立80周年誌(50年史ではない)にこの1期生の中からお二人のお方が投稿されている記事を見つけた。創立80周年誌は平成19年に完成しているからこの時の校長は私であった。

・ 記事には97歳とあったが、すごい。97歳で「かくしゃく」とされているのだ。そのうちのお一人が次のように記述されている。ママ転記する。「創立80周年おめでとう存じます。第一回卒業ということで80年の年月を重ねたわけですね。(中略)今年で97歳を過ぎて学恩を感謝いたしております。母校のますますのご隆盛を祈りおります」とあった。こういう文章を昔の方は出来るのである。

・ 又もう一人のお方は次のように書いておられる。これもママ。「まず入学当初の記憶から現在の高野線我孫子前駅より住吉寄り500メートル線路に近接して2階建ての古工場が浪速中学校が校舎でありました。現在の校舎から考えると月とスッポンの様です。現在のような場所になったのは3年生の頃で我々が池を埋め立てて努力したのを覚えています。今でも傍らに焼場があるのでしょうか。朝登校すると臭いのを覚えています。・・・」

・ 現在の学校の場所が以前は依羅池(よさみ池)という池だったことは知っていたが、ここに「焼場があった」ことを今回本校の歴史を追うことで私は知ることになった。そういえば前述した2期生の卒業生も前述したように「学校の回りは田とお墓ばかり」であったと書いている。

・ 私は「なるほど」と思った。今でも本校の隣地には大きな墓地がある。間違いなくこの1期生の言っていることは間違いない記憶であろう。今から90年も前のことである。今更本校の場所が昔墓場だったということを隠しても仕方がなかろう。

・ 私は次のブログにおいて「本校の校地がどのような経緯」でこの住吉区山之内に決まったのかもう少し調べてみたいと思ったのである。本校の歴史その2:「3人の恩人」において言及した校地取得の貢献者である時の依羅村村長東野修一郎氏の事ももう少し詳しく知りたいのだ。