・ このように普段は役に立たないと思っていてもその学校なり企業なりにおいては記録を纏めておくことが「その組織の甲斐性」だと私は思っている。甲斐性という言葉が最適である。そのような記念誌など意味はない。そんなものに時間と金を使うなど「愚の骨頂」だと思っている人間はどうしようもない幅の狭い人間である。
・ 日頃役に立たないがいざと言うときに「歴史を振り返る」ことが大切である。「歴史に学ぶ」ということはそういうことだ。二度と戦争などしてはならないのは当たり前の話しである。そのためにこそ我々は先の大戦の「失敗に学ぶ」のである。
・ 戦争を教えないと言って学校の社会科の中で現代史を外すなどは愚の骨頂である。正しく戦前、戦争、戦後の歴史を教えることが学校の教師のやるべきことである。それをやらずして、卒業式に「国旗・国歌反対」と叫ぶようなことではいけない。
・ 5月7日の朝日の記事である。「君が代不起立2教諭戒告処分」とあった。君が代とは何ごとか。朝日にはちゃんと「国歌」と書いて欲しいと言いたい。しかし未だに国旗国歌に敬意を払わない教員が大阪の府立高校の教師には多いのである。これが現実の姿である。

・ とにかく学校の周年誌は大切である。後々のブログにおいて私は明らかにしていく積りであるが10年経つと編集の狙いも内容も微妙に変化しているのに気づく。これだからこそ面白いのである。私は「本校の歴史その1:創立記念日」においてかなり厳しく「創立記念日の有り様」を批判した。
・ 創立記念日は単なる「休みの日」であってはならない。創立記念日とは「その学校の歴史を振り返る日とすべき」と言いたかったのである。午前中4こま授業して午後から2時間くらい「歴史を振り返る」場面があって良い。ご年配のOBから講演頂くのも良いではないか。
・ 創立後まず20周年誌はどの学校にもあるものだが、残念ながら本校にはない。その理由は恐らく戦争の時代に突入して行ったからに違いない。本校には30年史もない。纏めていないのである。
・ 周年誌があるのは40年史、50年史、60年史、70年史、そして80年史である。したがって創立当初の記事が少ないから「隔靴掻痒の感じ」で学校創立原点の息吹を纏めるのに私は苦労している。
・ それでも何とか「形の違った周年誌」を纏めておきたいと思い現在ブログにおいて本校の歴史を自ら纏めているのである。前にも書いたが「今昔物語」である。単に昔のことを淡々と書いただけでは意味はない。何らかの意味を持たせたいのである。
・ 平成25年の90年誌は来年24年度初めに「90年史編集ンバー」を決めて素晴らしい90周年記念誌を纏めておきたいと考えている。まさしく80年史から90年史に至る10年間は「浪速改革の軌跡」そのものであり、多聞尚学館、ふくろうスタジアム、浪速武道館、そしてクラブ部室、新校舎と中身は盛りだくさんとなる。慎重にメンバーを選定したい。
・ さて本日のブログは「何故本校は現在の地に創立されたのか」ということについて歴史を振り返ってみる。こういうものは「密かに進められるもの」「極少数の人々で進められるもの」だから公式な記録はない。しかし何とか50年史に貴重な記事があった。
・ 当時の園理事長と平石芳太郎名誉校長のお話だから事実であろう。尚この平石先生のことについては別途改めてブログに書かねばならない程、極めて本校歴史に燦然と輝く立派な先生である。
・ 大正12年に創立された本校であるが、設立の話は4,5年前から出ていたと園理事長は書かれている。当時「仏教の上宮、キリスト教の桃山」と先行する二つの私立中学があって、神社神道の大阪国学院にもどうかと言う話はあって当然であったろう。
・ この辺はいわゆる今で言うところの「行政指導」だと思うが「大阪府が強く関与」している。大阪府の主務担当者は松尾幾太郎氏と言う行政官であった。当初は「各神社の基本金を学校建設に投入せよ」ということから始まっている。
・ 加えて大阪府は「官幣社六社」からも資金拠出を要望したがこれは内務省が難色を示したという。神社の基本金を他に流用することはおかしいと言うことであろう。紆余曲折がったが結局は現在の地に決まった。
・ 当時の村名、依羅村にあった「依羅池を埋め立て」て学校の校地とした。これが最も安価で、「折り合いが付いた」のではないかと私は想像する。勿論池だけでは足りないから近隣用地の取得については当時の依羅村村長東野修一郎氏の働きがあったことは既にブログに記している。
・ 50年史座談会によれば元々は「近鉄沿線が有力」であったとある。近鉄沿線に決まっておれば本校は又違った成り行きになっていたと思う。伊勢神宮に関係が深い本校の立場からすれば近鉄沿線が好ましいことは当時の神社界の人々全ての共通の思いであった筈である。
・ しかし結局のところそうはならなかった。うわさによればすでに「樟蔭中学校があった」からとも記事にはある。いずれにしても「高野線にある私立学校」となった。当時の大阪南部は言っていれば「ど田舎」で生徒の中には恥ずかしがって「校章を隠して」登校するものも居たとある。
・ 阪和線はまだ出来ていなく高野線のみで「あたり一面は墓と田ばかり」だったと既に私はブログに書いている。当時の大和川沿いは大阪の外れも外れで「焼場と田畑」のみであったという記事は間違いなかろう。
・ 「依羅(よさみ)」とは普通は読めない。しかしこの名称は由緒ある地名で依羅村は明治27年に成立し、大正14年に大阪市に合併するまでは「住吉郡依羅村」であった。現在の住吉区我孫子、山之内,杉本、浅香、苅田、庭井の六ヶ町からなり、大阪市の最南端の村であった。
・ 依羅の語源については別途ゆっくりと調べてみたいと思うが「大依羅神社」と関係あるだろうことは想像できる。まさしく「古事記の世界」であるがブログに嘘を書いてはいけないので本日はここまでである。
・ 本校の近くにはこの依羅という字を使った「大阪市立依羅小学校」がありここの「周年誌」や依羅郷土史を一度調べてみたい。いずれにしても紆余曲折はあったがこの依羅村の依羅池を埋め立てて本校は産声を上げた。
・ あたり一面墓と田で見渡す限り何も無かった。一枚の写真があるが遠く大和川越に堺方面が見える。校舎も他校の古いものを譲り受けたものだったし、とにかく「無い無い尽くし」でスタートした本校であった。
・ 「筆舌に尽くしがたい」と言う言葉があるが昭和9年の室戸台風で殆どの校舎が倒壊し、校舎が一新されたのは実に昭和37年であり苦節10年と言うけれども苦節50年でようやく一人前の学校施設になったと思う。
・ しかしこれも大阪国学院、教職員、生徒たちが一丸となって夢に希望を膨らませて「学校つくり」に邁進していったからである。これは公立学校では有り得ない私立学校独特のものである。私立学校は『私』が学校を作るのである。
・ 今本校で働いている教職員はこのような前人の苦労に思いを致さねばなるまい。若い世代の教員が今厳しい就職事情の中で本校で働くことが出来るのは「ここに学校があるから」である。学校を創り残してくれた先達のお陰である。
・ 第一期生の卒業生が80年始史に書いているが、彼らが中学3年生になった頃「池を埋め立てて運動場を作った」とある。石ころが多くて運動場を整備するために生徒は大和川から川砂を運んで来たと言う。昔の生徒も教師も実に立派である。 
