・ 何故校舎が間に合わないほど急いで開校したのだろうか。そこが疑問である。前号にて書いたように中学校の設置出願が大正12年2月28日、設置の認可が3月31日、大阪府から大島鎮治教育主事を「校長事務取扱」でお迎えしたのが4月17日、そして沢之町の仮校舎での入学式が4月30日だから新幹線以上のスピードで走っていたのが分かる。
・ 当然数ヶ月数年前から中等学校設立構想はあった筈であり、学校が急に出来る訳もない。今となっては当時の詳細な状況を知る由も無いが私はある文献や会報などから当時の「社会全体の教育機運」みたいなものを感じるのである。すなわち何故「浪速中等学校は誕生したのか」をまとめておかねばならないと考えた。
・ 長い鎖国の夢から覚めた我々の祖先は新しい国つくりを目指して富国強兵を合言葉に欧米列強に肩をならべるべく「坂の上の雲」を目指した。勢い国民の間には「欧化万能」の風潮が生じたのは止むを得ないことでもあったろう。
・ 当然このような社会風潮に対して当然「日本人の道統を再認識」すべきと機運が生じてきたのも当然の流れである。「日本は日本であり日本人は日本の歴史を忘れるな」ということであろう。このように必ず反動と言う流れは起きることが自然であり、このことは現代社会とて変わりはない。
・ そのような人々は国民に対する教育の重要さを考え明治天皇に、明治23年10月「教育勅語の煥発」を仰いで「日本人の道義の指針」を見ることになった。話は変わるが今、明治時代のこの教育勅語に精神的に回帰すべきという意見が台頭して来つつある。
・ かかる時運の時に、同年今の国学院大學の前身である「国学院」と今の皇學館大學の前身の「皇學館」が明治天皇の親王の令達のもとに設置された。こうした流れの中で明治15年誕生した皇典研究所大阪分所は明治41年に大阪国学院と名称を発展的に改称したのである。
・ 日清日露の戦争に勝利し、1914年に始まった第一次世界対戦にも日英同盟の義理から参戦した我が国は戦勝国の一員として経済的にも恵まれた環境となり世の中には軽佻浮薄の風が一斉を風靡した。良い表現を使えば「大正ロマン」と騒がれた時代に本校は誕生したのである。
・ 30周年記念の浪高新聞の初代事務取扱の大島鎮治氏の記事によれば大正12年当時大阪府は五ヵ年計画を策定し「中学校大拡張時代」を迎えていた。私の前任校で今の府立高津高校も前身は大正7年に出来た旧制高津中学校なのである。
・ とにかく明治末期から大正にかけて旧制中学校はどんどん出来ていったのである。そのような時代背景の中で大阪国学院は「ちゃんとした中学校を作ろう」と判断されたのである。
・ 直接的には日本人の道統を再認識するという明治以来の機運が引き金になり、第二はここが立派なのであるが進学を志ながら不幸にして家庭の事情で進学し得ない児童等を救うと言う社会的要請に応えんとした大阪神社界の人々の宗教的動機もあったと50年誌にある。
・ その中心にいた人物は大阪難波八坂神社宮司で大阪国学院理事を務められていた「浅香千速」氏と言う。今回初めて私はこの人物のお名前を知ることになった。何故私が知りもしない浅香氏のことを書くかというと初代事務取扱の府庁の役人だった大島鎮治氏が言葉を尽くして賞賛されているのである。私はこの文章から浅香氏の働きに思いを致し頭が下がる思いがする。
・ 大島氏は書いている。「国学院内部の種々の苦悩難関を突破して創立を軌道に乗せたのは実に氏の功労の大なるがあった。氏は本校のために(次の文章がすごい)心と物と時間とを如何に犠牲的に注がれたかを私は親しく知っているのである。実に氏は浪中創立の恩人として忘れることはできない人だと思う。」
・ もう一人本校には恩人がおられる。これも大島氏の残した記事からの出典であるが当時の依羅村(よさみむら)村長の東野修一郎氏である。“氏は学校の渉外主役者で校地の設定、工事に関する事項について非常に尽力せられ、氏の腹と腕と名によって本校が実現の運びを獲たというべきでしょう。氏は学校として忘れられない功労者であります。”となる。腹と言うのが面白いし分かるような気がする。
・ ここで大島鎮治氏について記してみたい。ブログその1においても記述しているがこの人は当時大阪府教育主事の肩書きであった。府の「学校課」という職場の役人であったが当時の内務部長から「浪中の創立の校長事務を執れ」と委嘱を受けて任に付いた人である。
・ 大島氏の言葉を借りれば「学校内用方面の全責任を負うようになって学則の制定、職員の選定、生徒の募集等兼務の私には容易な仕事ではなかった」と述懐されている。大島氏は1年半の任期を過ぎて府に戻られるのであるが、その後80歳の時に浪速高等学校の30周年記念祝典に参列されている。その時の氏の残された発言録が「歴史の証人」となっているのである。
・ しかし考えてみると本校は設立に際し、大阪府から有為な人材を派遣されるほど格式の高い学校であったことが分かる。このブログのシリーズにおいて書くが、私はどのような人々が本校の校長に就任されているかでその事が大変良く分かるのである。
・ いずれにしてもどの残された記事をみても浪速中学校設立に貢献あった三羽烏、三賢人、三偉人は「大阪国学院浅香千速氏、大阪府の大島鎮治氏、依羅村村長東野修一郎氏」であることは間違いない。勿論他に多くのお方のご理解とご協力があっても事だが、前記3人の働きで本校は「産声」をあげたのである。
・ 大正12年7月18日に大阪国学院旧校舎(大江神社神官養成所)をまず現在の本校のある場所に移転し移転作業は始まった。しかし「苦難の時代」であった。関東大震災のために資金難に陥り運営に支障があったとある。
・ しかし中学生の入学難の解消と言う大義名分もあって大阪府の支援と神社界の献身的な努力があった。神社界の中には私財の寄付す人や、借入金の計画など苦闘の連続であったと記録にはある。その証拠に「設立当初の校舎はすべて他校の古い校舎の移転」であった。
・ 大正13年6月「本館」が完成、いや移転された。この建物は「旧梅田高等女学校(現大手前高校)」の建物であった。この本館は室戸台風によって多少の損壊は受けたがその後も使われ、現在の私の執務室がある北館新築まで生きながらえたのである。
・ 旧本館には微笑ましいエピソードが残っている。梅田高女の卒業生が本校に立ち寄り、「懐かしの母校は生きていた」と校舎を手でなでていたと言う。そしてこの本館は37年の齢で取り壊された。
・ 当時の人々にとってまことにもって思い出深い建物だったのだと思う。記録には「模型」を残したと言うが、何処にも残っていない。あれば私はこれから建設する新校舎のロビーの何処かに陳列したのにと思う。
・ 私はこの旧本館に言いようも無く惹かれる。雰囲気の大変良い建物である。平成19年完成させた現在の正門はこの梅田高女の正門のイメージを参考にして設置したものである。

