2011年5月25日水曜日

23年5月25日(水)本校の歴史その9「旧制中学の中途退学と授業料


大正15年の生徒写真帖の表紙


大正15年当時の教職員写真総勢31名



浪速中学2年生大石クラス


浪速中学4年生のクラス
・ 本校の歴史その8「大正時代と旧制中学」について本校が出来た時代背景について記した。本校は大正ロマン溢れる時代の大正12年に産声をこの住吉山之内の地に上げた。開校に間に合わなくて沢の町の借り物の仮校舎で204名の入学生で入学式が執り行われた。

・ 校長先生も間に合わなくて校長事務取扱の大島鎮治先生が大阪府から赴任された。入学者は「高野線にある私立中学」ということで、恥ずかしがり中には校章を隠してまで登校する生徒もいたと記録にあった。

・ 周辺は焼場と墓場と我孫子南京と我孫子大根畑ばかりであり、入学生はまだ「依羅池」を埋め立てた土地に大和川から砂を運んでグランドを整備したという。写真が残っている。本館は旧梅田高等女学校の古い建物を移設し、殆どの校舎が「戴きもの」で学校は出発した。

・ 開校して1年が経ち、ようやく「大里猪熊先生」と言う素晴らしい本流の校長を迎えて学校は着々と形を作って行った。1期生、2期生、3期生などが書き残した文章を読んでみると生徒は「個性溢れる素晴らしい先生ばかりであった」とある。

・ 本校は間違いなく旧制中学であり旧制中等学校ではない。「本流の中学校」であった。歴史その8の末尾に記したが当時は旧制中学4年終了後は旧制高等学校、大学予科、大学専門部、高等師範学校、旧制専門学校、陸軍士官学校、海軍兵学校に進学することが可能であった。

・ 1期生のうちその進路を取ったものは6名いた。浪速中学校を卒業したものは148名であったから入学総数からすれば50名不足している。これは「中途退学者の数」である。比率は24%と1/4にも上るが実はこの数値は当時としてはまだ低い方だと今回私は知ることになった。

・ 明治から大正にかけて「立身出世主義」「成功熱」から中学進学熱は高まるばかりで国策ともあいまって中学校、中等学校は雨後の筍の如く誕生したが、それでも一般には「中学に行くのは高嶺の花」であった。

・ 昔の映画などで田舎の勉強の出来る子どもが尋常小学校の先生から「この子は良く出来るから中学に行かせたらどうですか」などと家庭訪問などで母親に言ったりする場面が出てくるが当時中学に進学するなどは稀有なことだったのである。

・ 農村からの進学者は「地主の子弟」で村で一人か二人がせいぜいで農村の次男三男は尋常小学校6年卒か高等小学校2年卒で町工場へ出稼ぎに出ていた時代である。したがって結局は金銭的に中学校を最後まで完遂できる比率は低かったと文部省の記録にはある。

・ 大正の時代において当時の代表的インテリ層の代表である小学校の教員の月収が1929年の段階で46円だったのに東京市立中学の入学年次の学費は直接経費だけで146円19戦だったと記録にある。

・ したがって折角入学しても中途退学を余儀なくされた割合は入学者の1/3にも達した。この状況を結果的に文部省は放置したと考える他はない。それはそのように考えざるを得ない文章が残っているからである。

・ 当時の文部省の考え方は「エリート養成の中学校であり、一定の方針もなくただ漫然と入学した者の退学は父兄にその責任がある。出鱈目な入学に目覚め・・・」と退学者の多きをむしろ歓迎しているのである。

・ これは「中学校が一種の淘汰機関」となっていることを示す。私はこの考えに大変な興味が沸いた。中等学校が整備されていったものの中学校を無事に卒業して学歴の階段を更に登っていくことは決して容易なことではなかったのである。

・ 私の発想はこうだ。旧制中学が今の新制高等学校と考えるなら「高校進学率が97%程度」と高校全入時代の今、もっと高校卒業認定を厳しくするという考え方はどうであろうか。高等学校を「淘汰機関」と捉えるのである。そうすればもう少しましな大学生が出来るだろう。

・ 従って旧制浪速中学校の第一期生が50名もの中途退学者があったとしても全くそれは不自然なことではないのである。ここに記録があるのだが明治33年(1911)全国の中学生78000人に対して退学者数は11000人、14,2%となっている。これは同年の卒業者7747人の1.4倍であり、中でも熊本県立中学校の明治38年(1905)から明治41年(1908)のデータによれば中学校を5年間で無事に卒業した生徒は入学者の22%から34%に過ぎないとあった。

・ ところで本校の40年史には大変貴重なデータが残っている。「大正15年当時の学校経費」である。それによれば歳入歳出額が56197円で、歳入の内訳は大阪国学院からの補助が10000円(17.8%)、授業料44000円(78.3%)、検定料600円(1.1%)大阪府補助金1500円(2.7%)、繰越金97円とあった。

・ 授業料収入は生徒800人分で一人平均55円とあり、検定料は入学者数300名とおいて一人2円の計算であった。これらを観ても収入の80%程度が授業料であり、当時の授業料55円レベルが府立中学に対して高いのかどのような位置関係にあるのか別途調べてみたいと思う。

・ ちなみに歳出の部では教職員俸給が43260円であり歳出全体の77%となる。今日の学校経営での重要な判断数値となる「帰属収入に対する人件費比率」という見方でみると帰属収入は府の補助金を入れて55500円となり人件費比率は78%となる。

・ この数値をどのように見るかであるが平成21年度の全国平均が65.6%、大阪府の平均が71.5%、であるから当時の教職員の給与は少なくとも安くはなかったと言える。大正15年の教職員の数が正確ではないかもしれないが卒業写真から数えてみると31名であった。

・ これから人件費を割ってみると教職員一人当たり月額116円となり相当高い数値であったとも思える。大正15年当時の旧制浪速中学校の授業料が年間55円,教職員の月給が116円と言っても現在価値では一体幾らぐらいになるのであろうか。日本のお金の価値について日本銀行が記録している「企業物価指数」から推定してみると面白いかも知れない。

・ しかしそれにしても大阪府からの補助金の1500円は少ないと感じる。現在における補助金比率は30%程度でありこれを見ても今日の私立学校の恵まれた環境が分かると言うものである。昔の学校経営者のことを考えれば橋下改革で補助金が減少する、学校が潰れると騒ぎ嘆くだけでは解決にはなるまいと私は感じたのである。私立の旧制中学を創立した先人の苦労を忘れてはならないとつくづくと思う。