2011年4月25日月曜日

23年4月25日(月)「学歴インフレ」




・ 少し前になるが日経新聞の4月20日朝刊に「人口減時代の人材力強化」シリーズとして「学歴インフラの脱却を急げ」と題した見逃せない記事があった。これは「中々の内容」である。中見出しは「大学教育の高度化を」「企業も採用での自制が必要」とであった。

・ 寄稿者は現在、オックスフォード大学教授で一時期東大の大学院教育学研究科の教授を務めたこともある気鋭の教育学の学者である。お名前は苅谷剛彦氏と言われ、まだ56歳前後の研究者であるが、斯界にオピニオンリーダーとして影響力があるお方だ。

・ 私はこの学者の意見に今まで大きな影響を受けてきたような気がする。特にこの先生が書いた「教育改革の幻想」という著作は昨今の「教育改革、学校改革を論じる人」にとっては必読の書物ではないか。この本さえ知らず教育改革を論じる人は「底が浅い」というのが私の意見だ。

・ この苅谷先生、東大、東大院で学び、ノースウエスタン大学で博士号を取得。東大教授から現在は前述したように英国で研究中の学者である。教育社会学、比較社会学を専門とされ、とにかく「データの精緻な検証と分析」の力がすごくてその点が私をひきつける。著作も多いがどれも大変勉強になる。

・ こういう先生を見ると「人間の持つ頭脳明晰さの違い」を痛感する。そして「大学教授と言う存在の有り難さ」を思い知るのである。だから時に何でも良いから他人の著作を読まねばならないと言うことである。それが勉強と、学習と言うものだ。

・ 「他を知り、世界を知る」為の手っ取り早い方法は「読書」である。唯我独尊を避け、自信過剰を戒め、謙虚さ失わず、弱い頭の訓練には何でも良いから「読書」である。読書は自身の「論理構成能力」を高め「語彙」を増やす。それが「教養」というものである。これらが「判断力」や「説得力」「文章力」「発信力」に繋がる筈だ。


・ 話を戻そう。この日の記事の主題は日本における「初中等教育と対照的な大学教育の低評価」に関して相当手厳しい日本の大学教育を「槍玉」に挙げて批判されている。「90年代までの人材養成システムは限界」にあり「学歴インフレ」という言葉を作られ警鐘を鳴らしておられるのだが、例によって私の意見も入れながらこの記事を考察してみたい。

・ 「偏差値ランクの高い大学を卒業した」者がろくに勉強もせず、劣化し続けている日本の有名大学を出ているだけということで一流の行政機構やトップ企業に入社し栄達を遂げていると言う現実がすでに「日本をおかしく」していると言われている。

・ 従来に比べ進学率が高まり大学進学率が40%を超えるようになった。しかし大卒は増えてはいるが、大企業の正規職に就職できるチャンスは圧倒的に依然として「同じ大卒でも選抜度の高い大学を卒業していることが条件」とデータを示して論を展開されている。

・ 大卒で非正規社員、フリーターの増大が目に付き始め、益々「偏差値だけの大学ランキング」というシステムが「企業の人材育成の脆弱さ」とあいまって日本の人材競争力を落としていると言われているのだ。


・ 確かに先生の言われるように日本の行政、大企業は大学生を「大学の入り口看板」だけで判断し後は組織なり、企業内で訓練して人材育成を行ってきたがそれも最早限界である。私は民間企業出身だから大変良く分かる。

・ 今や日本の大学は4年間ではなくて3年弱と高校生並である。場合によっては大学生のアルバイトに消えている時間を入れれば日本の大学生は高校生以下の勉強時間しかないだろう。日本の大学生はアルバイトと就職活動のための社会人入り口前の「自由な弛緩状態にある人々」ということも出来る。

・ 先進国の場合、「学歴インフレ」と言う場合は学部卒が大学院終了へとより一段高い学歴のことを指し、「教育年数の増大」といった「量の増大」だけでなく、そこで行われる「教育の中身の高度化」の面からも「人的資本の向上」が認められる。このことが真の意味での学歴インフラと先生は言われている。

・ ところが日本は先生の表現を借りれば以下のようになる。この点がポイントである。「学歴が訓練能力の高さを識別するシグナルとして働き、就職に際し求められる偏差値ランクが上方にシフトするだけの全く人的資本の増大なき“経済学用語であるシグナリング効果だけ”の見せ掛けの学歴インフレだ」と断じておられるのだ。

・ このようなシステム悪に加担している企業や中央省庁は「この狭い島国」においてはシグナルだけで十分であり、基本的に意識してか無意識か知らないが「大学教育無用論」がまだ厳然とした力を有しているからだとも論じておられる。

・ 素晴らしい。まったくその通りだ。特に実業の世界から教育界に転じ、公立高校の超進学校の校長を4年、幅の広い文武両道の私立高校の校長を4年やってきた私にはそのことが大変良く分かるのである。

・ 「偏差値の高い高校を卒業」した学生は当然偏差値ランキングの高い大学に入ってきているから、「もうそれだけで分かる」、大学で何を学んだなどはどうでも良いとは言わないが死命を制する問題ではないというのが現実の姿なのである。

・ 表立っては言われていないが厳然とした事実は実は「どのような高校を出たか」である。この視点を有する人事の専門家は多くて大学ランキングとは実は高校ランキングであると言うのは今や誰でもが知っていることなのである。その季節になればサンデー毎日など週刊誌が大学進学実績を高校一覧などが出回るのはそういう理由なのである。


・ 苅谷先生は戦後の復興が初等中等教育の充実によってもたらされたとすれば「ポスト3.11」の日本の再生には大学教育の出番とならねばならないと強調されている。豊かな教養と専門性に裏打ちされた組織や慣例に縛られない賢明な判断力と建設的な批判力、果断な行動力が「危機をチャンスに変えるための重要な資質」となる。

・ 大学の「自由の術」こそ若者を育む格好の場所であり、大学教育を無用とみなす余裕は日本にはない。大学を「予習を課し、成績を厳格にして4年間を通じて学びの場所」にする。その上で文系でも高度な専門教育を大学院で供給する。大学と企業の覚醒を投げかけられているのだ。

・ 先生はこの記事の冒頭、次のように書いておられる印象的であった。今回の大震災と原発事故では人材という意味において日本社会の「地の部分」をくしくもあらわにした。被害を受けた人々が苦痛と悲しみの中でも整然と助け合いながら行動する姿、そして現場で黙々と救援活動や事故の処理に当たる人々の献身ぶりに世界が驚嘆した。

・ ところが社会の土台や現場を支える中堅の名も無き人々に比べ「指導力を発揮し責任を負うべき幹部たち」の「底が見えた」と書いておられる。内閣も政治家も東京電力も原子力保安院も中央省庁も大学偏差値の高い大学を卒業してきたエリートばかりだ。彼らはただ「右往左往」しているだけである。

・ 結局日本の組織はトップダウウンの強い組織で動いていなかった。平均的な人材の質の高さを前提に現場の集団的協同的な力によって機能を発揮するという「人材の質と組織の働きの地の部分」があらわになったと言われるのである。持って瞑目すべし卓見だろう。