2011年6月28日火曜日

23年6月28日(火)本校の歴史20「伊勢大廟参拝と伊勢修養学舎」








・ 昨日27日の校務運営委員会で今年の「伊勢修養学舎」の計画が報告され委員会で確認した。学舎の主担当は高校1年の学年主任の先生である。今年で第58回目であるから半世紀を軽く過ぎている。
・ 私のとってももう5回目である。1年に一回「お伊勢さんに正式に参拝」して身も心も現代風に言えば「リフレッシュ」である。正式には「俗世間の汚辱を洗い流す」ということである。生徒教職員にとっては「曲事(まがこと)を祓い」、身を「清め」、災いから「守って」いただき、「幸い」を祈る儀式である。
・ 私は新しく入ってきた男性の事務職員二人もこの学舎に参加させるように事務長に命じた。良い経験になると思ったからである。学年主任は高校1年生の数が多いため生徒指導にいささかの心配をしていたが、私は常勤講師の先生方でお時間のあるお方にも参加を要請したらとアドバイスしたのである。
・ 私はこの本校の存在意義の根本にある「神社神道の精神」と「伊勢神宮」そして「五十鈴川の禊ぎ」は不可分のものであり、ご縁があって同じ職場に勤務しているのだから「友よ、共に参ろう!」と同じ経験して貰いたいのである。

・ 他の学校では絶対に経験できない。昔ある常勤講師の先生が禊ぎを拒否して翌年の雇用継続がならなかったが、それは仕方が無い。裁判所で訴訟しても当方が勝てるだろう。「建学の精神に拠る極めて重要な学校行事であり、それを拒否することによって雇用関係が切られたとしてもそれは裁量権の乱用とは言えない合理的な理由が認められる」というのが判決文ではないかと想像する。
・ 一体誰がどのようにしてこの伊勢修養学舎を始められたのであろうか。これが今日のブログのテーマである。しかしその前に神社神道の学校として神道教育の中味についてどのような変遷があったのか調査した。

・ 大正13年創立2年目 
        6月11日    「伊勢大廟」参拝  一泊二日
       12月23日    御陵参拝開始 仁徳、反正稜
  昭和3年4月9日      校庭に参拝所において伊勢大廟参拝開始

  昭和14年3月7日    (旧)神殿地鎮祭
  昭和14年5月10日   (旧)神殿竣工祭
  昭和21年2月2日     官国弊社廃止令により(旧)神殿撤去
  昭和27年4月      神道科科目を設定  週1時間の授業開始
  昭和28年10月31日 現神殿  学院神社竣工  創立30周年
  昭和29年7月21日  第一回伊勢学舎開始
  昭和58年        第30回伊勢修養学舎   創立60周年
                神宮会館の方々との懇談会「伊勢修養学舎を語る」

・ しかし創立当初は伊勢神宮は「伊勢大廟(いせたいびょう)」と呼ばれていたことを私は知った。難しい字である。天子、諸侯の祖を祭る御霊やのことであり、宗廟ともいい、伊勢神宮の別称である。しかし神宮より「伊勢大廟」の方が何かよさそうな気がする。

・ 果たして本校のこの伊勢大廟、即ち伊勢神宮参拝は誰がどのような経緯で始めたのか。この答えについて今回私は調査したのだが明確な記述が70年史にあった。70年史というのが珍しい。

・ まずその前に、記録によれば創立した翌年の大正13年6月11日から一泊二日で伊勢大廟にお参りしている。これは浪速中学校の一期生である。中学2年生の段階で宿泊参拝をしているのである。想像するに学校が出来、そして1周年が経った頃合に神社神道の学校として伊勢大廟を初代の大里校長は始めたのである。素晴らしい。

・ 昭和4年卒の2期生は当然だが1期生と同道して大正13年6月に参拝している。彼らは入学して間もない中学1年生であった。昭和5年卒の3期生のアルバムが無いので彼らについては判らない。
・ 昭和6年卒の4期生については第5学年の即ち昭和5年に「伊勢大神宮参拝(三日間)」とあった。一挙に高学年にしている。昭和7年卒の5期生については同じく最上級生の5年生の5月10日に参拝している。しかしこの時は参拝後東京方面に修学旅行となっていた。

・ 当時の学校の教職員の「息遣い」が聞こえてきそうである。何としても在学中に一回は伊勢神宮にお参りさせてやりたいとあれこれ工夫していたに違いない。当時の交通事情や宿泊場所を考えれば当然難しい問題も出てきたであろう。

・ 低学年では余りにもハードであったろうし又生徒が増えるに従って全校生徒一緒に参拝と言うわけにも行かず4期生からは卒業前年の5学年での参拝となっている。私はこのようなところに本校の素晴らしさを感じる。

・ 一方費用もかかる伊勢お参りは毎年と言うわけにも行かず、学校は考えた。それで昭和3年に校庭の一角に参拝所を建てて「遥拝する仕組み」を学校は考え出したのである。遥拝とは遠く離れたところから拝むことで日本では「皇居遥拝」「高野山遥拝」「東方遥拝」「山頂の日の出遥拝」などがある。

・ 要は「浪速中学校の校庭から伊勢神宮方面に向かって礼拝」することとしたのである。昭和7年卒の荒木敏夫氏は次のように60年史に書いている。“校門を入ると「敬神崇祖」をうたった学校だけあって学校挙げて登下校の際には必ず天照大御神様を遥拝します。”と。

・ 当初は「鳥居」だけの遥拝場所であったが「昭和14年には立派な神殿が完成」した。それからは今と同じスタイルで神殿参拝となったのである。そして時は過ぎ、時代は戦争に負け、戦後の昭和28年になった。この年「創立30周年」の年であったが戦後の事ゆえ派手なことは出来なかったのであろうが、11月5日に「創立30周年記念式典」が挙行されている。しかし周年史は作られていない。

・ この昭和28年に一人の若い教師の卵が新制浪速高校に就職した。シベリア抑留3年の経験があるこの人は後藤文夫さんと言い当時の浪速の中で最年少の数学の教師であった。私の秘書業務をしてくれているIさんは良く存じ上げているとかで「何時もシベリアのお話しをされていました」と私に言っていた。

・ この先生が「浪高一筋」というタイトルで書かれた一文にこの伊勢修養学舎の事が記されている。“28年の夏、教職員の懇親会があり古市に一泊して翌日伊勢神宮に参拝した。その時の印象が強烈だったらしく「松岡校長の鶴の一声」で教員だけではなく生徒にも体験させてやりたいと翌年の29年から「伊勢学舎」が開設された。”とある

・ 即ち「昭和29年第四代松岡万次郎校長の手によって今に続く形の伊勢学舎は始まった」。しかし私は思う。大正13年に旧制浪速中学校で始まった「伊勢大廟参拝」はその後どうなったのであろうか。何時まで継続されたのであろうか。何時途切れたのであろうか。先の大戦の戦前戦後は無くなっていたと考えるのが自然かも知れない。

・ 四代校長松岡先生が始めた「伊勢学舎」は私に言わせれば「復活」させたと言う方が正しいのではないかと思う。記録によれば最初は「林間学校風」で始まったとある。従って二見浦の水泳訓練がセットであった。

・ 最初から五十鈴川の禊ぎがあったのかどうかは現時点では確定的なことは言えない。又当時は「伊勢学舎」であるが今では「伊勢修養学舎」と言い方も変わっている。私はこういうところに拘る性癖がある。

・ 伊勢学舎から何時伊勢修養学舎になったのは何時か、誰がどのような目的で変えたのか等々人によっては「そんなことはどうでも良いではないか」と思うかも知れないがこれは大切なことである。「歴史を残す」とはこういうことである。

・ “当時のスケジュールは非常な強行日程で徒歩の部分も多く、「見学が多かった」ともある。御園、御塩田、徴古館、農園などである。特に当時の神宮会館は冷房設備も無く大部屋に大きな蚊帳を吊っていたので監督する立場からすると大変だった”ともある。

・ 60年史の83ページから90ページまで「伊勢修養学舎30回記念」としてお世話頂いている神宮会館のお方と本校教諭の対談が載っているが、大変良い企画で中味が面白い。

・ 私はこれを読んで印象深かったのは最後のほうの対談だ。登場人物は青木氏(神宮会館総務課長)、藤井満氏(本校美術科教諭)、見村文彬氏(本校神道科主任教諭)。

  青木:どういうわけか浪高さんがおいでになると夏です。
  見村:1年生のこの夏にピシッと、ここでやっておくと3年間持つわけで、ちょっと弛むと3年間その学年はガタガタして困ることがあるのは不思議なことで。
  藤井:色んな意味で夏にここへ来ることは団体行動の一つの鍵になっていますし、この暑いところでやるのがかえっていいのかも判りません。“伊勢が終わると浪高生になったなァ”と言います。