・ 昭和9年9月21日午前8時過ぎ室戸台風は浪中のある山之内町の頭上を時速60キロの速度で暴風雨となって通過した。70%近い校舎が倒壊したが幸いにも軽傷者一名だけで人的被害はなかった。これは奇跡に近いことであったと前号で記した。・ 丁度1週間前に内田校長先生が亡くなりその悲しみの涙も乾く暇も無い中での大惨事だったから「浪中廃校」の噂が出ても決しておかしい状況ではなかった。その背景は倒壊した木造2階建て校舎2棟の負債がまだ残っていたこともあったらしい。
・ 昭和12年卒の道井新左右氏は次のように書いている。“私は昭和7年1学年50人余りの仲間と1年生として入学しました。全校生徒は400人くらいで廃校寸前の学校でした。その上私が3年生の時に室戸台風があり、校舎の七割が倒れ勉強できず、その上生徒一人確か50円(現在百万円くらい)の寄付が募られ、学校の前途を悲観した生徒の中には退学者もかなりあったようです。”
・ しかし旧制浪速中学校は力強く「復興へと立ち上がる」のである。台風一過数日後校舎の後片付けの作業開始の命令が出て中学1年生を除き全校生徒で当たることになった。9月29日まで急ピッチで進んだ。
・ 写真にも残っているのだが「瓦礫の山」ではなくて、木造校舎だったから「木材の山」みたいな状況だった。だから片付けも捗ったのではないだろうか。そしてすごいのは10月1日には「二部授業」を始めている。
・ 私にとってこの二部授業は大変参考になった。新校舎建設で万が一、建設工事の関係で教室が不足した場合、たとえ1ヶ月間でも二部授業で「しのぐ」のである。勿論生徒や保護者のご理解を得てのことであるが。
・ このように知恵は幾らでも出てくるのである。今回の東日本大震災でも東北地方の学校では他校の校舎を借りて二部制で授業を開始している。こういう時の「教員の知恵」は素晴らしいものがあり、昔も今も変わらない。
・ 話を戻そう。倒壊された校舎の片づけが開始された時に岡阪教頭先生となっているのだが(別の資料では教諭)、この先生が壊れた屋根の棟にのぼり「皆さん、落ち着いてください。先生方も職員と一丸になって必ず復興します。廃校は致しません」と叫んだとある。
・ この叫んだ先生こそ内田校長亡き後の「第三代岡阪一福校長」なのである。学校の先生から将来の展望に夢を感じた生徒は一生懸命に片付けに汗を流したとある。実情は陰で大阪国学院理事長であった奥村泰助氏が校長事務取扱として新校舎建設へ東奔西走の働きをしていたと私は想像する。
・ 新校舎建設などの大事業を一教諭の力だけで出来るはずはないので大阪府の行政官だった奥村泰助氏の存在が大きな力となったことは間違いないだろう。この辺のところは50年史の対談で後の校長平石芳太郎先生が次のように述べている。
・ “その後岡阪校長先生は府庁の方と学校再建に尽力され木造にするか鉄筋にするか二つの中鉄筋に決定されました。”とあるように「府庁の方」とは即ち奥村泰助校長事務取扱の事であり、この方が大きく関与している私の想像が証明されている。
・ しかし面白いではないか。「府庁の方」という言い方が面白い。どうして具体的に名前を平石先生は出さなかったのであろうか。知らなかった筈が無い。結局このように当時から教職員は基本的に権力・権威みたいなものにアンチの気分を有する職業だと思うのはうがち過ぎか。
・ とにもかくにも浪速中学校において初めての「内部昇格」の校長が誕生した。第三代岡阪一福校長、昭和9年12月21日就任、退職は昭和17年9月26日までであるから8年間の校長期間であった。
・ 常住坐臥温顔の中から神の息吹を説き、「神の道に仕えたお方」であると周年史に書かれており、私はこの先生の後を追った。ただ分かっていることは國學院大學卒業ということだけだった。同じ國學院大學を卒業されている道明寺天満宮の宮司にお願いして調べて貰ったのであるが確かに明治37年12期生として卒業されたことは分かった。しかしそれ以上のことはさっぱり分からなかったのである。
・ お家が神社の関係者か、大阪府ご出身なのかも分かっていない。職員録には神道の教科ではなくて国語の教諭であった。しかし岡阪時代は日本の最も長い日の時代に続く。学校は「軍事教練」が主体となり、とただひたすら戦争の道に進んでいった日本の国情の中で旧制浪速中学は新校舎を得てまた力強く大阪の地に歩みを進めたのである。
・ 次に新校舎について記そう。とにかく校舎が無ければ学校とは言えないから浪速中学は「鉄筋コンクリートの新校舎建設」を目指した。苦労は並大抵なものではなかったろう。私が今進めている「平成の新校舎建設」の資金手当てなどに比べたら比較にならないくらい困難なものだったに違いない。
・ 40年史に寶來理事長のお話が残っている。極めて具体的である。“あの時は設立者も駄目だと思いました。それは設立時の負債がまだ返していないので、負債整理に頭を痛めている矢先に校舎は倒壊し見るかげもなくなって、絶望と思いましたが何としても持ち直さねばならぬと苦労しました。当時の父兄会の方も風雨で倒れるようでは駄目だ、鉄筋コンクリートでなければとの意見でした。資金集めに頭を痛めました。色々なことをやり最後に低利資金を借用することが出来てほっとしました。幸い転じて福となったとも考えられます。当時あのことが無かったら当分借金のため校舎は建たなかったと思います。ご父兄の方にも迷惑をおかけしご協力を願いました。”
・ その時に今で言う保護者にお願いしたのが一口50円であった。生徒保護者の中には寄付も出来ず浪中の将来に悲観して退学して行ってものも少なからずいたことは既に記した。
・ 60年史によれば大阪府下の神社にも割り当てがあったとある。中でも石切神社の絶大な協力があったとある。借金は63000円で30年償還で借りたと記録にある。保護者と神社界からの寄付金とローンにより建設工事費の13万円をとにかく工面したのである。
・ このようにして「昭和10年9月20日に新校舎は完成」した。何と1年目の9月21日に室戸台風から丁度1年目であった。私はこのことからも当時の関係者の並々ならぬ努力と意気込みを感じるのである。
・ 続いて第二期工事に入りこれも昭和11年5月5日、神社神道の学校らしく「端午の節句」に竣工した。当時としては目新しい理科の特別教室を有したものでまだ周辺には我孫子大根と我孫子かぼちゃ畑しかなかった場所に建った「鉄筋コンクリート3階建ての高層建築」は生徒・教職員の大いなる誇りと成ったと思う。
・ これらを牽引したのが第三代校長岡阪一福先生であった。ここに一枚の写真が残っているが竣工式当日に正門に立っておられる。さぞ嬉しかったに違いない。私もこのようにして新校舎の竣工式当日、モーニング姿で正門に立ちたいものだ。
・ 又工事の略記が写真として周年史に残っている。タイトルは「浪速中學校復興工事略記」であり、中ほどには“本建築は耐震耐火耐風ニ留意シ近代科學の精を蒐メ質實剛健克ク教育の真髄を発揮セシムルニ努メタリ”とある。この文章から関係者の喜びの大きさと誇りを感じるではないか。
・ 尚この名盤には財団法人大阪国学院として総裁、院長、理事長、理事のお名前が彫られており中に寶來先生のお名前も見える。又奥村泰助先生は前理事長として顕彰されており校長の岡坂一福とあるが「坂」の字が間違っている。
・ 今と同じで業者さん任せで誰もチェックしなかったのではないか。岡阪校長先生は「字が違うよ」と文句の一つも言われたのかどうか今となっては分からない。ちなみに設計監督者は池田谷久吉、施工者は合名会社大阪橋本組とある。
・ しかしそれにしても私は驚いている。昭和11年に完成した新校舎の鉄筋コンクリート3階建ての配置はまさしくL字型で私が今建てようとしている「平成の新校舎の配置」と同じなのである。私は先人の何かを感じざるを得ないのである。
・ そしてこの昭和10年の建物はその後の増築で形が変容していった。現在入試広報室が入っている東館がそれである。当時を髣髴とさせる天井の高い建物で私はこの雰囲気がとても好きである。
・ 平成の新校舎は全教職員一体となって素晴らしい「100年校舎」を建てなければならない。そうすることが先人のご苦労に報いることだ。昭和11年に必死になって新校舎を建てた先輩たちに負けてはならない。私はこのブログを書きながら決意したのである。






