2011年6月25日土曜日

23年6月25日(土)本校の歴史その19「末吉栄三先生」




   






 

・ ブログ「本校の歴史も遂に19番目」になってきた。前回の18で「第三代校長 岡阪一福先生と新校舎建設」を記した。この岡阪時代に浪速は新校舎建設ともあいまって息を吹き返したと言える。多くの生徒が集まるようになったのは高学歴志向という社会背景もあったと思うが、校長始め教職員の力による存在感の拡大が有ったと私は思う。
・ 創立以来10年である。何事も認知されるには10年と言う年月はかかるのではないか。第三代岡阪校長時代はそれまでの離陸から安定飛行に移った時代である。しかし日本は戦争へと言う道にひたすらに突き進んでいた時代であった。

・ このブログは年表と言うより「人物に焦点」を当てて記しており今日の主人公は90歳のご老体(失礼!)である。お名前を末吉栄三さんと言う元先生である。90歳ともなるとお話の時に何と読んで良いのか分からないが、その点元教員は「先生」でいけるから大変便利である。
・ 映画や芝居では様々な言い方がある。前述した「ご老体」もその一つであるが水戸黄門様は「ご老公」と呼んだりする。ご老人では失礼だろう。「年配者」とか「人生の先輩」とか「先達」というのもある。「長老」などと言う時もあるがそれはまだその組織に残っている場合だと思う。とにかく先生と呼ぶのは使いかってが良い。
・ この末吉先生は本校の卒業生であって、府立高校の校長経験者である。その後本校で国語の教科を教えられ、最後は中学校の副校長までされた先生である。本校には10年間勤務されてボツボツ引退時期と考えられ、引退されたとお聞きした。
・ しかしすごいのはその後だ。又他の私立高校から求められて更に10年間講師をされて本当に引退されたのが80歳というから「超人的」である。ようやく悠々自適の生活となり、奥様と共に元気でここ10年となった。だからどう計算しても90歳になる。
・ 本校の歴史を良く読んでおられる方は末吉栄三の文字をみて気づかれたと思うが私は末吉先生の残された文を多く参照しており大変助かっている。40年史、50年史、60年史と回顧録が掲載されていた。当然だが殆ど同じ内容である。
・ その文章も国語の先生と言うことで大変立派な文書で私は感心している。その末吉先生のご自宅に電話して「ご様子を伺い」、「一度お時間があれば学校にお越しになりませんか。先生の母校に武道館が完成しましたのでご案内したいのです」と申しあげたのが1週間位前であった。
・ 昨日電話があって「今日用事があって難波に出るが、午後からでも行けるがどうだろう」と言われたので「先生、了解でーす。お待ちしています」と申し上げたのである。そして秘書さんに「末吉先生が来られるから門衛に言っておくように」と言った。
・ このような偉大なる人生の大先輩で本校に極めて縁のある方を「門の受付」でお名前を書いて貰うような「失礼なこと」はしてはならない。「フリーパス」である。こういうのを「配慮」と言うし「礼儀」だと思う。一見の業者さんで無いのだ。
・ 私は末吉先生とは今まで同窓会などで2ないし3回お会いしたこともあり、その時は周年史など読み込んでいなかったから「母校に対する先生の思い」も必ずしも完全理解とは言えなかったが今回歴史を追いかけていくうちに実に良く分かったのである。
・ だからご高齢ではあったがもう一度先生と二人きりで昔のお話を是非聞かせて貰いたいと思った。失礼だが何しろ90歳になられる。何時何があってもおかしくないからと内心思ったのである。
・ しかしお顔を人目見たときに驚いたのはその「颯爽振り」であった。目は輝く足元はふらつかず、しっかりと歩かれるのだ。又頭の回転も速い。80年前の話をしているのに私の次から次への質問に答えられる。
・ 確かに「ウーン。あれは・・・」と直ぐに個人名などが出て来ない場面は本当に少なかった。聞けば「足腰が大事」ということで階段を使ったりして鍛えておられると言う。後述するが先生の「若かりし頃」と雲泥の差である。
・ 60年史において先生は次のように回想されている。“私が浪速中学にお世話になったのは昭和9年であり、兄二人が堺中学校(現在の三国ヶ丘高校)に進学した中で私がこの学校を選んだのは当時身体の虚弱であった私を母が心配してくれたからだ。当時近くに住んでおられた今日の名誉校長平石芳太郎先生に母が相談しここに進んだようである。”
・ 驚くではないか。虚弱な子どもが何と90歳まで生きておられるのである。これについて先生は次の様にも言われている。“思うに体育担当の土井唯次郎先生は「健康は正しい姿勢による」としてにくいまでに姿勢の矯正と節度ある生活習慣の指導をしてくださった。しかし週何回かの体操のある日は登校する足取りが重く感じられた。”
・ 昨日お会いしてもお話の中にはこの土井先生の素晴らしさを語られる。余程土井先生のご指導が良かったに違いない。この時代「朝会」というのがあって朝始めに全校生徒が体操をしている。素晴らしいことである。ちゃんとアルバムに証拠が残っている。

・ 末吉先生は昭和9年に入学,昭和14年の卒業である。私は昭和14年の記念帖(今でいうところの卒業アルバム)から77年前の末吉先生を探し出した。ハンサムボーイでお顔にも品があられた。5年生A組で集合写真からも直ぐに探し出すことができた。
・ しかし昔のアルバムは良い。この頃になると写真の中身も様々な場面が出てきている。そこが良い。特に気づかされたのは「集合写真」だ。クラス単位で必ず校長と担任の二人が中央に座って一枚に収めているのである。確かに昔はこうであった。
・ 入学を許可し、卒業を許可するのは校長であって教諭ではない。校長から委託を受けて担任業務をするのであってこの根本原則が今では崩れてきている。集合写真もあったり無かったりだ。これは改めなければならない。
・ どのページも「ピースサイン」やふざけたノリの写真などはない。1枚一枚の写真から「学校が生徒に伝えたかったもの」、生徒からは「夢に向かっての気迫」が伝わってくる。どうして今のアルバムは「漫画本」のようなものになってしまったのだろうか。絶対に改める。

・ 末吉先生は旧制浪速中学校を卒業後東京の「二松学舎」で学ばれ教師の道を歩まれた。最後は府立八尾東高校の教頭4年、そのまま校長4年をご経験された。そう言う意味では私も府立高校の校長を4年やったから私の大先輩なのである。
・ 母校である浪速高校に勤務された経緯は今回初めて分かったのであるが平石芳太郎先生が「三顧の礼」でもって迎えられた。この時も末吉先生の母君の関与があられたと言われた。先生は「浪中も二松学舎も浪高も私の人生はすべて母が決めました」と大笑であった。



・ 本日早速お礼の葉書が先生から届いた。お土産と私が手配したタクシーのお礼、そして愉快な時を過ごさせて貰ったと書いてあった。達筆な直筆だ。文章も簡潔にて見事である。どうして昔の人はこのように律儀なのであろうか。現代に生きる我々は見習わなければならない。