| 「稲むら」 |
| 広川町役場前の稲むらの火広場にある浜口の銅像 |
・ 「日本では小学校教科書に“稲むらの火”という話があり、子どもの時から津波対策を教えているというが、本当ですか?」と2005年スマトラ沖地震と津波対策を話し合う首脳会議がジャカルタで開催された時にシンガポールの首相が当時の小泉純一郎首相に尋ねた。小泉さんは答えられなかった。知らなかったからである。
・ 一方皇后様が1999年65歳のお誕生日に宮内庁記者会において、その年「津波の被害から復興した奥尻島訪問」を振り返られて、子どもの頃教科書に「稲むらの火」と題し、「津波の際の避難の様子を描いた物語」がその後「長く記憶に残った」とお答えになったことが記事で紹介されている。
・ 上記のような背景が少なからず影響したと私は想像しているのだが、この「稲むらの火」の話は今年から「新学習指導要領」にのっとって小学5年国語教科書(光村図書出版)に“浜口の伝記”として復活した。
・ この浜口とは実在の人物で小泉八雲が「A living God 生き神様」と英語で物語を書いた紀州の浜口儀兵衛氏のことである。この話を浜口の地元の小学校教員、中井常蔵氏(1907~1994)が子どもでも分かるように再構成した。「燃ゆる稲むら」と題した。
・ 昭和9年文部省の国定国語教科書の教材公募にこの中島氏の作品が入選し昭和12年(1937)から10年間、小学国語読本(5年生)と「初等科国語六」に掲載され児童たちに深い感銘を与えた。
・ この教科書は世界に広められアメリカコロラド州の小学校では英訳した「The Burning of the Rice Field」として副読本として使われていた。全ては小泉八雲先生のおかげである。それを日本の総理で名前も同じ小泉元首相が知らなかったと言うのだから恥ずかしい。
・ 話は飛ぶが枝野官房長官が国会討論で「今の天皇陛下は何代におなりか、ご存知ですか」と聞かれた「存じていません」と答えたと言う話にも私はのけぞって驚いた。一般国民ならまだしも政府の中枢にいる国会議員が知らないと言うのだから「日本の歴史をもっと勉強せよ」と私は叫びたい気持ちである。
・ 「1854年安政南海地震」が起き津波が現在の和歌山県有田郡広川町に襲来した際、醤油の製造(ヤマサ醤油)を生業とする町の豪商浜口儀兵衛が田に積まれた刈り取ったばかりの稲わらに火をつけて避難路を示し、村民を高台に誘導して津波から村民を救ったという話である。
・ 地震時の津波への警戒、早期避難、人命救助の為の犠牲的精神、トップリーダーのあるべき姿など多くのことをこの教科書は児童に与えたのである。このような記事が今朝の大阪日日に掲載されていた。「防災教育へ不朽の作品」「記憶に残る“稲むらの火”」が見出しである。
・ 私はこの話は昔和歌山県に住んでいたこともあって知っていたし、「教育再生」という教科書編纂を主題とする会のメンバーなのでこの教育雑誌からも知っていた。5月号は「復興防災は江戸に学べ」「歴史の知恵を子どもたちに教えよう」であるが、まさにこの通りである。まさしく稲むらの火は江戸時代の話なのである。
・ 一方今朝の日経一面の下部「春秋」欄には先の大震災で大被害にあった「石巻市大川小学校の悲劇」について震災後100日となる今日特別のコラム記事を掲載していた。前にもこのブログで書いたがこの大川小学校は全校児童108人の内74人が犠牲となった。
・ 11人いた教職員も生き残ったのはたった1名だからそれだけに胸が痛むし気持ちが複雑になってくる。地震発生から津波が押し寄せるまで50分もあったという。50分ですぞ!一人残らず退避出来た筈だ。しかしこのことは現場に居なかった者には何も分からない。
・ 今目撃者などから被災時の状況が明るみになりつつある。この小学校の悲劇は決して忘れられてはならないだろうし、「学校の教師たるもの常日頃如何にあるべきかを考えておく教訓」にしなければならない。これが亡くなった74名と11名の先生への「手向け」である。
・ 2時46分地震発生。先生方の誘導で校庭に集合。同49分大津波警報。教諭らは校庭で対応を検討。ある近隣の住民の一人(男性70歳)が午後3時10分過ぎ児童らが列を作って歩き出し始めたのを目撃している。遅すぎる。
・ その直後に「ゴーッ」とすさまじい音がしてその男性は児童の列とは逆の「校舎南側の裏山」に向かって走り出した。堤防を乗り越えて「北上川からあふれ出した巨大な波」が学校を含む釜石地区全体に襲い掛かったのである。
・ その男性や住民の証言を総合すると「津波は児童の列の前方からのみ込んで行った」という。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えてその男性と一緒に裏山を駆け上がり一部の児童は助かった。
・ 今のところ教諭達が学校の裏山を避難道に選択しなかったのは裏山は急斜面で足場が悪かったから、これを避け、学校から200メートル西側の離れた高台にある新北上大橋を目指したのではないかと言われている。又余震による建物の更なる被害も懸念したのだろうと思う。
・ しかし皮肉にも大河である北上川の河口から4キロ離れているこの場所から津波はあふれ出し児童をのみ込んだのである。そこは周囲の堤防よりは小高くなっている場所で市の防災マニュアルでは津波対策を「高台に上る」とだけしか記していなく、具体的な場所は各校に委ねられていたという。
・ 結果的に言えば裏山に避難していたら全員が助かった。ある人は急斜面と言っても子供のほうが平気でドンドン先に上って行っただろう。どうして海面とさほど違わない川の橋のほうに進んで行ったのか理解出来ないと言う人もいる。
・ 市教委は「想像を絶する津波だった。学校の判断は致し方なかった。」と聞き取り調査後に述べたとあるが、私に言わせれば「それは無いやろう?!」という気がする。全校生徒の70%と殆どの教諭が亡くなった災害だ。単一の小学校での被害としては過去例が無い災害ではなかったか。徹底した検証こそ求められる。
・ すでに完了していると思うが、生還した教諭から校長は詳細徹底的に聞き取りまとめなければならない。どのような会話がなされどのような意思決定に繋がったのか。たまたま外出して現場に居なかった校長は助かった命の代わりに福島原発ではないが徹底した調査究明が仕事だと私は思う。
・ 不運にもこの学校の校長は稲むらの火の浜口儀兵衛にはなれなかった。避難の道筋を示すことが出来なかったからだ。公務でその現場に居なかったことを責めているのではない。常日頃どのように指導していたかが問われるのではないか。
・ 厳しいようだがこの学校の管理職と教師はこの津波頻発地帯の海に近い学校で常日頃何を考え、どのように防災教育をして来たのか。どうして児童を校庭に集め、遠足みたいに列を組んで歩かせたのか。私は哀悼の意と同時に言いようもない少しの「いらだち」みたいなものも感じるのである。
・ 亡くなられた先生方に鞭打っているのではない。これは間違いなく「殉職」である。それだけに申し訳ないが誰かが言わねばならない。米国だったら恐らく訴訟問題となるかも知れない。「当時の状況を知りたいと言う保護者の気持ち」は痛いほど分かる。
・ 50分間一体少なくとも数十分の時間はあった。この間何が話し合われたのか、どうしていたのか、どうして列を組んで歩かせたのか、裏山を選択しなかった理由は何か、津波は海からだけ来るのではない。河を上って来ることもある。川を遡ってくると言う考えは浮かばなかったのか。今までの防災教育はしていたのか。津波の時にはどちらに逃げなさいと教えていたのか、訓練はしたのか等々だ。
・ 想定外は言えない言葉である。あくまで想定して生徒を救わねばならない。いざ事が起きた時に「学校は生徒の命を守ってこその学校」である。ましてや先生が亡くなってはならない。先生は生きて生徒を守るのが仕事である。大川小学校の悲劇から我々は学ばねばならない。