2011年6月14日火曜日

23年6月14日(火)地上デジタル放送


本校建屋の最も高い場所にある地域近隣向けアナログアンテナ



・ 「太平洋戦史」を紐解くと大変勉強になることが多い。それは「旧日本軍の成功と失敗の歴史」がそこにはあるからだ。大敗をした日本ではあったが個別には特筆すべき戦果もあったのである。

・ 私は軍国主義者ではない。むしろ平和主義者であると思っている。しかし軍記物や戦功物に大変惹かれる。私などの年代は戦後生まれだから実際は何も経験はしていないので、結局年配者の話や「ものの本」等で昔を知るしかない。とにかく「昔の子どもは何らかの方法で先史を教えてもらっている」のである。

・ この点が今日的子どもの不幸な点だと私は思う。もっともっと日本の歴史を教えていかねばならない。核家族になりおじいちゃんやおばあちゃんから昔の話を聞かせてもらう機会も少ないだろう。肝心の親も学校で歴史を本格的に教えて貰ってはいないのではないか。

・ それに若者の「読書離れ」も問題だ。とにかく昔の事を知らない日本人が増えてきているのに私は空恐ろしい気がするのである。歴史に学ぶことは多い。何時ごろに何があったと言うことをおぼろげながらでも「若い脳に焼き付けておく」ことは大切だと思う。


・ 何時頃覚えたのか全く思い出せないが「キスカ無血撤退」という言葉は今でも口に直ぐ出てくる言葉だ。それは指揮官が木村と言う同じ姓の人だったから子供心に印象深いものだったからに違いない。

・ キスカというのはアリューシャン列島にある孤島のキスカ島である。120海里離れたところにアッツ島があって米国本土は近い戦略上の要衝の場所だ。このキスカ島の撤退の話から私は「勇気と戦略が不可能を可能にする」ことを学んだのである。

・ 昭和18年アッツ島守備隊が全滅した日本軍はその近くのキスカ島の5200名の守備隊見殺しの声があがる悲劇的な状況下にあった。米軍が蟻の入り込む余地も無いくらいに軍艦で島を包囲していたから、日本軍キスカ島の守備隊は全滅の危機にあったのである。

・ しかし救援隊木村昌福少将は当時の常識を覆して岩礁の多い場所を夜霧の中で忍び込み、島影を利用して米軍のレーダーから逃れ、島に接岸し、一兵も損じることなく2時間で全軍を撤退させたと言う当に奇跡的な話である。世にいう「キスカ無血撤退作戦」で後に映画にもなった。

・ それとは知らない米軍は熾烈な艦砲射撃をしてキスカ島に上陸したが全島に日本兵は一人もいなかったと言う。「拍子抜け」とこういうことだ。それにしても「成せばなる」とはこういうことかと私はこの話を聞いた時に感動し今でもこのキスカ無血撤退と言う言葉が体に染み付いて離れない。


・ 上記のキスカとはまったく関係ないが私は今「同じような撤退作戦」の指示を事務の担当に出している。それは「アナログテレビ放送の共同アンテナ」に関するものだ。今から32年前に話は遡る。

・ 昭和53年6月30日本校の南館と直心館が完成し竣工式を行ったと記録にある。その翌日の7月1日付けで「テレビ受信障害の対策」として本校が近隣住民と「覚書」を交わして共同アンテナとケーブルを配線した記録がたった一枚残っている。


・ 私は着任したとき以来、全ての「出金伝票」を必ず自分でチェックして捺印しているのだが、ある時「アンテナ整備代」として結構大きな出金があるのに気づいた。私は担当を呼んで「これは何か」と聞いたことから全ては始まった。

・ 一私立学校が特定の近隣の住民のためにということで電波障害を理由に支払いをし続けていることに疑問を呈した私は「何としてもこの問題は私の手で解決」と思ったのである。しかし如何ともし難く私は次のチャンス到来を根気強く待った。

・ そしてテレビはアナログ放送時代が終了して来月の「7月24日には地上デジタル放送(地デジ)へと完全に移行」されることになった。10年も前から「国策」として進められたものであり、私は「泣きの涙」でこの日を待たざるを得なかったのである。

・ 年が変わり1月はじめ、私は満を持して「共同アンテナに関する重要なお知らせ」と題し近隣の皆様用のビラを作り、配布した。要は「共同アンテナの維持管理から完全に撤退する」旨の文章をしたためたのである。勿論丁寧なお願い文章である。

・ 当然予想はしていたが、厳しい反応をする家庭もあり、「既得権益」をかけて学校に来られるわ、呼び出されるわで担当者は大変だった。時には恫喝に近い尋常な反応とは言えないものもあった。しかし私は一歩も引かず顧問弁護士とも相談し最後は訴訟覚悟で事に望んだのである。

・ 32年間の間にウン千万円もの費用をかけて近隣の特定の家庭に便利を図ってきたが、アナログからデジタルに切り替わる国策は本校とは関係ない話でありアナログ電波が来ない以上「コストをかけてアナログアンテナを整備する義務は本校にはない」ということである。

・ デジタル放送は基本的に今テレビでNHKが放送しているように各家庭でUHFアンテナを設置するかケーブルテレビによる受信しか方法はない。地上アナログ放送とは全く別物で電波もまったく異なるものである。

・ 課題があれば総務省の地デジコールセンターに問い合わせるのが筋であり国の方針であるから地デジ用のアンテナまで本校が義務を負う必要は無いし、ましてケーブルテレビの契約金まで負担する必要は無い。

・ 「イヤー、ものすごく抵抗する一戸」があったが私は5月30日に第二弾の文章を打った。末尾の文章は「したがってこのタイミングで皆様に提供して参りました共同受信施設はアナログ放送の終了を持って運営は終了させて頂きます。共同アンテナは経年変化で腐食してきており、このままでは生徒の安全にも不安がありアナログ放送の終了後速やかに撤去させていただきます。(後略)。丁寧に学校のおかれている状況を説明し平にご理解をお願いする文章にしたのである。一字一句事務長に教えた。
・ この覚書を交わした先人を叩く気はない。しかし余りにも一方的な内容であり、これでは「覚書きとしては落第」である。3年毎に見直すとか色々方法はあった筈である。まして当時の経緯や記録など一切残っていない。ただ覚書が出てきただけである。

・ 又私を憤慨させたのは4月以降新体制になった事務室の職員連中である。さも物分かりの良さそうな顔をして、この問題について甘さと言うか「腰が引けて」いたのである。前の事務長だったらこういうことは無かった。いささか親事務長に私は落胆した。以後「理事長の直轄マター」としたのである。

・ アナログ放送のある間は仕方が無いがデジタル時代になってまで本校が責任を負う理屈も何も無い。「私が直接指示して見事な撤退作戦を取る」と言明し厳命したのである。私は本校の教職員や生徒に為だったら必要なお金はどしどし遣う。しかし理屈の通らない先には絶対に1円1銭たりとも出さない。もう十分地域には貢献してきた筈だ。これ以上何をせよと言うのかと事務室を厳しく指導した。

・ 32年間の長きに渡って貴重な保護者からの納付金と府からの補助金からその一部を地域に支払い続けてきた本校はデジタル放送に切り替わるタイミングで放免してもらいたい。さもなくば後世の浪速の教職員に笑いものにされるだろう。浪速がある限りお金を払い続けなければ成らない「瀬戸際」だった。

・ 大正12年5月1日に開校した本校は爾来この地で学校を営んできた。当時この辺りは本校以外は何も無くあるのは我孫子大根と我孫子南瓜の畠だけで焼場と墓地しかなかった土地だ。それを後から住み着いた人々が何を言うかと言ってはならない。

・ やらねばならない時はする。しかしやる必要もない段になってまでやると言うのはアホのやることだ。前にも浪速スタジアムを作った後で「うるさい、照明で明るくて寝れない」とかイチャモンを付けられたが私は最後の局面では前事務長を使って陣頭指揮で反論反撃し一歩も引かなかった。今度も決して妥協はしない。
・ 本日の夕刊でNHKの受信生障害が記事になっていたがこれは全く別物で本校の建屋が邪魔しているのではない。サンテレビとNHKの電波が混信しているとの内容であったがこれはサンの阪神タイガースの放映が影響しているらしい。これなど本校には全く関係ない話だ。