・ 第二代内田勇助校長が着任されたのは昭和6年である。即ち「昭和初期」である。この昭和初期と言うのは日本史において一体どのような時代であったのか。ブログ本校の歴史15「第二代内田勇助校長」の欄で述べたように旧制浪速中学校は生徒数が減少の一途を辿る「辛い時代」であった。
・ その減少も「つるべ落とし」みたいな落ち込みであった。初代校長に大里猪熊先生という立派な先生をお迎えし8年間本校は大阪府内に中学校としてその存在感を示した筈であったが結果は厳しい状態であった。
・ とにかく昭和初期の浪速中学はというより内田校長時代は「良い事は少なかった」とも感じられる時代であった。それは「時代背景」も大きく影響しているような気がするのである。内田校長時代の記録も少ない。
・ 前号において昭和11年に卒業した橋本清左衛門というお方が回顧文を残されているのを紹介したがその中に“私は昭和7年の9月に草深い吉野の山奥から山稼ぎの見繕いで只管「勉強がしたい」という一念から生まれて初めての電車に乗り生まれて始めての大阪の町へ出て当時の上宮中学校と桃山中学校の編入試験を受けて門前払いや学力不足で不合格の烙印を押され、最後の頼みと浪中の門を叩いた・・・。”とあるように悔しいけれど旧制浪速中学は旧制上宮中学、旧制桃山中学には一歩の遅れを取っていたことが窺える。
・ 私は記録に留める当時の教職員の真実の声を聞きたいのだが適わぬことであった。大体このような学校周年誌は「良いことしか書かない」のが普通であり、私の考えは「逆」である。気持ちは分かるがやはり少しは「悪いことや失敗したことなどの分析」が重要である。成功例から学ぶことは少ない。
・ 今でも上宮学園や桃山学院とは競合するライバル校である。このようなライバル校があることは実は嬉しいことなのである。90年近く経った今でも競合している。当時の状況と現在の違いとを比較して本校の成長・非成長の道程がある程度分かればこれは学校改革にとって大きな視点が得られる。
・ 学校と言うのは極めて「保守的」であり、変えていくのが難しいだけに「連続線での相対的ポジション」が知りたいのである。「良いときも有れば悪い時もある」だけでは結局進歩は無い。学校という公器の「宿亜」はここにある。分析解析がない。
・ 私は昭和初期と言う時代を少し勉強した。司馬遼太郎は有名な「この国のかたち」と言う本の中で昭和10年代から戦争の終わる20年は「非常に特殊な時代」だったと書いている。魔法にかけられた10年間とも表現している。この魔法とは陸軍主導の「統帥権」に関したことであるが、この言葉だけでも時代背景が容易に分かる。
・ 私はそうならば大正時代が終わって昭和10年までを「軍靴の足音が大きくなっていく混迷の時代」と表現したい。明治時代は「富国強兵の時代」、大正時代は「大正ロマンの時代」そして昭和初期は世界恐慌があって昭和10年以降の軍国時代に突入していく混迷の時代だと思うのである。こういう時期に内田校長は浪速中学で頑張っておられたのである。
・ 昭和2年(1927)昭和金融恐慌
昭和3年 張作霖爆破事件
昭和4年 世界恐慌
昭和5年 金輸出解禁 ロンドン海軍軍縮会議
昭和6年 満州事変 金輸出再禁止 内田校長時代
昭和7年 満州国建国 五・一五事件 内田校長時代
昭和8年 国際連盟脱退 内田校長時代
昭和9年 陸銀士官学校事件 内田校長時代
昭和10年 天皇機関説事件 相沢事件
昭和11年 二・二六事件
昭和12年 支那事変勃発 日独伊防共協定締結
昭和13年 国家総動員法制定
昭和14年 ノモンハン事件 ドイツがポーランドに侵攻 第二次世界大戦
・ 以上のような社会背景を受けて浪速中学も「教練の時代」を迎えている。初代大里校長が亡くなられた昭和5年からの学校の出来事を記しておこう。
昭和5年(1930)5月16日 伊勢神宮参拝
6月16日 城南射撃場にて実弾射撃
6月18日 信太山砲兵隊にて演習
9月28日 弓道場新設(総工費2200円)
1月28日 大里猪熊校長告別式 奥村泰助校長事務取扱着任
2月21日 武道場落成式
昭和6年(1931)4月11日 内田勇助校長着任
昭和7年(1932)5月23日 学校図書室開設
秋 泉北郡金岡村での大演習に参加
秋 城東練兵場にて天皇の御親閲を受く
昭和8年(1933) 敢えて特記事項なし
昭和9年(1934) 4月2日 満州国留学生入学
9月8日 内田校長死去
9月14日 内田校長の校葬
9月21日 室戸台風にて校舎倒壊
・ 内田校長は在職3年と5ヶ月という短さで亡くなられた。私には「悲嘆の内の死」みたいな気がするのである。元々お身体が丈夫ではなかったという記録があったが浪速中学の3年で寿命を縮められたと思うのはうがちすぎであろうか。
・ 米国に10年留学し英語教育では極めて有名な教師であった先生は間違いなく「リベラル」なお考えを持たれた先生であったろう。昭和初期と言う時代背景の中で恐らく若き時を過ごした大好きなアメリカと言う国と徐々に離れていく日本の悲しさ、大正時代から打って代わったような経済情勢下で生徒数が減少していく中でどうしようもない焦りと辛さが先生の寿命を短くしたのではないかと私は思うのである。
・ 旧制今宮中学校の年史を詳細調べないと断定した事は言えないが内田先生は初代大里校長のような校長経験者ではなかったと思う。どの年史を探してもそのような記述はない。即ち教諭から浪速中学校の校長になられたのではないだろうか。
・ 先生は素晴らしい英語の達人教師であったことは先のブログにおいて大阪を代表する大作家の藤沢桓夫氏が産経新聞に投稿した記事からも分かる。私は内田先生にとって校長という管理職の仕事も先生の病魔をそそのかしたと思うのである。
・ 大正12年の創立以来8年の長きにわたって校長を務められた初代大里猪熊先生が「学校葬」とはならず二代目のそれも3年半という短さであった内田校長が本校初めての「校葬」となった背景は簡略には言及できないが私には何か分かるような気がするのである。
・ 校長自ら教壇に立ち生徒募集に走り回ってとにかく生徒を集めることに傾注された。60年史の中にある末吉榮三先生が見事に言い当てているのだが昭和9年先生が亡くなれた年の1年生入学者数が中学校全体の43%を占めていたとあることで容易に先生のご功績が分かるのである。
・ 先のブログに書いたように内田校長は生徒を愛し生徒から愛された校長だった。中学校全体(5学年)で400人を切るような小所帯であった浪速中学校はそれだけ「家族的な雰囲気」のある学校だったに違いない。家族の父親が内田校長先生だったのである。
・ 内田校長の学校葬の写真が残っているがそれは、それは大変「立派な葬儀」だったことが分かる。今ここで現在の浪速を預かる者として私は心から内田校長のご冥福をお祈りしたい。時期を見つけ先生の墓前にお参りもしたいと思っている。