2011年6月16日木曜日

23年6月16日(木)本校の歴史15「第二代内田勇助校長」



 


・ 初代大里猪熊校長は昭和6年1月28日にご退職された。病を得て卒業式を控えた時期のことであったから先生もさぞご無念であったと思う。この素晴らしい初代校長先生を得て旧制浪速中学校は離陸した。假校舎から出発し大和川傍の依羅池を埋め立てながら校地を整備して行った創立当時のご苦労は想像するに余りあるものがある。

・ 突然の校長不在となった旧制浪中は初代大島鎮治先生と同じように「大阪府から校長事務取扱」を迎えることになった。そのお方のお名前は「奥村泰助」氏と言う。府の行政職幹部にあって財団大阪国学院の理事長に就いておられた関係から必然的に指名されたのだと思う。

・ ちなみにこの奥村先生はこのブログの主人公である第二代校長内田勇助校長が亡くなられた後も次の第三代岡阪一福校長が着任される一ヶ月間の校長事務取扱にあたられている。即ち校長事務取扱の職位で都合2回の登板をされておられる。

   奥村泰助氏 昭和6年1月28日~ 昭和6年4月11日  校長事務取扱
           昭和9年11月21日~昭和9年12月21日 校長事務取扱
・ いずれも現役の校長が亡くなられたと言う時だから辛い役回りであったと思うが、この奥村泰助氏も大変立派な人物で生徒数の減少、室戸台風による校舎倒壊の危機的状況下で当に「難局打開」に陣頭指揮を取られてお方である。

・ 責任感の高い、人格識見をお持ちになり徳望も高い人物だったのだと容易に想像できる。氏は大阪府庁を退職された後、初代の豊中市長として活躍され、「名市長」とうたわれた人である。豊中市のホームページを検索すると「歴代市長」のトップにこの奥村氏は登場する。初代と二代の市長であられた。

・ 豊中村が市制に移行したのが昭和11年であったから2回目の校長業務を終えられた後政治家に転じられたのである。奥村泰助氏に敬意を表して豊中市のサイトにある初代市長のお写真をこのブログにおいても掲載したいと思う。このようなお方のお力を得て今日の浪速があることに私は頭が下がるのである。


・ さて旧制浪速中学は初代に引き続いて素晴らしい校長先生を迎えることになった。その方のお名前は「内田勇助」氏と言い着任日は昭和6年4月11日であった。戦雲色濃くなってきた時代であったと言える。大正12年の創立から既に8年が経過していた。本ブログ本校の歴史も遂に「二代目校長の登場」である。

・ ここで閑話休題、作家の堺屋太一先生が少し前に産経新聞に連載された「三人の二代目」はここ最近読んだ読み物としては大変に面白かった。新聞記事で連載小説を追う事は多いがこれに関しては一回も欠かさず読んだと思う。

・ 戦国武将であった毛利輝元、上杉景勝、宇喜田秀家の二代目を堺屋氏の表現力で描いたものでそれぞれが関が原の戦で「負け組」となった。素晴らしい初代の後を継いだ二代目は「生きていくスタイル」も制限され、辛いものである。勝った方の徳川家康の二代目の秀忠も辛かった。

・ 私はそのように考えた時に初代校長大里猪熊先生の後を継いだ内田勇助2代目校長の生き様というか校長ぶりに大変興味を覚えるのである。一体内田校長はどのような人物であったのであろうか。


・ その前に学校の状況を見ておかねばならない。昭和3年に旧制浪速中学校は初めての卒業生を出した。その時の生徒数は148名であった。その後順次、168名、180名、163名(昭和6年)で4回目の卒業式の終わったこの年の4月に内田校長は着任した。

・ その後生徒数は125名、93名、63名と減少に一途を辿っていくのだが、このような時に内田校長は旧制浪速中学校にご着任されたのである。生徒数はその後も減少を続け、昭和11年には卒業生が32名にまでなった。

・ 私立学校において何が辛いかと言えば「生徒が少ない、来ない」ほど辛いものは無い。内田校長も内々の人事の話の中で浪速中学校の生徒数が少なくなっていることは聞かされていたに違いない。しかし浪速中学に転進をされたのである。私は自分の身に置き換えて考えてみると内田校長のお気持ちも何だか想像できるのである。


・ まず「内田校長のお人柄」を述べてみたい。こういう場合自分が勝手に経歴やお顔から想像するのは止したほうが良い。主観で判断してはいけないからだ。まず周辺の人々がどのように語っているのか、そこから始めた。

・ ご経歴を語るときに格好の文章がある。昭和47年9月18日の産経新聞の夕刊に作家の藤沢桓夫(たけお)氏が一文を寄せている。藤沢氏と言えば明治37年生まれで平成元年に没した大阪を代表する大作家である。旧制今宮中学から大阪高校に進み東京帝国大学を卒業した。

・ “内田先生は晩年には浪速高校(旧制浪速中学のこと)の校長を務め、故人となられたが若い頃アメリカに渡り、スタンフォード大学に学んだ。十年近くアメリカにいて無論英語はぺらぺらだった内田先生にとっては1年生の私たちに英語を教えるのは幼稚園児にイロハを教えるより容易だったろう。最初の一ヶ月間くらい先生はリーダーなどに見向きもせず、四角い白紙にアルファベットの26文字がそれぞれ一字ずつ大きく書いてあるのを抱えて来て私たちに各母音子音の発音を大声をあげて反復することによって徹底的に叩き込み、次に子音と母音の結びつきをやはり大声を上げる方式で憶えこませた。とにかく内田先生の巧妙で熱心な教えのおかげで私たちには英語ほど解りやすく覚えやすい学課はなかったのである。それも初期に内田先生に基礎をがっちりとたたきこまれたプラスが大きかったような気がする。内田先生は自分の信に従って「我が道を行く」型の頑固で好き嫌いのはっきりした変わり者の合理主義者と言った善良な人柄だったが自分の教え子、殊に真面目に勉強する生徒や才能のある生徒を非常に可愛がった。”

・ 又別の人物は50年史の対談において次の様に述べている。“室戸台風の1週間前にお亡くなりになり本校にとって二重の不幸がやってきました。昭和6年4月旧制今宮中学を退職後本校に迎えられたとのことですが大変生徒を愛され校長自らが補習授業に出られたくらいご熱心な方でアメリカ留学中に学ばれた得意の英語を教えられたとの事と思います。当時は生徒数も少なかったそうですが、先生の徳を慕って集まる生徒も増えて難関を突破し今日の隆盛の一面をつくられたと感謝しています。惜しいことに健康がすぐられず、在職期間少なくして他界せられたのは真に惜しいことと伺っております。”

・ 50年史当時の理事長だった園克己氏は「内田先生は旧制今宮中学の教え子や本校関係者が今でも先生のお徳を慕って先生のお墓(堺市百舌鳥、土師)参りを続けて居られる方があるとの事ですがこれを見ましても先生が如何に教え子を愛されたかを如実に物語っております。」

・ 昭和15年から昭和43年まで本校で英語の教諭を務められた園田博光という先生は同じように50年史の対談で“昭和7、8年頃と申しますと本校では生徒の数の最も少ない時でした。先生方も生徒募集に回られた時でしたが校長自ら陣頭に立たれてご活躍された。浪中起死回生,中興の校長として今尚面目躍如たるものがあります。”

・ 又昭和8年入学で13年に卒業した元小学校教員だった善見勉先生は同じく対談の中で“私の家の隣は内田先生のお家でした。内田先生は遅刻の先生の代わりに授業されてその先生を立たせておかれました。”と述べておられる。


・ しかし第二代内田勇助校長を語る上で圧巻の文章は次の一文である。この方は60年史に登場する昭和11年卒の橋本清左衛門というお方である。内田校長は突如昭和9年に亡くなられているからこの卒業生は校長の死をまじかに見知っている人物である。

 “私は昭和7年の9月に草深い吉野の山奥から山稼ぎの見繕いで只管「勉強がしたい」という一念から生まれて初めての電車に乗り生まれて始めての大阪の町へ出て当時の上宮中学校と桃山中学校の編入試験を受けて門前払いや学力不足で不合格の烙印を押され、最後の頼みと浪中の門を叩いた当時は既に17歳になっていた「ヒゲモジャ」の落伍者の一人でした。ご想像の通り編入のテストは悪く、特に英語は白紙だったので夢が破れたというよりむしろ諦めがついたといった方が妥当である。ところがこんな私に突如一条の光明を与えて下さったのが内田勇助先生でした。校長室に呼び出されあれこれ身の上話を聞いてくださった末、本校は学力だけを教育するところではない。人間をつくる学校なのだ。私の一存で入学を許可するというお言葉であった。私には夢の又夢の感がした。”(中略)さてここに特筆したい9期生の思い出がある。これは私たちが4年生の時の体験であり50年を経た今でも尚拭い去ることの出来ない痛恨の思い出である。当時母校は日毎に生徒数が減少の一途を辿っていた。その矢先の9月14日。突然に熱情教育に徹せられた校長先生、そして私を拾って下さった校長先生の「校葬」がありその涙の乾く間もない21日に空前の室戸台風に見舞われて校舎の大半が倒壊という憂き目にあった。”

・ 以下次のブログで。