2011年6月23日木曜日

23年6月23日(木)福島原発事故「一人の男の死」



・ 6月11日福島県相馬市で一人の男性(54歳)が首をくくって自らの命を絶った。酪農を生業としていた。東電福島第1原発から約50キロ離れた山あいで約40頭の乳業を飼っていたという。・ 原発事故で3月31日に原乳が出荷停止となり、搾った乳を捨てる毎日だった。それが1ヶ月も続いた。「牛乳が出せないからお金も入らない」と仲間たちにこぼしていた。男性はフィリッピン人の妻(32歳)と長男(6)次男(5)との4人暮らしで揃いのヤッケを着た妻が牛の世話の手伝いをしていたと言う。

・ 男性は長男の小学校入学式を楽しみにしていた。「郡山市まで行って高いランドセルを買ってやったんだ。」と言っていたそうだ。20年来の友人はそう言いながら笑っていた姿を思い出すと言う。

・ 妻子は4月下旬原発事故を心配したフィリッピン政府に促されて帰国した。長男の入学式の直前だったという。男性は同月下旬というから10日もしない内に妻子を追って出国した。・ 「おらだめだべ。べこ(牛)やめて出て行く」「子どもらがいなくて寂しい」と漏らしていた。男性は知人に「牛は処分してけろ」と頼んだ。しかし仲間が手分けして世話をすることを決めた。

・ 5月下旬というから一ヵ月後だ。男性は一人で帰国した。「戻る気はなかったが言葉も通じなくて・・・」。牛舎から牛は一頭もいなくなっていた。「迷惑をかけてすまなかった」と仲間に詫びたという。

・ 6月11日JA職員が亡くなっている男性を堆肥舎で見つけた。ベニアの壁には白いチョークでメッセージが残されていた。
 “ 姉ちゃんには大変お世話になりました。原発さえなければと思ます。残った酪農家は原発にまけないで願張って下さい。仕事をする気力をなくしました。
   (妻と子ども二人の名前を書いて)ごめんなさい。何もできない父親でした。仏様の両親にももうしわけございません。(一部省略、原文のまま)

・ 14日葬儀が営まれた。家族や酪農家ら200人が死を悼んだ。フィリッピンから駆けつけた妻子は泣きじゃくっていたという。又男性が残した書き置きには二人の知人の名前が記されていた。

・ 一人は堆肥を建てた大工の男性。その代金を完済しておらず「保険ですべて支払ってください。ごめんなさい」とあった。もう一人は隣の酪農家(64歳)には「言葉で言えないくらいにお世話になりました。」と書き残した。

・ テレビではこの男性の姉が「死んだ両親の後をついで酪農をはじめ苦労して苦労してここまで来たのにと言って涙を流していたがそのお顔は厳しいもので中央政府に対しての怒りの言葉が連続して出ていた。

・ しかし人間は死ぬ段になってこのような気配りと言うか心配りと言うか優しい気持ちになれるものか。二人しかいない兄弟の姉に“姉ちゃんには大変お世話になりました」と「感謝とお別れ」の言葉を述べた。姉思いで弟思いの兄弟だったのだろう。近くに嫁いだ姉は「あれこれ」と実家の後を継いだ弟の面倒を見たのだ。

・ 妻子に会いにフィッリッピンまで追いかけて行ったが1ヶ月で帰国した。私は言葉だけの問題ではなくて文化の違い、それに第一、生活費などなかったのではないか。義援金は支給されず東電の見舞金も支給されていない時だった。

・ 私は“仏様の両親にももうしわけありません”に涙した。両親から受け継いだ牧場を見捨てる辛さが痛いほど分かる。律儀にも借金の清算まで書き残している。残った家族へ迷惑をかけたくない気持ちが伝わってくる。

・ 原子力発電の災害はこのようなものだということが本当に良く分かる。今までの災害は対応方針も処理後もイメージできるものであった。しかし原発災害は長く広く静かにそして被害者本人は何もできないことである。ただ見つめるしか方法が無い災害が原発災害であるということが分かった。

・ しかしこのような男性が東北地方の人々である。優しく周囲に気配りして仲間を大切にして肉親を第一に思う。あれだけの大震災にもかかわらず東北の人々は「日本人の素晴らしさ」を世界に見せ付けた。

・ 然しだ。それが何になる。生きていての人生だ。生きていれば良いこともあったに。残念でならない。東電も原子力保安院もこの相馬市の一人の男の自死をどのように受け止めているのだろうか。亡くなられた男性のご冥福を心よりお祈りしたい。合掌。