2011年6月22日水曜日

23年6月22日(水)本校の歴史17「室戸台風」










・ 初代大里猪熊校長は昭和6年1月28日にご退職、突然の校長不在となった旧制浪中は初代大島鎮治先生と同じように大阪府から校長事務取扱を迎えることになった。そのお方のお名前は奥村泰助氏と言った。その後もめまぐるしく人の入れ替わりがあったので整理してみる。
・ 昭和6年1月28日~ 昭和6年4月11日  校長事務取扱 奥村泰助先生
  昭和6年4月11日~ 第二代内田勇助校長先生着任
  昭和9年9月14日  内田校長の学校葬
  昭和9年9月21日  室戸台風 校舎倒壊 
  昭和9年11月21日~昭和9年12月21日 校長事務取扱 奥村泰助先生
  昭和9年12月21日 第三代岡阪一福校長着任
・ 旧制浪速中学は初代校長大里猪熊先生に引き続いて素晴らしい二代目校長先生を迎えた。その方のお名前は「内田勇助」氏と言った。世界恐慌があったりし厳しい経済情勢の中、戦雲色濃くなってきた時代であった。大正12年の創立から既に8年が経過していた。

・ しかし内田勇助2代目校長の時代は真に持って「厳しい時代」であった。それは生徒が集まらなかったのである。昭和3年に旧制浪速中学校は初めての卒業生を出したが、その時の生徒数は148名であった。その後順次、168名、180名、163名(昭和6年)で4回目の卒業式の終わったこの年の4月に内田校長は着任した。その後も生徒数は125名、93名、63、32名と減少に一途を辿っていく。

・ 私立学校において何が辛いかと言えば「生徒が少ない、来ない」ほど辛いものは無い。内田校長は自ら英語の教壇に立たれる傍ら、小学校周りをされて生徒募集に陣頭指揮を執られた。その成果が上がりつつある昭和9年9月に病をえて倒られたのである。

・ 旧制浪速中学校は「学校葬」をもって先生の恩義に応えた。恐らく少人数の学校だっただけに父親を亡くしたような悲しみに学校全体が覆われていたに違いない。しかしその悲しみの癒える間もない1週間後に本校は「地獄を見る」ことになるのである。

・ 世に言う「室戸台風」である。昭和9年(1934)9月21日午前5時頃室戸岬付近に上陸した台風は京阪神地方を直撃した。日本周辺の平均気圧が1013ヘクトパスカルだがこの台風の中心気圧は912だったと言うからものすごい勢力である。

・ 大阪では風速60メートルを記録し市内に壊滅的打撃を与えた。強風で送電線はひん曲がり、大阪湾では高潮が発生し、海水は海から8キロの大阪城まで逆流したと記録にある。当時の朝日新聞の号外があるがこれを見て私はとっさに今回の東日本大震災と重ね合わせたのである。

・ 文化9年(1812)に建築された四天王寺の五重塔と仁王門は木っ端微塵になり死者も出た。各種学校や寺院を中心に比較的大きな建築物に被害が集中し、特に明治期に建てられた市内の小学校の多くの校舎が木造建築で倒壊した。

・ 市内小学校244校の内180校、480棟が全壊半壊大破し、小学校の死者は職員7名、使丁2名、児童251名、保護者7名であったという。その他重軽傷者を含めると1571名となり大阪城公園には慰霊塔(教育塔)が立っている。

・ 本校の被害はどうであったのであろうか。例外にもれず、頂き物の校舎ばかりだった本校も本館を除いて全て倒壊した。壊滅的被害とは倒壊のことを言うのだろう。跡形も無いくらいに倒壊した。ばらばらである。

・ しかし幸い死者は一人も出なかった。これは「奇跡に近い」ことであった。何故本校には死者が出なかったのであろうか。ここが私には大変関心があった。一体どういうことが学校にあったのであろうか。
・ 台風が上陸したのが午前8時だから、これは通学時間の真っ只中である。当時は今と違って台風だろうが何だろうが教職員も生徒も学校に出てくるので学校の児童生徒に多くの被災者が出たのだが本校では死者は一人も出なかったのである。

・ 台風当日と翌日の当直日誌のコピーが残っている。貴重なものだ。これを読んでみると私は「当時の教諭の文章の巧みさ」に驚くのである。当直は21日が正富弥蔵先生、本校奉職期間は大正15年から昭和19年で理科の教諭。22日の当直は松井伊三郎先生で奉職期間は大正15年で事務のご担当であった。当時は事務室勤務と言う概念はなかった。教諭と事務とは同列であったのである。

・ 9月21日「宿直日記抄」から   正富弥蔵

 “ 9月21日金曜日。台風後晴。午前七時四十分頃風速六十メートル台風襲来シ、新校舎二棟、武道場、食堂倒壊シ、控所半バ倒レ、本館西部傾斜セリ。職員半数、生徒モ半数位登校シ、生徒一名負傷セリ。

   午前八時二十分頃住吉警察署ヨリ警官二名警備ニ出頭セラル。殆ど同時刻ニ岡阪教諭出校、十時頃退出。午後十一時頃平石教諭出校セラル。五年生高根宝二、松下計一、西村日吉、鹿谷衛、伊藤善明徹夜して警備セリ。夜間代ル代ル巡視警戒をナセリ。


・ 9月22日「宿直日記抄」から   松井伊三郎

 “ 9月22日土曜日。晴夜雨。午前中生徒校内清掃ス。大阪賓文館若槻氏、一年八百栄氏、鎌刈松次郎氏、興国商業学校礒部正聴氏、父兄会理事長小西氏御見舞ニ見エタリ。夕方平石先生、安城先生来校。岡田先生十二時前下校。卒業生荒井利雄氏ヨリ速達便デ見舞状、大阪島津製作所カラ風害見舞電報アリ。

   (中略)岡阪先生ヨリ沢山ノ寿司、中澤先生ヨリ大寺餅各御寄贈サレル。(後略)


・ 50年史、60年史に同じ文が掲載されているがこの台風が山之内の上空を時速60キロで通過して行く時の様相を克明に記憶している生徒がいた。名前を末吉栄三氏と言い当時中学校1年生であった。その後末吉氏は浪速中学校卒業の最初の大阪府立高校の校長になったお方である。

・ 退職後本校においてご専門の国語科の授業を持たれたお方でこの末吉先生の回顧録が最も如実に室戸台風時のことを記録されているのでそれを転記する。

 “堺から通学していた私はすでに堺東駅で強風に傘を奪われ大粒の雨あしを肌に痛いほど受け、寒気を我慢して残骸の傘を持って登校しました。今ここでお話していても恐ろしかった状況が目に浮かんでぞっとします。学校へ着くと食堂のスレート屋根が1枚2枚と飛び続いて煙突が倒れ段々怖くなり皆が教室の片隅に集まり、校舎のゆれる中で恐怖の世界に追い込まれていく状態でした。本館もみしみしと音がしてくるので中央の入り口から出ようとすると傾斜していて開かない。乾先生が大きな槌で三回、四回とたたかれやっと表に出ることができました。当時は道の横は畑になっていましたので「地面に寝ろ」と言われました。身を伏せると頂上の高圧線が風に揺れる音と風の音で何とも言えない位怖かったが、「もう大丈夫だ、心配するな。」と平石先生が一人ひとりに顔を近づけて励ましてくださいました。一人の怪我人さえも出なかったのは先生方の適切な指導によるもので珍しいことでありました。”
・ 上記文中の乾先生とは乾富三郎氏と言って事務のご担当、平石先生とは後に第五代校長に就任されるダルマ先生こと平石芳太郎先生である。この平石先生が同じ50年史において以下のように回顧されている。

 “先ほど話に出ました室戸台風で校舎倒壊のおり、乾先生が宿直で学校におられ、園田先生も歩いて来てくださいました。私は二人の先生と協力して指揮にあたりました。幸いに一人の怪我人に済み、神に感謝しています。”

・ この一人の怪我人は一体誰なのか。実はこの人はブログ15の内田校長に記している特別の計らいで内田校長から入学を許可された昭和6年入学、昭和11年卒の橋本清左衛門氏である。この方の回顧文を読んでみよう。当時4年生であった。

 “当時本校は日毎に生徒数が減少の一途を辿っていた。その矢先の9月14日突然に熱情教育に徹せられた校長先生、そして私を拾って下さった校長先生、内田先生の校葬があり、その涙の乾く間の無い21日、空前の室戸台風に見舞われて校舎の大半が倒壊という憂き目にあった。私はこの台風の際、早朝に登校していた下級生の誘導に走りまわり、最後の見回りをして階下に降りて来た時に級友の一人と共に校舎の下敷きになって負傷し、平石先生に救出された。ここに校長先生を失い、つづいて校舎を奪われた生徒の悲嘆こそ筆舌に尽くし難いものがあった。恐らく廃校になるだろうとの風評が巷に伝えられた。私たちは先生方に身の振り方を尋ねたことを想起する。”

・ 内田校長先生は突然亡くなる、台風で校舎は倒壊するわでこの時期の浪速中学校は間違いなく「絶命的ピンチ」であったことは間違いない。それまでの生徒数の不足は知れ渡っていただろうし、学校にとって最もというかこれ以上大切なものは無い校舎が無くなったのだから「浪中、廃校のうわさ」もむべなるかなであった。