2011年6月15日水曜日

23年6月15日(水)本校の歴史14「徽章・制服・制帽・校歌」




三種の神器をモチーフにした本校のエンブレム

・ 浪速高校40年史の2ページ目に「浪高40年沿革小史」というのがある。これがその後の50年史、60年史などにコピーされて貼り付けられていく。その小史に、創立した大正12年5月24日「徽章制服制帽制定」と記録されている。

・ その出展はやはり第一期生の卒業アルバムにあった「学年史」から取ったものであることが私の調査で分かった。これだけを考えてみても「アルバムの学年史は重要」である。具体的に昭和3年発行のこの最初のアルバムに大正12年5月24日「徽章制服制帽等規定サル」とある。

・ 4月30日が入学式、翌5月1日が最初の授業であったことは既に記してきた。沢之町の假校舎での入学式の如く、何事も「ばたばた」していたのだと思うが、それは徽章制服制帽が入学式に間に合わなかったことでも想像できるではないか。

・ しかしとにかく今に続く本校の徽章は大正12年5月24日に制定されたのである。私はこの旧制浪速中学校の徽章が大好きで大変気に入っている。しかし今の若い人にこの「徽章」という文字が正しく読めて意味を解するであろうか。

・ 「徽」は「旗印」の意味で「章」は「模様」の意味と辞書にはあった。職業、身分、地位などを示すために帽子や衣服などにつけるしるし、バッジのことで帽章、襟章、腕章、肩章などを総称して徽章という。最近では記章とも書くが徽章の方が本物みたいで良い。校章が最近では一般的で「校旗」などにデザインされていく。

・ 当初この素晴らしいデザインは一体誰が考案したのか不明であった。しかしよく考えられており、神社神道の学校らしく「八咫鏡(やたのかがみ)」の縁取りに中の字を入れている。三種の神器の一つから頂いているのである。恐らく神社界の人のアイデアではなかっただろうかと私は最初は想像していたのである。

・ ところが遂に校章設定の経緯の文章に当たったのである。40年史の対談の中で水島というお方が次のように述べておられた。“帽章が決定したのは創立第一回の職員会議で会議の結果生まれました。鏡にするか三種の神器のどれにするかで色々もめましたが結局あれになりました。”

・ この水島と言う先生は大正12年の5月から12月までの7ヶ月間だけ勤務した教員だった。当時京都大学経済学部の学生の身分であったがちゃんとした浪中の正規職員だったとある。当時の記憶が確かでこの方が創立当初のことを多く記憶されているのである。

・ 何でもそうだが人の書いたものは「じっくりと読み込まなければ」、大切なことを見落とすものだ。私などシツコイから「絶対あるはずだ」と思えば日にちを変えて何回も何回も読み返す。このようにして徽章制定の経緯が48年ぶりに「今を本校で生きている人々」に明らかに出来たのである。

・ 又徽章のデザインの“中”の字に横一点が入っており時々人様に「これは何の意味ですか」と聞かれるのだが正直よく分からない。国語の教諭に調べてもらったことがあるが、その教員が言うには「昔はこのように捨て点を入れることがあった」と言っていた。いずれにしても本校の徽章は品格があると私は誇りにしている。


・ 当時の中学生の制服と言うかスタイルは「詰襟の黒の制服」に帽子、黒の革靴で,靴は「編み上げ靴」である。特に黒の編み上げ靴は今の半ブーツの長さで甲の付近から上まで紐で組み上げている独特のものである。これを履いておれば旧制中学校の生徒であることは一発で分かったのである。

・ かばんは布製で右肩から斜めにかけたと年史に書いてあった。特に本校の帽子は「白線2本入り」で「ちょっと格好良かった」らしい。どの卒業生もそのように記している。昭和の初期頃になると「軍事教練」が入ってきて、この頃になると生徒はゲートルを巻いていた。軍事教練についてはその内にブログに記そうと思っている。

・ いずれにしても尋常小学校の普通のスタイルが「かすりの着物に細い帯で下駄履き」という様相だったから黒の長ズボンに編み上げ靴は一挙に「エリート的装い」になって、当時の旧制中学生は「誇り」に胸を膨らませたことは間違いない。


・ 私は現在歌われている新しい共学校としての校歌「我ら浪速」を策定した。これについては別途その歴史を記録しておかねばならない。そういった経緯から旧制中学校の「校歌」について相当調査した。

・ これも相当苦労した。結局歌詞だけ残り楽譜も分からないと歴代の周年誌を担当された人と同じ結果しか得ていない。これも最初は大変悔しいことであったが私は諦めなかった。

・ 60年史の記録によれば昭和20年敗戦と同時に校歌の歌詞内容が問題になり、次の「浪速健児の歌」に替わっていったのである。この歌については又別途の機会に書く積りである。

・ しかし旧制中学の校歌は素晴らしいと思う。一体どなたが歌詞を作られたのであろうか。


・ 一: 神のつくりし大八州(おおやしま) 正氣の力百錬の

     鐵をつらぬくますらおが

     真澄の鏡あさゆうに        磨く心を知るや君

                      見よ わが浪速中學校

  二: 雲に聳ゆる金剛に         忠義のあとを仰ぎつつ

     依羅(よさみ)の池に皇澤(こうたく)の

     無窮を思う少年の         清き誓ひを人や知る

                      見よ わが浪速中學校

  三: 茅渟(ちぬ)の海原そら晴れて   書窗(しょそう)千里の眺めあり

     その三州の野に立ちて

     氣は萬丈の虹を吐く        稜威(いず)の雄叫び聞くは誰ぞ

                      見よ わが浪速中學校


・ 遣っている漢字など難しくて辞書を引いた。書窗とか稜威とか意味も今では殆ど使われなくなっている。しかし格調高い歌詞ではないか。敗戦後厳しく指弾された教育への干渉はこのように「学校の血とも言うべき校歌」を変えざるを得なかった悲しさを私は思う。

・ 誰がこの校歌の作詞をされたか、私は想像した。60年史に昭和6年卒(4期生)の増田正春さんと言う人が次のように回顧された一文がある。“まず正門前2階建てのあの粋な木造校舎が目に浮かびます。それと校歌「神のつくりし大八州・・・見よ わが浪速中学校を覚えています」とあった。

・ 昭和6年卒の人の回顧だからそれ以前に校歌は完成して考えるのが自然である。既に大正12年の開校以来8年も経って校歌が無いほうがおかしい。そうすればこの歌詞は初代校長大里猪熊先生が作られたと想像できるのである。

・ 何故なら大里校長は昭和6年1月28日まで校長であられた。突如病のためご退職されたのであるが、卒業式の直前まで校長であったお人である。私はこの初代校長先生を徹底的に追っていったことはすでにブログ「初代校長大里猪熊先生」において書いた。

・ 大里校長は卒業アルバムに自ら作られた「漢詩」を揮毫されておりその文脈や文章の味がこの校歌と似たように感じるのである。とにかくこの大里校長は東大哲学科卒の立派な教養博識なお方でその書も素晴らしい。だから私は旧制浪速中学校の校歌の作詞は初代校長大里猪熊先生だと推論していたのである。

・ 以上のブログを書いて暫くしていたら運よく私の想像が当たっていることが証明された。やはり40年史において当時の社会科の先生であった園田という教師が「歌詞は大里初代校長、作曲は平田多美男先生でした。」
・ この平田先生ということは結局何も分からなかった。音楽の先生であったのだろうか、現時点では確認する術はない。校歌を作曲された先生の記録が何処にもないというのも辛い話だ。このように記録と言うのは不備があるのである。何年経っても誰にも分かるという記録こそ重要である。


・ PS:新制浪速高等学校になって校章は旧制中学校と同じデザインとなった。即ち「八咫鏡」の縁取りに「高」の字が入ったものである。これは誰でも考えそうなことで誰が決めたかなど何処にも記録は無い。又旧制中学の徽章策定時に議論があった「三種の神器」は80年経って平成の時代に制服のエンブレム」となって蘇った。さぞ旧制中学創立当初の先生はこのことを知ったら感慨深いものがあるのではないかと私は思うのである。