・ 今日一人の「男」が本校を定年退職して去っていった。最後の職位は事務長であった。午後12時30分、私を車を用意して正門から送り出した。「一つの転換期を迎えた」という気がした。私は離任前の5分間、彼を私の部屋に呼び、「最後の言い聞かせ」をした。その内容は書くまい。
・ タクシーの行き先は北部にある某私立女子高である。この学校の「理事長付き非常勤顧問」として本校を離任して直ぐ新しい仕事先に向かったのである。私は後姿を見て「良かったなー、Iさん」とつくづく思ったのである。
・ 私は部屋に戻り、先方のN理事長・校長先生に「今離任してそちらに向かっています。くれぐれも宜しくお願いします。・・・」と連絡したのである。しかしこの理事長のおかげで私は「一人の男の人生の最後の飾りつけ」が出来た喜びを感じた。
・ この理事長に対して私はご恩を忘れることは出来ない。実は昨年11月から私はこのI事務長の次の仕事を探し始めた。有力候補となる関係先もあって、そことまとまる直前まで行ったのであるが最後にこの話は破談になった。そして手を差し伸べてくれたのがこの女子高だったのである。
・ 私が今回の震災で実家に帰っている時にお互いの「阿吽の呼吸」で電話会談で今回の話をまとめ、私の業務再開の22日に本校にご来校頂いて勤務条件など取り決め、そして直ちに本人に申し渡したのである。
・ I事務長のその時の喜ぶ顔は今でも思い出す。彼は65歳であったがとにかく「金は要らないから仕事がしたい」とまで言っていたのである。このような男は定年退職だからと言って、家で孫の世話など出来ないのである。それを私は分かっていた。
・ このIという職員は本校での勤務期間は今日で17年と2ヶ月になる。65歳定年制度の本校にしては勤続期間が長くないのは銀行からの出向社員で再出発したからである。生まれは群馬県、北関東人である。河内長野市ご出身の奥様とご縁があり、47歳での出向と同時に河内長野に「終の棲家」を定められた。
・ 47歳で銀行から私立学校に出向を命じられた、その時の気持ちは同じ民間企業出身の私には痛いほど分かる。爾来「関東の土は二度と踏まず」を男の意地として河内長野に居住している。趣味は殆どなく、週末に家庭菜園と言っていたが間違いなく「暇つぶし」であろう。
・ とにかく「仕事大好き人間」である。それも「仕事が出来る男」である。愛煙家を通り越した「タバコ食い」で酒は熱燗の日本酒だけ、つまみは不要で「イカの塩辛」さえあれば一升は軽くいける口である。
・ 私は彼との4年間、本当に酷い目にあった。朝会ではお互いの距離は80センチだから時に熟柿臭い酒の臭いと口から吐き出すタバコの臭いに閉口したものだった。何回となく注意した。その後朝会の前には「お口クチュクチュ」してくるようになった。
・ 性格は「攻撃的」を超えて「好戦的」である。「人を怒らせる天才」とまで言う人が居た。ただ仕事は速くとにかく「エクセルを使った資料のまとめは天才的」であった。ただ部下からは好きな仕事には没頭するがそうでもないものには冷淡だったと何回も私は聞かされた。しかし多く居る部下も彼の「仕事力」には適わないから何も言えなかったのであった。
・ 「関西人は関東弁をしゃべる人間がどちらかと言うと好きではない」からと言うわけではないのだが、北関東の言葉を話す、その彼が私が着任する数年前に組合に所属する教員の一部の連中と「大きな諍い」を起こした。
・ 理事会を揺るがすような大事件になって彼は当時のだらしない理事長、校長から切られて管理職から蹴落とされ、悲憤の内に毎日を過ごしている時に私は着任した。そして「浪速高校某重大事件」のことを私は詳細知ったのである。
・ 理事会の長い資料を読み、「職員会議でのまさに糾弾会」のような状況時のテープ起こしの会話録も読み返した。詳しくは書かないがIさんにも非はあったのだろうが「同じ組織内であってはならないような光景」がそこにはあった
・ 私は悲憤慷慨した。これは組合教員の「経済闘争」ではなくて「人民裁判」であった。理事長も校長も誰一人Iさんを守らず「血祭り」にしたのである。この事件以来浪速は「凋落の階段」を転げ落ちて行ったと私は思う。私は決意した。もう一度彼を「男にする」と。
・そして4年、遂に定年退職の日を彼は晴れ晴れと迎えた。昔彼を攻め立てた強烈な組合教員も昨年早期退職をして去っていった。今や組合に属する教員の数も減ったように思える。増長し、傲慢にノリを超えて思うがままに学校を牛耳っていた特定の勢力に属する教員と昔のこと知っている人も少なくなった。これでこの話は封印である。
・ 着任して1年間徹底的に私はIさんを鍛えた。鍛えた言うものではなかったろう。「叱責」なんて生易しいものではなかった。最初は「暗いイメージ」で私の「品定め」をしているようであった。ただ彼は「改革マインド」は失っていなかった。
・ これだったら「再起できる」と私は確信した。このような人物は「仕事の力で参った」と言わせなければならない。幾ら口で美味い事を言っても駄目である。私は彼と仕事の上でも勝負をしたのである。彼はとことん私に従って付いてきてくれた。
・ そして遂にIさんは言った。「全く理事長には適いません。」と。仕事は出来るが「雑なところ」が目立った。仕事では私の相手ではなかった。資料作りでも「てにおは」をいうように何回も書き直させた。そして1年後に私は彼を管理職に登用し事務長に発令したのである。
・ 彼は再起した。見事に復活したのである。Iさんの口癖は「私は理事長を徹底的に守り抜きます」と言うものであった。その度に私は言ったものだった。「俺なんかどうでも良いから自分を守れ」と。「脇を締めよ」と。
・ それから事務長としての3年間は「見事な仕事っプリ」であった。人間的にも優しくなっていったような気がする。理事長の思いを実現するべく時に「影武者」として、歴史に記録する「祐筆」として素晴らしい成果を残してくれて本日浪速を去ったのである。
・ 11時30分からの最後の職員会議で彼は言った。過去の事件に触れて「私にも未熟なところがあって・・・」と立派な物言いであった。そして本日を迎える昨夜のことを話してくれたのである。
・ 今日の為に奥様がスーツを新調してくれ、お嬢様と奥様が昨晩「整髪」してくれたというのである。そして私が時々「自戒することに気づく」ために私がプレゼントした「赤のネクタイ」をしていた。そしてさっぱりと颯爽と短く挨拶をして部屋を去って行った。
・ 29日の理事会では「事務長退官記念講演」と称して私は彼の為に時間をとったのだ が実にさわやかに時間を余して終わった。如何に「心の安定」が保たれていたか分かる。「プロの仕事師の去り際」だったような気がする。
・ 彼が理事会で一度こみ上げてきて声にならなかった時があった。あれは何時の理事会だったろうか。「今、このようにして理事長から事務長を拝命し、仕事をさせて貰って・・・」といったきりに声にならないである。辛かった昔を思い出し感無量だったのだろう。この時は私も涙した。
・ その晩に管理職による送別会を難波で実施した。私は寺井名誉理事長と南坊城理事長代理にも是非出席してやって欲しいとお願いした。お二人ともお忙しいのに喜んで出席してくれた。その時に印象深い光景があったのでこれを記録してIさんへの惜別の言葉のまとめにしよう。
・ Iさんの定年退職はすでに分かりきったことだったから私はこの仕事師の後任は慎重に探した。まず校内に当てはめても良いかなと思う人材も居たが、それはあれやこれやで取り止め、大阪府の人事部門にもお願いに行ったりした。
・ 結局某銀行から57歳の支店長経験もあるHさんを後任の事務長候補として1年前に出向で来て貰った。その彼は本日午前中銀行に戻って頭取から退職辞令と感謝状を受け取りに行って帰ってきた。明日正式に本校の職員となって事務長に就任する。お顔は晴れ晴れとしていた。
・ このHさんはI事務長の下で業務の勉強と引継ぎをかねて1年を過ごしたのだが「途中で辞めよう」とまで思うくらいの厳しいそして時に「意地悪な、嫌がらせ」みたいに思えるような仕打ちに「切れる寸前」だったのである。
・ とにかくI事務長流の指導に「ほとほと嫌気がしていた」のである。このことは私にも直接言いに来て私は知っている。その度に私は「後少しで君の天下が来るではないか」と慰留というか慰めたものだった。これが送別会での話題になったのである。
・ I事務長さんは私の後任だから「鍛えた積り」と言い、「Hさんにはもう少し発展性が欲しい」と軽く言ってのけた。そこから話は弾んだのである。今年78歳になる名誉理事長は「そんなことは当たり前で、見て自分で工夫して仕事は覚えるものだ。厳しいのは当然」と、何を甘いことを言っているのだという感じでとさらりと言ってのけたのである。
・ 私は良くぞ言って下さったと思った。私やIさんが企業で育った時代は上司先輩から「時にはこいつの腹を刺してやろうか」と思えるくらい厳しい指導の中で育ってきた。私も若い時には「やっとられるか」と叫んで仕事を投げ出して家に帰ったことがある。
・ そのようにして成長してきた。そして今日がある。男の仕事と成長とはそういうものだと身に染み付いているのだが、このHさんは世代の違いか7歳も8歳も離れると大きな文化の違いとなるのである。
・ 彼は明日以降今までの銀行時代と違い一挙に年収が200万円も上がるのである。私がそのようにして過日の理事会で決定した。「金を稼ぐ」ということは「我慢する」、こういうことだと私は教えた。最後には「世代の違い」といっていたが世代の違いではない。私に言わせれば「考え方が甘い」のである。
・ 私は今寂しい。同世代の何か戦友を失ったような気がするのだ。しかしそうは言ってはおられない。さあ、平成成19年4月にスタートした第二の創業の初動期間の4年が本日で終わった。「新しい学校の誕生期」である。明日から次のステージに移る。「発展期」であろう。I事務長が去って遂に私は本校の最年長者となった。最も「年寄り」と私はなったのである。
・ 私は今日の職員会議で言明した。次のリーダーに「たいまつを引き継ぐ」まで私も頑張る。教職員一致協力してお互い助け合いながら頑張って行かねばならない。自分の職場を守れ。「敵を間違ってはならない」。同じ仲間である。仲良くしなければならないと。内輪で喧嘩していたらこの厳しい生き残り競争に勝てないと私は声を張り上げたのである。