2011年3月21日月曜日

23年3月21日(月)その2:大震災ドキュメント

 今回の大震災の私の行動をドキュメント風に記述する:
・ 13日の武道館竣工式を二日後に控えた3月11日、14時46分頃武道館お茶室「洗心亭」において茶道部の生徒に杉戸絵が示す古事記神話の世界を説明中に私は小さな「揺れ」を感じた。床の間のお軸が左右に振れるので「あれ、地震?」と言う。生徒は笑っており、気づかないくらいの揺れであったが間違いなくあれが東北・関東地方を襲った地震であった。
 ・ その後が学校では知ることもなく、夕刻自宅にて大きな地震が東北地方において発生したことをテレビ報道で知る。津波が車を飲み込み家屋を押し倒していく画面に戦慄を覚えた。しかし今でも疑問なのだが「津波の色は真っ黒だった」があれはどうしてなのだろうか?海の色ではなくて真っ黒なのだ。
・ 大災害をこの目で確認し私は熟慮した。そして翌12日朝会にて竣工式と内覧会は行うがホテルでの祝賀会は中止とする旨を管理職に伝えそして臨時の校務運営委員会にても伝えた。こういう場合はすばやい判断が重要である。

・ ホテルへのキャンセル、代わっての「直会」のお弁当の手配など指示した。その後「中学校卒業式」を挙行した。素晴しい卒業式となった。敢えて「黙祷」などは被害状況が明らかになっていないのでしなかった。

・ 13日「武道館竣工式」。府庁私学課の幹部や理事評議員、塾の先生方、PTA,同窓会、保護者会はじめ多くの皆様のご臨席を得て無事に終了することが出来た。これで本当に「ホッ」としたのである。そして内心「運の良さ」を喜んだのである。


・ この間、自宅のある鹿嶋の友人から「鹿嶋は大変なことになっている」との連絡が続々入る。又親戚筋からも「安否情報」の問い合わせが入ってくる。被害の状況が明らかになるにつれ自宅が気になり15日に帰省することを決心。

・ 14日(月)出勤、この日関西大学堺キャンパスのB棟完成祝賀会があり来賓として出席。上原理事長、楠見学長はじめ多くの関係者と懇談。終日武道館竣工式関連で電話や来客が多くあった。話題はやはり大地震のことであった。

・ 又特にこの日は第5期工事のカフェテラス、部室、予備教室の詳細検討と方針の確認と言う大仕事があったのである。実は数日前に「各社の見積もり」は入手していたのであるが竣工式を優先して方針を出すのを延ばしていたのである。仕様を一部見直し、トップから5%以内の見積もり金額の範囲にある3社さんに「再見積もり」を依頼するよう担当に指示した。

・ 被災された鹿嶋の知人から帰って来るなら大阪で「単一乾電池」「20リットル水ポット」「水の要らないレトルトパック食料品」「2リットルペットボトルの水6本入り箱」を何箱でも、極力多く積んで来るよう連絡があったのでそれを求めに走ったのであるがまったく手に入らない。幾分焦ってきた。

・ 又私は自分の考えで「ガソリンの不足を想定」して、携行式ガソリンタンク(缶)を購入するよう校務員さんに願いするもほとんどのお店で売り切れているとのことであったが何とか校務員さんの努力で20リット入りが3個手に入った。これに学校近隣のお付き合いのあるガソリンスタンドからの借用分を入れて合計80リットル分のタンクが揃った。これが後で知ることになるのだが極めて効果があったのである。
・ 15日朝出勤。朝8時から管理職、事務室合同の朝会を行い、29日に予定されている理事会・評議員会の議題と資料段取りについて綿密な方針を確認した。荷物とガソリンを積み込んで学校を後にする。難波のマンションを出発したのが午前9時30分であった。一路、西名阪道、東名阪道、東名高速、首都高速、東関東自動車道を走り20時過ぎ鹿嶋市の自宅に到着。
・ 高速の状況は渋滞などまったくなく、どちらかと言えば交通量も少ないように感じた。全国の自治体から東北地方へ向かう「災害救助隊」が編成を組んで北上していた。車体は赤で赤ランプを点滅しながら規則正しく進んで行く様は何か「感動的」であった。丁度「愛媛隊」が30数台に渡って北上していた。

・ 私は途中途中の高速のガソリンスタンドで15リットルから25リットル単位で満タンにして虎の子の携行タンクは温存する作戦をとった。最後は「海老名のPA」での給油であった。一台あたり10リットルまでと言うことであったが被災地に向かう車は満タンにしてくれた。
・ 夜も暗くなっていたから建物の概観は分からなかったが門そばの灯篭が倒壊して私を出迎えてくれた。私は庭が好きで茶室もあることからこだわりの庭を造った。庭には6個も灯篭があるのだがそれがすべて倒壊していた。「頭でっかち」だからなのだが、「灯篭も人間も頭でっかちはすぐ倒れる」のであろう。
・ おそるおそる玄関に入ってからのことは書くまい。「悲惨としか言いようもない光景」が目に飛び込んできた。壁に飾っていた絵とニューヨークから持って帰った鏡は周辺に飛び散り、置き台の上の大理石の板は見事に真っ二つに割れて廊下に飛んでいた。
・ 2回のキッチンとダイニングはもはや言いようもない有様で食器を入れているすべての戸棚の扉が開いて足の踏み場もないほどあたりに散乱しガラス物はすべて割れどれもこれも使いものにならない感じで散らばっていた。正直高価なものもあった。

・ テレビは飛び、出窓においていたプランターはフロアに落ちて土が散り、コナーボードなどは1メートルも位置がずれていたのである。その夜は何もする気にはならず、隙間を探して就寝。東北地方の人々のことを考えたら運の良さを喜ぶしかないと思った。家が潰れていないだけ幸せであると。

・ 翌日からの三日間、すなわち16日、17日、18日は片付けに忙殺された。瓦礫の山をダンボールに入れて市営の廃却場に持っていかねばならない。そして19日午前中に出入りの庭師、住宅会社を呼び、庭の復旧、屋根瓦、外壁のサイディングの亀裂、部屋の中の壁クロスの状況を観察して貰った。補修が必要で見積り依頼をお願いした。そこでようやく気も落ち着いてきたのである。

・ 時間がようやく取れたので近くの鹿島神宮に出かけた。参道口の「大鳥居」が有名なのだがこれがぶっ倒れたとうので見に行ったのだがすでに片付いていた。倒壊した家はなかったが屋根が大きく損傷していた家を多く見かけたのである。
 ・ 年度末で忙しい時であったが、私が留守でも教職員が頑張ってくれており、パソコンと携帯電話で大概のことは済ませることが出来て、学校業務に支障がなかったのが幸せであった。すなわち「落ち着いた学校の状況が私の気持ちを楽にした」のである。
・ 武道館の竣工式は無事に済んだが弓道場、空手道場、剣道場の「杮落し」は正式に中止とした。スポーツの自粛があいつでおり今しなければならない状況ではないと判断したのである。これも鹿嶋から指示を出した。

・ 又カフェテラス・部室工事については逐一再見積もり状況が入ってきておりそれを見ながら私は「発注業者を最終決定」した。この間専願登校日における数の確認や中学校入学者数も最終確認できた。

・ 副校長から東北地方の高校生の受け入れについて問い合わせがあったが「積極的に受け入れるべし」と連絡した。又お茶室開きを延期としたが「引き出物のお茶わん」についても陶芸家の先生に連絡することが出来たのである。

・ そして私は20日に大阪に向けて出発することを決めた。22日は年度終了式がありこれは校長不在では締まらないのである。私は生徒たちに今回の大震災のことを語ってやらねばならない。義捐金についてPTAとも相談したい。

・ 石原東京都知事は「我欲の強い日本人への天罰」と言って顰蹙をかったが、言いたかったことは「ここで生き方を見直す契機」ということではないか。我々は自然災害の恐ろしさを身をもって経験した。たった一発の地震で日本全国が震える事態に直面した。

・ 国民一人ひとりが覚悟して復旧支援を行い、「新しい国作り」を目指さねばならないと思う。潜在力のある日本人であり必ず再起できる。今世界の人々が日本と日本人を見詰めている。私も国民の一人として頑張らねばならないと思っているのだ。