2011年3月12日土曜日

23年3月12日(土)その1:武道館祝賀パーティの自粛と中学卒業式

私は今朝8時20分管理職や関係する教職員を集めて13日に予定されている「完成記念祝賀会を中止」する旨伝えた。今回の大地震による被害の甚大さを思う時、「のうのう」と酒を飲んで祝賀会もなかろうと考えたのである。
 ・ テレビの報道で次から次と明らかになる被害状況に対して私は明日の中学校の卒業式は絶対に実施するが武道館については「一体どうしたものか?」と思い悩みながら一晩を過ごしたのである。そういうわけで昨日のブログは書いてはいたがアップを「自粛」した。これは今日のその2:としてアップした。

・ 昨日15時前私は武道館で最後の現地チェックを行っていた時に和室「洗心亭」の床の間にかけている「掛け軸」がゆらゆらと時計の振り子みたいに揺れたのである。生徒は20人くらい傍に居て「なんかおかしいな?」とは思ったが鉄骨とコンクリートの塊である武道館にいては揺れなど感じなかったのである。

・ 13日の準備で「ばたばた」していて、学校ではテレビやラジオなど聞くようなことは無いから、実は家に帰るまで東北地方で大きな地震と津波被害があるなど知らなかった。テレビから続々と入ってくる情報は未曾有の被害状況で、私の家が有る鹿嶋市も被害で報道されている場所だったのである。
・ 長い間勤めた住友金属鹿島製鉄所も火災とか報道していた。私の家は窓から海が見える海の傍であるが高台にあるため津波の心配はないが、鹿島の友人は海の傍の住民は避難で大混乱だとの連絡が遅くに入ってきた。

・ 夕方突然私の携帯電話は「圏外」のマークが出て不通となった。通常の電話も繋がらないのである。「ほとほと」困ったが夜20時過ぎにようやく携帯が繋がるようになった。それにしても被害甚大である。

・ 自宅のほうが仕方が無い。かえって腹をくくれば「もうどうでも良い」と言う気になる。しかし様子を見に来週は時間を作って帰らねばならないと予定を立てたが、とにかく卒業式と武道館の竣工式は済ませなければならないと、覚悟を決めたのである。

・ 亡くなられた方や家屋の被害を受けられた方々に心からお悔やみとお見舞いを申し上げたい。夜9時過ぎの段階では「ホテルでの祝賀会は無理だな」と思い始めていたが、式典と内覧会についてどうするか悩んでいたのである。
・ そして最終的に今朝8時に結論を出した。「武道館竣工式典と内覧会」は予定通りやる。式典は「生徒の安全祈願祭」でもある。十分大義名分は立つ。しかし堺リーガホテルで計画している祝賀パーティは中止と決めた。竣工式典と内覧会は「内輪の会」でありこれは自粛までは不要と判断したのである。

・ しかし酒を飲みながら懇談する完成記念祝賀会はやるわけには行かないと最終結論を一人で出した。緊急に特別会議室に集めた幹部や主だった教職員も賛成してくれた。そこで今後の措置について体制を組んでスピーディに対応するよう指示したのである。

・ まずホテルにキャンセルを入れなければならない。ホームページにもその旨書き込まねばならない。私は「感謝状の贈呈」などⅢ部の内容の一部はⅡ部の最後に武道館で行い、直会には「お弁当」を持ち帰っていただくように至急手配するよう述べたのである。
・ 明日までに450人近い弁当を用意するのであるか大変であるがこれはリーがロイヤルのほうが手配してくれるとの朗報があった。後はホテルのキャンセル料だがこれはもうどうでも良いことである。


・ 今日は浪速中学校の卒業式があって以上のことを朝の9時までに進め、心すっきりとさっぱりと私は卒業式に臨んだのである。勿論式辞の最初に今回の地震のことに触れないわけにはいかないが、哀悼とお見舞いの言葉に続いてこのような卒業式が行われる喜びも口にしたのである。
・ しかし素晴らしい卒業式であった。この学年は初めて3クラス体制になった学年で浪速改革の成果を初めて確認できた学年であった。今日の保護者謝辞にもこの浪速改革の言葉が使われていたのである。有難いことであった。

・ 式典が終わった後で生徒代表が今度は卒業生からと言って花束を部屋に持参してくれたのである。これにはびっくりした。又その後には保護者代表がお礼に見えられた。感激であった。








・ その後中学校の学年団が職員室に集まり総括報告があって私から慰労と感謝の言葉を申し述べた。学年団のうち2名の先生がそれぞれのお考えで浪速中学を離れて新たな道に出発されることは既に決定していた。
・ 私はあえてこの二人の専任教諭に激励の言葉を口に出し感謝の言葉を述べた。本校専任教諭の職を捨てそれぞれの新たな道に歩みだすその「気概」に私は応じたのである。浪速で学んだことを活かして今後の人生を輝くものにし、自己実現を図って頂きたいと申し述べたのである。