2011年3月8日火曜日

23年3月8日(火)義理と人情

・ 今日のブログのテーマは「義理について」である。最近ちょとした話を耳にし、又私自身も最近経験したことに関係があるからこのテーマを選択した。私のケースはどうでも良いのだが、小耳に挟んだ事例は看過出来ないので少し長くなるが、書いておきたいと思う。どこであった話かなどは詮索しても意味はない。

・ ある人の父君が最近亡くなられた。その時に年齢も一つ違いで同じ職場で一緒になって勤務してきた友人の一人が、そのことに対して「弔意」を表さなかったというのだ。その人はこの友人に対して有体に言えば「悲憤慷慨」したと言う。

・ その人は以前、その友人の身内に不幸があった時に深い弔意を示したのだが、果て自分の段になったらその友人から何にも無かったと言うのである。悲しかったし、憤ったというのだ。私にはその気持ちが分かる気がする。

・ 組織人だから業務の都合などで葬儀には参列できない場合はある。これは仕方がない。しかしご香典とか供花とか弔電とか方法は色々とあるだろう。また急に亡くなられて知らなかったと言うケースもあるだろう。その場合は「イヤー、ごめんごめん、知らなかったので。・・・」と言って詫びながら、後日に弔意を示すことも出来る。

・ この二人にどのようないきさつ、感情があったのか知らないが、たとえその後「仲違い」をしていても、相手に対して何らかの形で弔意を示すことは絶対的に必要である。金銭の問題ではない。これを「義理を果たす」という。この友人は「義理を欠いた」のである。

・ およそ世の中にあって「身内の不幸、なかんずく親との別れ」ほど悲しいものは無い。もっと言えば「人の死」ほど厳粛で尊厳あるものはなかろう。特に親戚縁者友人の場合には「何はさておいても馳せ参じるか深い弔意を示す」ということが日本文化の「義理と人情」の根底である。受けた方はどれほど嬉しいだろうし気を強く持てるのである。それくらい「弔意と言うのは人間社会にとって重要な事柄」である。

・ これは日本だけの話ではなくて世界共通で、従って国境を越えた「弔問外交」という言葉があるほど正式な外交上のマナーである。この友人は完全に「義理を欠いた」ことになり、理由のいかんに関らず礼を失したことになる。付き合い断絶となってもおかしくはなかろう。

・ 飲み屋の席で言い争いになって喧嘩になったと言う類の話ではない。「武士の面子を汚された」「馬鹿にされた」「低く見られた」と思ってもおかしくない話だと私は思う。しかし返って「この程度の付き合いだったのだ」ということは出来ないか。友情は一方通行だったのだとも考えなければならない。

・ 人間という動物は「何かを人にしたら、形は違っても何らかの形で返してくれる」「自分の思いは分かってくれ、その気持ちを表す何らかの言動を示してくれる」ことを期待するものである。

・ それは直接的な金銭対価ということではなくて「情でも言葉でも」何でも良いのである。それを示せば万事Okで問題にはならない。ところがそういうものが全くないとなると前述した人のように悲憤慷慨することに成りかねないのである。それが「普通の凡人の感覚」だろう。神様、仏さまではないのだから。

・ 要はいささかでも相手に自分の私的な時間を供するということではないか。「忙しいときなのにわざわざ来てくれて有難う」と言って貰うためには「何かを犠牲にして」態度で示さないと相手には分からない。犠牲となるのは「自分の時間」ではないか。

・ 私は敬愛する両親が亡くなった時に多くの方々から戴いたご弔意は完全に記録に残しておき、お相手の方に同じような事がおきれば同じ金額だけ「返礼」することを徹底してきた。これは自分の甲斐性で出来ることでもあったし、人間として当たり前のことだと思ったからである。

・ 会社関係とか団体とかの取り決めなどの弔意はその場限りで済む話であるが知人友人となるとそうは行かない。しっかりと対応しなければ「義理を欠く」ことになって、それは結局自分を落とし込むことになるからだ。一生心に残る。それを持って冥土へ旅立つわけには行かない。「あれは貰い放っしだったなー」という訳には行かないからである。
・ 昨年本校に23年間勤務し病に倒れて50歳そこそこで黄泉の国に旅立った私の部下がいたが、この人に交誼を受け、仕事の面でも助けられた教職員は多く居ただろう。果たしてこの人の死に対してどれくらいの人が具体的な弔意を示しただろうか。

・ 昨日のブログの主人公である中西制服店の社長さんはいち早く馳せ参じ、葬儀のみならず、49日の法要でも仏前に花束が添えられていた。恐らく中西制服店さんは亡くなられたOさんに「一方ならぬ恩義」を感じていたに違いないのである。これが人間社会の務めである。

・ 日本文化には諸外国に理解が簡単ではない様々な感情というか「心のひだ」がある。例えば典型的なものが今日のテーマ「義理人情」である。その他「侘び寂び」「幽玄」「間」「無常」「恩」「恥」などがある。

・ 「道」や「精神」という言葉をつけて「武士道精神」「葉隠れ精神」「仏道」「神道」「茶道」「花道」などもある。「任侠道」なる言葉も一般的である。このように我国は精神というものを極めて高い位置に置き、尊重する。

・ その中でも特に大きなものが「義理と人情」である。これは「人間関係を律する」ものだからである。ここがポイントである。「人間関係の根底の精神」である。義理とは英語文化圏には存在しない、当に「日本的な情念・倫理の概念」である。

・ 上司と部下、親子、夫婦、友人、時には相手が敵とか取引先という人間関係の中でも最も重視される「人間としての規範」である。「恩」「恩義」を受けた相手をいたわり時には自己を犠牲にして相手の幸せを実現する行動のことを「義理を果たす」というのである。

・ これに対して「人情」とは親子、恋人同士、友人知人などの間に通い合う愛、同情、憐れみ、友情などの「人間的感情」のことであるが、日本では特に「義理と人情」と言う風に対比されて使用されることが多いが、義理と言う規範とは違って人情とは人間が持つ感情の「自然な発露」である。

・ あの人は「人情に厚い」とは人に優しく思いやりがあると言われていることである。しかし「義理を欠いては」社会の立派な一員とはみなされない。結局「義理と人情」の両方が必要だということである。

・ この辺は漱石の「草枕」に出てくる有名な一節「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」の影響もあっただろうが夏目漱石は大文学者で典型的な「江戸っ子」で義理と人情に生きてきた人物だけに意味深いのである。

・ 昔から日本人は「義」というものに最大限の賛美を送ってきている。「自己犠牲の精神」である。「義に生きて自らは滅ぶ」という行為に対して言い様もない感情の発露をするのが日本人である。

・ 「忠臣蔵」の話を見れば良い。1703年と言うから今から308年前の「主君のあだ討ち話」が今に伝えられ未だに映画、テレビ、劇場など語り継がれていることが象徴である。「赤穂浪士」であるが人は「赤穂義士」とまで言う。
・ 歌の世界では特に演歌では「義理と人情の間」が主題であった。あの有名村田秀雄の大ヒット曲「人生劇場」には「義理が廃ればこの世は闇だ・・・」がある。北島三郎「函館の女」では「義理ある人に背を向けて・・・」と言うものもあった。
・ 極めつけは「東映映画」の「やくざ任侠路線」であった。私も実に良く観た。高倉健さん演じるやくざの「義理と人情を秤にかけりゃー,義理が重たい男の世界」という、あれである。徹底的に「義理と人情の世界」をやくざ渡世を舞台に映像化したもので、もうあれは「芸術作品」だと今になって私は思う。
・ 人は「人から受けた恩恵に対して社会的、心理的な義務を負う」ものである。そうでなければ社会は成り立たないと思う。人は人から「恩知らず」と言われてはならないのである。そして日本人は「恥を知る」という文化の中に生きているのである。この恥の意識は日本人の精神の中核をなすもので西欧の「罪の文化」に対して「恥の文化」と言われているくらいである。

・ 「外的な恥をかく」という感情が日本人の行動を律しているのは間違いはなく、時に武家の社会では死して抗議し、死して詫びる、死を覚悟して討ち入るなどの倫理基準にまで発達したのが日本文化である。

・ 義理の父母への孝行、しなくてはいけない「浮世の義理」など人間は一人で生まれて一人で死んでいくがその道のりは一人ではない。その過程について回るものが「義理」であり、果たせねばならないものなのである。
・ しかし残念ながらこのような「義理人情」「恩義に感じる」「恥」などの概念が若い世代において徐々に薄れて来ているのが感じられることに私は危機感を有している。しかしこのような感情は学校では教えて行く事には限界がある。
・ おじいちゃん、お父さんなど世代に渡って「先達」が子や孫に「身を以って」教えていかねばならないのである。「おとうさん、どうしてそのようなことをするの?お金もないのに。そんなお金があるなら私に洋服買って」と言われた時に「若い頃お父さんは随分とあの人には助けられた。これはしないといけない。」と言わねばならないのである。

・ しかし現実は「目先の事」「今日一日を生きていくのに一杯一杯」の中からはこの種の感情が失われている現実を無視するわけにも行かない。義理では子どものお腹は膨れないし、明日のお米を買わねばならないことも現実である。義理に時間を費やすことも出来ない局面はあるだろう。

・ しかし人間には幸いなことに「情という感情」を持っている。「言葉と態度における恩義の情を瞬間にでも示す」ことによって「全ては救われる」という場面は多いはずである。それらが「昇華」して言葉や態度が不要となるのは「歳月という触媒」が必要ということではないか。

・ どちらかと言えば高学歴なインテリジェンスと言われている人々、社会の構成からいえばどちらかと言えば地位の相対的に高い人々に「義理欠き」が散見されるのは一体どういうことかという疑問もある。それこそ漱石ではないが「智に働けば角が立つ」ではないが知に生きている職業の人々に多いと言ったら誤解を招くか。
 ・ 高学歴の教員社会においては「その職業の持つ摩訶不思議な魔力みたいなもの」があって元々「義理人情が発露されにくい社会」というのが私の観察である。教員同志で「親友」など聞いたことがない。元々友情など有り得ないのかも知れない。全ての教員が「誇り高い専門店の社長さん」だからである。

・ 社会的に弱者と言われる人々、都会よりも地方の人々にはまだ「義理と人情」という感情の発露に従って行動されておられる人は多い。私はこういう人々に言いようもない「シンパシー」を感じる。私自身は「一宿一飯の恩義」を決して忘れない生き方をしたいと思う。