2011年3月23日水曜日

23年3月23日(水)職員会議というものの幻想

・ いよいよ明日が運命の日だと言ったら大分大袈裟だが、いずれにしても明日の15時過ぎには「来年度の生徒総数」が決まる。明日は「後期公立高校入試の合否発表の日」である。私はこの日を待ちわびていた。
・ しかし私立高校は辛いものがある。明日から10日間程度で最終的な教員配置、教室設定をしなければならない。これは案外しんどい仕事である。勿論「弾力性」を持って手配してきているがそれが大きく外れたりした時に「慌て回る」ことになる。とにかく明日は私立高校の経営を直撃する要因を有した日である。

・ 朝8時から30分間、「来年度以降の教室手配」について関係者と大筋の検討方向を決めた。当然23年度は十分対応可能である。24年度も高校は23年度と同じく16クラスとすれば十分対応可能である。すなわち現在進めている設備対策方向でまったく問題はない。
・ しかし25年度入学生が同じく16クラスとなったら教室が足りなくなる。計算では3クラス不足する。従って問題は25年度である。その後は16クラスまでなら同じことの3年ピッチ循環だから心配する必要は無い。
・ その対応策として「プレ新校舎建設」として「保健室」と「校務員室」を独立分離した形で工事を先行させその部分の階上に教室を4クラス程度(3階建ての建物で2階、3階を一般教室)作ったらどうだと言うのが今朝の私の意見である。
・ これに対して現在、更衣室として使っている教室や回転率の悪い教室をホームルーム教室に改造して「逃げる案」と、これは非常事態なのだが「一クラスを40数名以上で対応する」案とか色々出てきた。しかし最後の案は好ましくない。検討のスタートとしては40人前提であるべきだろう。
・ いずれにしても早急に既設の直心館(古い剣道場と柔道場)は夏場から「解体作業」の段取りに入るよう指示をした。このスペースはいずれにしても新校舎建設の貴重な種地の場所であり、早く確保しておくことに越したことは無いからである。
・ 担当が今朝の打ち合わせを「タイムテーブル」方式で図表にして最終的決定をすることとした。まだ2年後の事であるがこのような大型工事は二三日で片付くような簡単なものではないだけに「早め早めの対応」が大切である。2年というのは学校社会では短い。

・ しかし私はまだ今朝の議論だけでは納得した訳ではなくて、新校舎建設チーム長に23年度のクラス割り振り案を「絵にする」ように指示を出した。要は図面化である。この先生は仕事が極めて速く1時間やそこらで完成させ持ってきてくれた。
・ そしてそれをベースに今度は昼休みに関係者で「更なる議論を継続」したのである。議論の結果、ポイントは「女生徒更衣室の位置と新1年生の教室の割り振り」であった。案の上問題点が具体的に整理された。
・ 明日発表される公立高校の合格発表後に戻りが確定するが入試広報室の予測では「女生徒の戻りが例年以上に多い」かも知れないと言うのが現段階での状況であり、女生徒の体育の授業における更衣の場所は慎重に検討しなければならない。我々は体育科の女性教諭を呼んで議論に加わって貰った。
・ 女生徒の体育の授業は複数クラスの展開授業となり、本校のように大きな規模になると中学女子との兼ね合いや体育科の教師の数とのバランスなどがあって時間割も簡単な話ではないのである。
・ 現時点では女子更衣室の場所は新設なった武道館の更衣室を使う案が検討されていたが私はこの案に疑問を呈した。余りにも遠い。それに体育の授業が終わって着替えする集団と今から始まる集団とが一つの部屋で着替えするのは混雑する。これでは通常の授業に遅れることは「見え見え」なのである。
・ 更衣室は現状の場所とすると今度は教室が不足するので、そこをどこにするかという議論になってくる。ところが窓がないとか壁が薄くて隣の教室の声が高いとか様々な意見が出てきて今度はこの整理となった。
・ 結論的には7月末完成の予備教室が4部屋完成するまでは急遽防音対策を採った部屋を使いその後新設する教室に移動するなどの案を本日の段階では固めたのである。ここまでの結論を得るのに時間としては朝、昼通算40分程度であった。時間が長ければ良いというものではない。

・ 以上のような「経営の意思」を示して担当に指示し、議論の場を設定することがトップの仕事である。後はその道のプロが「細部を固めて仕事」をしてくれる筈である。この細部の仕事が出来なければ「能無し、仕事の出来ない男」となる。
・ もう一つは「議論は少人数で分割してやっても構わない」ということである。どうも会議と言ったら学校社会では「全員が揃って」「時間をちゃんととって」などと嘯く連中が居るが基本的に会議など無いほうが良いに決まっている話である。
・ 問題が起きた時、必要と感じた時、随時その道に関与している人間が集まって「集中した議論」を行い、必ず「結論を出す」ことが重要である。時間の長さに関らず結論のない会議などは意味が無い。例えその結論が次回の会議でひっくりかえっても構わない。
・ 今日集めた職員は信頼している「仕事師人間」だから一言言えば「パーン」と跳ね返ってくる感度高い人間ばかりである。私が「心配性」だから「早め早め」に「ギャーギャー」言うものだから内心では困っているのだろうがこれに対して、私は私なりの考えがある。
・ 確かに年を加えるに従って心配性がますますつのってきていることを自覚している。良くないことだとは思っているがまだ限界を超えているとは思えないから好きなようにさせて貰っている。
・ それに今までこの4年間私のこのスタイルで危機を乗り切り、見事に隙間を縫うように早め早め対応して来たからこそ、「ここまで来た」と思っている。教職員のペースに合わせていたら「多聞尚学館」も「ふくろうスタジアム」も「武道館」もこのタイミングで手に入っていなかったろう。
・ 第一トップが部下に対して「今時間有る?あるならこれをやって!」などと断って仕事を出すなど聞いたことが無い。部下はまず上司の指示を受けて「自分の中で優先順位」をつけて判断することが「仕事の出来る人間の要諦」である。
・ 上司も指示を出す時は「何時何時まで」とタイミングを示すことが望ましい。私の場合は「直ぐ」「2ないし3日以内で」「何時何時までに」「急がない」と言う風に明確に分けて指示を出している。

・ 要は指示を受けた「人間の感性」が最後にはものを言うのだ。感性の無い人間には何を言っても無駄である。感性とは「反応力」でありそれが何ゆえ今指示されたかがその理由、背景がその場で理解できる能力のことを言う。こういう教職員を育てていきたい。

2011年3月22日火曜日

23年3月22日(火)22年度の終了式

・ 留守中の教育関連新聞記事の切り抜きを担当が持ってきてくれた。この中に日日新聞が武道館の記事を掲載してくれていたものがあった。弓道の「矢渡し」いついて相当大きく記事にしてくれており大変嬉しく思った。
・ ここ最近のブログで私の家の被災を心配してくださり、朝早くから「お見舞金」を持参してこられる人が多く、大いに反省だ。受け取る訳にはいかないから丁重にお気持ちだけお受けした。そういうものがあればどうか日赤を通じた東北地方への義援金に回して欲しいともお願いした。
・ それにしても郵便でお見舞金を送って下さった人は「北陸地震」と書いてあったのには驚いた。確かに大阪の人の中には大阪以外は北陸も東北も東関東もまったく同じなのだろうと思う。確かに北陸には関西電力の原発があるから先回りして言っておられるとしたらこれは問題である。

・ 日経の夕刊に「義援金、1週間で223億円」と出ていた。日本赤十字社に寄せられた義援金が14日から20日の1週間で223億円を超え、2週間で164億円集まった阪神淡路大震災を大幅に上回る過去最高ペースという。日赤の場合、件数は57万件でイチローなどの1億円の寄付などが寄与しているとの解析であった。日本人は素晴しい。こういうところが日本人の日本人たる所以である。

・ 本日は終了式であった。年度末だから終了式で本校の場合は終業式とは言わない。まず全校生徒で今回の東北・関東大震災で亡くなられた人々と被災を受けられた方々への哀悼とお見舞いの気持ちを表すべく「黙祷を捧げた」のである。
・ その後「神前奉告」を行い、1年の感謝の気持ちを学院神社に表した。その後1年間の成績、スポーツ優秀者に対して表彰伝達を行い通常であればここで「校長講話」となるのだが本日は時間を取るために生徒は教室に戻した。       
                                                                                   
・ 年度末であり又今回の震災のことを詳しく生徒に伝えたかったのである。又外部に漏れたくない話もあり教室を使った「校内放送の校長講話」としたのである。中庭では私が話していることは外部に筒抜けになっており「他聞をはばかる」話もあるのである。
・  何時もは2こま授業としていたのだがそういうわけで本日は授業をカットして「伝えなければならないことを色々と伝えた」のである。大変良かったと思う。今後とも1年の終わりの終了式は授業は外して1年の総括の場としたいと思った。
・ 被災地への義援金についてはまず私からその意味を説明した。生徒自治会はすでに準備に入ってくれており、4月以降行動に起こすことを説明した。PTAと浪速同窓会と合同で行うことも決定したのである。後の職員会議で教職員にも依頼をした。頑張りたいと思う。

・ 第Ⅴ期工事であるカフェテラス、予備教室、クラブの部室工事を受注したゼネコンの南海辰村建設の社長さんが受注のご挨拶に見えられた。朝の早いことをご存知で8時過ぎに見えられたのである。私は「是非良い仕事をお願いします」と申し上げた。しっかりと対応して頂けると確信している。

・ 終了式が終わって法人朝会と管理職朝会を済ませご来客をお迎えした。北部にある女子高の理事長・校長先生であり「二つの人事の話」であった。上手く話がまとまり、丁度昼時になったので「うなぎ弁当」をとって共に昼食をとった。しかしこの弁当は何時も思うのだがいまひとつだ。一体どういうことか。今度からお店を代えよう。お客様にお出しできない。
・ この女子高も今回大幅な生徒増となり「一安心」と言われていたが、確かな経営手腕を有しておられる先生であり私は高く評価している。今後とも人的にも情報的にも助け合って行きたいと思っている姉妹校である。

・ 某府立高校の校長先生からお電話を頂きこれも人事の話で「体育科の教師」の紹介の話であったが、29日にこの先生と実際会ってみることにした。相当なキャリアを持たれた先生であり今年は間に合わなくとも私個人としては大変興味がある。

・ 午後一番に設備担当を呼んで第5期工事の発注先と予算について29日に理事会に提出する資料の準備を指示した。カフェテラスの机や椅子は現在のものを極力流用すること、その他黒板や教室の机など用意すべきものも予算化を指示したのである。
・ 同時に私は再来年度もその次も仮に16クラスとなった時には教室がお幅に不足するのでこの対策についても早急に対応策を考える必要があると言ったのである。明日早朝ミーティングをして確認することとした。このように本校は早朝ミーティングが多い。

・ 早朝ミーティングは大変便利である。事情を良く知っている専門が集まれば短時間で物事は分かる。教員はとにかく全員で皆で議論というが、何も基礎知識のない門外漢が入っても議論にはならない。このように少数のプロが大筋を決めてそれを職員会議で皆の共通情報にすれば良いだけの話である。

・ 13時30分年度末の職員会議であった。私は先の「武道館の竣工式の総括」を行い、寄付金などを全員に報告した。同時にあれほど全員で祝いたい、頼むから出るようにと言っていたのに教職員のうち参加しなかった者に対して名指しこそ避けたが厳しくその不実をなじったのである。許せないと思った。逆鱗に触れたのである。
・ その後年度末最後の職員会議であり、多くのことを状況と背景と「私が望む方向」について説明したのである。そして退職される先生方に対して深甚なる感謝の意を捧げた。そして希望に満ち溢れて赴任されてくる新しく採用される先生方の温かい迎え方について注意を喚起したのである。
・ 「理事長が最も忌み嫌う無神経、気遣い、心配りの無い対応」は決してしないように万全の体制で新採用教員を迎えて欲しいと改めて念押しをしたのである。机の中、支給するパソコンや内規集など整理してお渡しするようにと具体的に指示をした。

・ 職員会議が終わっても今日は次から次へと用事があり、1年間成績が極めて優秀だった生徒の場合はその保護者を呼んで「宝来賞という特別表彰」をするのである。これには賞状と金一封がついている。本校の表彰規定で決まっており初代理事長の宝来先生からの顕彰奨学金制度である。生徒も保護者も大変喜んでいた。


・ 職員会議が終わり今年で終わりとなる先生方がお別れのご挨拶に来てくれる。皆さん、「浪速で大変勉強になった」と言ってくださり、特に「理事長先生の物事の考え方」が大変勉強になったと言ってくれたのは嬉しかった。
・ 中には堺市の公立中学校に採用が決まっている先生は「浪速高校に又お世話になるかもし知れません」と言ってくれた。確かにそうであり本校から公立の教員に巣立っていく先生は浪速の味方であり「なるほど」と思ったのである。

・ 24日の公立高校合格発表日の夕方に「併願戻り数」がはっきりするが困った情報が入ってきた。すでに事前に手配している専願合格者の制服は十分間に合うが併願合格者については制服が間に合わないというのである。
・ 被災地となった東北方面に縫製工場があって壊滅的被害を受けており今から手配しても間に合わないというのである。私は最後までぎりぎりの努力をして、それでも間に合わない場合は中学校の制服のままで当面は仕方が無いと新一年の学年主任に伝えた。こういうところにも震災の影響はあることを知った。

2011年3月21日月曜日

23年3月21日(月)その2:大震災ドキュメント

 今回の大震災の私の行動をドキュメント風に記述する:
・ 13日の武道館竣工式を二日後に控えた3月11日、14時46分頃武道館お茶室「洗心亭」において茶道部の生徒に杉戸絵が示す古事記神話の世界を説明中に私は小さな「揺れ」を感じた。床の間のお軸が左右に振れるので「あれ、地震?」と言う。生徒は笑っており、気づかないくらいの揺れであったが間違いなくあれが東北・関東地方を襲った地震であった。
 ・ その後が学校では知ることもなく、夕刻自宅にて大きな地震が東北地方において発生したことをテレビ報道で知る。津波が車を飲み込み家屋を押し倒していく画面に戦慄を覚えた。しかし今でも疑問なのだが「津波の色は真っ黒だった」があれはどうしてなのだろうか?海の色ではなくて真っ黒なのだ。
・ 大災害をこの目で確認し私は熟慮した。そして翌12日朝会にて竣工式と内覧会は行うがホテルでの祝賀会は中止とする旨を管理職に伝えそして臨時の校務運営委員会にても伝えた。こういう場合はすばやい判断が重要である。

・ ホテルへのキャンセル、代わっての「直会」のお弁当の手配など指示した。その後「中学校卒業式」を挙行した。素晴しい卒業式となった。敢えて「黙祷」などは被害状況が明らかになっていないのでしなかった。

・ 13日「武道館竣工式」。府庁私学課の幹部や理事評議員、塾の先生方、PTA,同窓会、保護者会はじめ多くの皆様のご臨席を得て無事に終了することが出来た。これで本当に「ホッ」としたのである。そして内心「運の良さ」を喜んだのである。


・ この間、自宅のある鹿嶋の友人から「鹿嶋は大変なことになっている」との連絡が続々入る。又親戚筋からも「安否情報」の問い合わせが入ってくる。被害の状況が明らかになるにつれ自宅が気になり15日に帰省することを決心。

・ 14日(月)出勤、この日関西大学堺キャンパスのB棟完成祝賀会があり来賓として出席。上原理事長、楠見学長はじめ多くの関係者と懇談。終日武道館竣工式関連で電話や来客が多くあった。話題はやはり大地震のことであった。

・ 又特にこの日は第5期工事のカフェテラス、部室、予備教室の詳細検討と方針の確認と言う大仕事があったのである。実は数日前に「各社の見積もり」は入手していたのであるが竣工式を優先して方針を出すのを延ばしていたのである。仕様を一部見直し、トップから5%以内の見積もり金額の範囲にある3社さんに「再見積もり」を依頼するよう担当に指示した。

・ 被災された鹿嶋の知人から帰って来るなら大阪で「単一乾電池」「20リットル水ポット」「水の要らないレトルトパック食料品」「2リットルペットボトルの水6本入り箱」を何箱でも、極力多く積んで来るよう連絡があったのでそれを求めに走ったのであるがまったく手に入らない。幾分焦ってきた。

・ 又私は自分の考えで「ガソリンの不足を想定」して、携行式ガソリンタンク(缶)を購入するよう校務員さんに願いするもほとんどのお店で売り切れているとのことであったが何とか校務員さんの努力で20リット入りが3個手に入った。これに学校近隣のお付き合いのあるガソリンスタンドからの借用分を入れて合計80リットル分のタンクが揃った。これが後で知ることになるのだが極めて効果があったのである。
・ 15日朝出勤。朝8時から管理職、事務室合同の朝会を行い、29日に予定されている理事会・評議員会の議題と資料段取りについて綿密な方針を確認した。荷物とガソリンを積み込んで学校を後にする。難波のマンションを出発したのが午前9時30分であった。一路、西名阪道、東名阪道、東名高速、首都高速、東関東自動車道を走り20時過ぎ鹿嶋市の自宅に到着。
・ 高速の状況は渋滞などまったくなく、どちらかと言えば交通量も少ないように感じた。全国の自治体から東北地方へ向かう「災害救助隊」が編成を組んで北上していた。車体は赤で赤ランプを点滅しながら規則正しく進んで行く様は何か「感動的」であった。丁度「愛媛隊」が30数台に渡って北上していた。

・ 私は途中途中の高速のガソリンスタンドで15リットルから25リットル単位で満タンにして虎の子の携行タンクは温存する作戦をとった。最後は「海老名のPA」での給油であった。一台あたり10リットルまでと言うことであったが被災地に向かう車は満タンにしてくれた。
・ 夜も暗くなっていたから建物の概観は分からなかったが門そばの灯篭が倒壊して私を出迎えてくれた。私は庭が好きで茶室もあることからこだわりの庭を造った。庭には6個も灯篭があるのだがそれがすべて倒壊していた。「頭でっかち」だからなのだが、「灯篭も人間も頭でっかちはすぐ倒れる」のであろう。
・ おそるおそる玄関に入ってからのことは書くまい。「悲惨としか言いようもない光景」が目に飛び込んできた。壁に飾っていた絵とニューヨークから持って帰った鏡は周辺に飛び散り、置き台の上の大理石の板は見事に真っ二つに割れて廊下に飛んでいた。
・ 2回のキッチンとダイニングはもはや言いようもない有様で食器を入れているすべての戸棚の扉が開いて足の踏み場もないほどあたりに散乱しガラス物はすべて割れどれもこれも使いものにならない感じで散らばっていた。正直高価なものもあった。

・ テレビは飛び、出窓においていたプランターはフロアに落ちて土が散り、コナーボードなどは1メートルも位置がずれていたのである。その夜は何もする気にはならず、隙間を探して就寝。東北地方の人々のことを考えたら運の良さを喜ぶしかないと思った。家が潰れていないだけ幸せであると。

・ 翌日からの三日間、すなわち16日、17日、18日は片付けに忙殺された。瓦礫の山をダンボールに入れて市営の廃却場に持っていかねばならない。そして19日午前中に出入りの庭師、住宅会社を呼び、庭の復旧、屋根瓦、外壁のサイディングの亀裂、部屋の中の壁クロスの状況を観察して貰った。補修が必要で見積り依頼をお願いした。そこでようやく気も落ち着いてきたのである。

・ 時間がようやく取れたので近くの鹿島神宮に出かけた。参道口の「大鳥居」が有名なのだがこれがぶっ倒れたとうので見に行ったのだがすでに片付いていた。倒壊した家はなかったが屋根が大きく損傷していた家を多く見かけたのである。
 ・ 年度末で忙しい時であったが、私が留守でも教職員が頑張ってくれており、パソコンと携帯電話で大概のことは済ませることが出来て、学校業務に支障がなかったのが幸せであった。すなわち「落ち着いた学校の状況が私の気持ちを楽にした」のである。
・ 武道館の竣工式は無事に済んだが弓道場、空手道場、剣道場の「杮落し」は正式に中止とした。スポーツの自粛があいつでおり今しなければならない状況ではないと判断したのである。これも鹿嶋から指示を出した。

・ 又カフェテラス・部室工事については逐一再見積もり状況が入ってきておりそれを見ながら私は「発注業者を最終決定」した。この間専願登校日における数の確認や中学校入学者数も最終確認できた。

・ 副校長から東北地方の高校生の受け入れについて問い合わせがあったが「積極的に受け入れるべし」と連絡した。又お茶室開きを延期としたが「引き出物のお茶わん」についても陶芸家の先生に連絡することが出来たのである。

・ そして私は20日に大阪に向けて出発することを決めた。22日は年度終了式がありこれは校長不在では締まらないのである。私は生徒たちに今回の大震災のことを語ってやらねばならない。義捐金についてPTAとも相談したい。

・ 石原東京都知事は「我欲の強い日本人への天罰」と言って顰蹙をかったが、言いたかったことは「ここで生き方を見直す契機」ということではないか。我々は自然災害の恐ろしさを身をもって経験した。たった一発の地震で日本全国が震える事態に直面した。

・ 国民一人ひとりが覚悟して復旧支援を行い、「新しい国作り」を目指さねばならないと思う。潜在力のある日本人であり必ず再起できる。今世界の人々が日本と日本人を見詰めている。私も国民の一人として頑張らねばならないと思っているのだ。

23年3月21日(月)その1:地震の怖さを知る

・ 20日(日)朝8時30分に出発して16時30分には難波に到着した。鹿嶋からの脱出でもなければ避難という訳でもない。当初計画通りの行動である。学校というものは1年でこの年度末3月が最も忙しい時期であり、組織のトップとしてこれ以上学校を留守にするわけにはいかないからだ。

・ 自宅の内部の片付け、屋根瓦や壁などの補修を出入りの工事業者に依頼して大体鹿嶋での作業は終わった。余震の続く鹿嶋に居ても仕方が無い。壁にかけていた額縁など全部外し、食器棚の両開きドアには紐をかけて開いて中のものが落ちないようにして万全の措置をとった。

・ 帰りの東名高速は全く渋滞などなくて車も少なかった。マルゼン石油のタンクローリーが北部に向かって走っていた。後述するがガソリンにまったく心配がなかったから安心して運転に集中できた。今回の往復1600キロの運転は「虎の子のガソリン」をたっぷりとトランクに有していたからである。
・ 遂に恐れていたことが表に出てきた。必ず来ると思っていたがやっぱり来たという感じだ。福島県の原乳と茨城県のほうれん草に千葉県のシュンギクなど放射性物質の汚染があったというニュースである。今朝は出荷停止となっている。全然健康被害には関係ないレベルであるが「風評」というのは怖い。
・ 発ガンリスクというが喫煙の方が何倍もリスクは高いが人々はこれらの産地の食べ物を敬遠する。今後海産物などにも伝播していくのかもしれない。「福島原発はこれで万事休す」となった。「復活など有り得ない話」だ。政府筋も「廃炉」を匂わせていたが、当たり前である。


・ 昔から「地震・雷・火事・親父」と言う言葉があって、これは「怖いものの順」なのだが、本当に地震は怖い。齢を60歳を越えて怖いものなど無いと嘯いていたが、地震は怖い。毎日マグニチュード3-4程度の余震が何十回も続いて、そのたびに「びくッ」とする。まず下から「ヅン」と突き上げられその後「ギシギシ」横揺れするのだ。

・ 福島原発の事故のニュースを聞いてまず私は思った。これはまずいことになったと。鹿嶋市は首都圏の東外れ、海沿いの田舎町なのだが福島県から比較的近いので原発が最悪の場合、どうしようかと思ってしまうのだ。学校の校長であり私が今「死の灰」を浴びるわけには行かないからだ。

・ しかしそれにしてもテレビ報道の原発の説明や解析は一体どういうことか。多くの日本人は今や「原発の構造」など完全に頭に入ったのではないか。次から次と大学の専門家という先生が出てきて解析するが正直何を言いたいのかさっぱり分からない。

・ 知人の女性なども、このテレビの報道を聞いて「あの人たちの言っていることさっぱり分からない。聞きたいことはまだ逃げなくて良いのかどうかだけ知りたいの」と怒っていたがその気持ちは分かる。


・ 読売新聞は「東日本大地震」と書き、NHKテレビでは「東北・関東大地震」と述べているが正式にはまだ決まっていないのだろ?被害の大きさからテレビや新聞報道では東北の被害状況と福島原子力発電所のニュースばかりであるが関東地方の被害も結構大きいものがある。
・ 茨城県の湾岸部も津波の被害が相当あったが東北のそれに比べて小さいものだからマスコミも報道しない。それを茨城県の人々は内心では面白くないと思っている。救援物資などまったくこの地には来ない。しかしそれは被害状況が全然違うのだから仕方がないのではないかと思う。

・ 特に私の住んでいる鹿嶋地方は「人のいない町」のような状況に陥っている。人通りがない。人々は外に出ていないのである。余震もあって出ることが出来ないのであるがもう一つは車にガソリンがないのである。学校もお店も完全に休業である。

・ 私の勤務した住友金属鹿島製鉄所は地震の影響による操業休止中である。私がかって工場長を務めた中枢の生産現場が深刻な設備損傷を受けている。24時間稼動の製鉄所が止まるなど超非常事態なのである。気になって仕方がない。被災した自分の家をほったらかして復旧災害に昔の仲間は当たっているのだろう。

・ 1昨日など全国版のNHKニュースで「計画停電で真っ暗になった町:鹿嶋」と紹介されたものだから鹿嶋の住民が面白くないと感じるのも理解できないわけではない。茨城県の橋本知事は大阪の橋下知事と1字が異なるが、橋下知事に比べて温厚な人である。

・ この知事が珍しく怒って「被災地まで停電にするのは何ごとか」と政府に申し入れをした。そのおかげでテレビに出演出来て、たった一日で鹿島茨城地方を含め被災地は停電対象から外れたのである。これはささやかな鹿嶋市の貢献であった。しかし避難所にいる人々を追い討ちするように停電にしてしまうなんて普通は考えない話だ。


・ しかし今回の大震災の特徴は建物の倒壊は少なくて「津波被害」が甚大であったこと、三陸から鹿島灘まで400キロに及ぶ海岸部に壊滅的な被害を出し、それが放射線事故を呼ぶ原発被害とそれに伴う電力不足から「計画停電」をもたらした。

・ そして物流問題から来る「物品不足」である。「風評」も伴い次から次と「被害の連鎖」である。この風評をもたらしたのが「福島第一原発」である。福島には品物は入っていかないのだそうだ。「被爆」が怖いのである。南部のいわき市や茨城北部にも物品輸送の車両が入って来ないから当然「品不足」になる。「放射線が怖い」とう訳である。

・ 最大の問題はガソリンである。今や車は無用の長物であり、何処にも出かけることが出来ない。関西の人々は暖かい土地柄だから案外ご存知ないのかも知れないが、関東や東北の人々にとって「灯油」は必需品なのである。この灯油もまったくないのだ。
・ まさに地獄絵を見るような東北地方の被害状況である。運よく被災としては規模は小さく東北の人々と同一には論じられないが、同じ被災者として私はあの人々の気持の幾ばくかは理解できる。まず「絶望」である。先行きへの不安から元気など出てこないのだ。東北の人々に「希望を有して貰う」具体的支援が必要である。言葉はもう良い。





2011年3月14日月曜日

23年3月14日(月)武道館竣工の余韻の中で













・ 昨日の武道館竣工式の「余韻」覚めやらぬ一日であった。もう一日遅れていたら私の性格だから恐らく「中止」していたに違いない。日一日と惨状が明らかになるにつれ胸が痛むと同時に「我が国の行く末」に不安を感じる。
・ 我々の世代は「もう良い、十分好きなことをしてきた。」との思いはある。しかし問題は、若い人々が希望に胸を膨らませてこの国で頑張ってくれるのかどうかが心配なのである。若者の資質を言っているのではない。「若者を巡る環境が余りにも酷い」のである。

・ 国の税収の倍もの国家予算を使い、おまけに半分は国債という借金なのである。今や1000兆円もの国の借金を抱えて国を回転させており借金はすべて若い世代に付回しである。年金、保健すべてが破綻した。

・ 格差が広がり若者に就職さえ無いのが現実である。年寄りが跋扈し金も権限も機会も年寄り世代が抑えて国を好きなようにしてきた。この国の政治には「経世済民」という考えは無かったのである。

・ 自己保身と権益利益誘導に走った政治家は国を変えることが出来なかった。国を滅ぼしたのである。しかし私はいうが国民にも責任がある。私自身、プレ団塊世代の一人として60年間頑張ってきたが、この間のことには国民の一人として痛切に責任を感じているのだ。

・ そして今回の大地震である。自然の鉄槌と言えば東北地方の人々に申し訳ないが日本人全体に「何かを知らしめる自然の大きさ」だと思えないことはない。私は今日の校務運営委員会で「大きく日本という国が変わるような気がする」と述べた。
・ あれほど原子力発電に期待し、問題ないと思ってきたが今回の事故で全く非定常時に通用しないことが分かった。物流も自動車も産業も機能しないことが分かった。極めて単純な自然の摂理の前には成す術がないことが分かった。
・ 我々は今回の災害を契機として原点に立ち戻ることが必要である。自分の身の丈で周囲を固めねばなるまい。自治体や政府に「ねだる」「せびる」ようなことはもう止めなければなるまい。お金を有している層はもっとお金を吐き出す必要があろう。

・ 朝一番に自治会担当が部屋に来て「高校自治会が被災地への支援といって何かを活動したい」と言っていますと言ってくれた。私は大変嬉しくなった。彼らの気持ちを大切にしてやりたいと思った。

・ 本校は22日が「終了式」であるが、何時もは2時間授業をしてその後終了式、ロッカーの移動などがあるのだが私は教務部長との協議で授業は止めて「神前奉告」のあと全員を部屋に戻し少し長めの「校長講話」を入れることにしたのである。

・ まず今回の災害で亡くなられた方々への哀悼の意を込めて「黙祷」をする。その後自然の威力というものを語り、「人間は如何に生きるべきか」について話してみたいのである。勿論1年の終わりであるから生徒に注意しなければならないことは山ほどあるのだ。
・ 昨日一旦決めた「お茶席開き」について、午後13時の時点で「無期延期」とした。相当な思い込みがあったが私は中止とした。道明寺天満宮に電話して宮司さまからお茶の先生にお話してもらうことにした。

・ 力を入れた「洗心亭」であったが、逃げるわけではない。静かに生徒に茶道を教えていくことで十分お茶室は生きてくる。お茶室開きは随分後でその機運が出てきたときにすればよい。

・ 海外修学旅行も11月に予定されているがこれも「変動」する可能性が出てきた。修学旅行をするなとは世相も言わないだろうが「何で海外?」と思われたら生徒が可哀想である。結論を出した訳ではないが柔軟に対応すべき局面が出てくるかも知れない。

・ 中東の紛争の影響でオイル価格が上がりオイルサーチャージも今後上がってくるだろう。それよりも被災地復旧に膨大なお金が必要で、このため「税金」が上がるだろうし、「国民一億火の玉となって復旧支援」となったら海外修学旅行の正当性が崩れてくるのではないかと思っている。

・ 前述したように今回の日本歴史始まって以来の「国難」とも言うべき今回の大惨事を契機に日本という国の国体と日本人というものを変えていかねばならないのではないか。私はおぼろげながらそのように感じるのである。

・ 浪速高校は今後数年は派手なことはせず、ひたすら謙虚に日々を過ごさねばならない。今回の大地震で益々私は「新校舎の必要性」を感じた。しかし一挙には行かない。焦らずじっくりと構えて行くのだ。

・ 多聞尚学館、ふくろうスタジアム、浪速武道館、教育改革の成果「教育トライアングル」は一応完成した。完成した竣工式の前々日に大きな地震が日本列島北部を襲った。列島中部に生きている我々は「運の良さ」を感じざるを得ない。

・ これからは「腰溜め」の時期である。私は昨日の武道館竣工式の喜びと今後の対応について自分自身も大きく変わらねばならないなと考えるのである。何時もそうだが「間一髪」で私は目に見えぬ天に助けられていることを感じる。
・ さてようやく時間が取れそうなので鹿嶋の家に帰って、被害状況を把握し、家の中を整理しなければならない。家は大丈夫みたいだが中は「ぐちゃぐちゃ」らしい。しかし余震が続く火中に向かっていくのは当然だが気が進まない。計画停電も始まるらしく、ご近所にご迷惑を悪をかけては行けないので一度は帰らねばならない。従ってしばらくブログは休みとしたい。




2011年3月13日日曜日

23年3月13日(日)浪速武道館竣工式

・ 「激甚災害」の指定を受けた未曾有の大災害で本当に胸が痛みます。被災され皆様に心からお見舞い申し上げます。私は様子を見ながら良いタイミングで被災された皆様に「学校として」十分でなくとも我々が武道館完成で得た喜びのおすそ分けとして「お見舞金」を贈らせて頂きたいと考えました。少しでも元気を出して頂きたいのです。

・ そのような状況下でありましたが、浪速武道館の竣工式は「生徒の完全祈願祭」をかねており、予定通り本日9時から始まりました。準備万全でしたがあちこちで私の思いからは少し離れた場面はありましたが仕方がありません。

・ しかし簡略版のⅢ部を含めて、終了した時間は11時45分でしたからこれは「ピッタシ」と的中しました。頭で想像して計画を練っても思うようには行きません。やはりキーパーソンにはトランシーバーが必要だったのでしょう。内覧会など模範演技のとき、生徒の声で館内放送など聞こえませんでした。

・ Ⅲ部の堺のリーガロイヤルホテルでの完成祝賀会は自粛させていただき、「直会」として「お弁当」を持って帰って頂く段取りに変えましたが元受のロイヤルホテルさんが頑張ってくれたのでしょう、私の目では一応面目の立つお弁当の内容だったので一安心しました。

・ 大阪府私学課からも幹部がご出席頂き、学校法人の役員、PTA,同窓会、高体連、各専門部の幹部、塾の先生方など多くの皆さんが顔を見せて頂きました。「光栄」そのものでした。勿論建設工事会社の社長様以下幹部が総出、本校出入りの会社関係の皆様などご関係の筋すべての人々で私は特にこの「勢ぞろい」が嬉しかったのです。


・ 多くの人々から当然「おめでとう御座います」とご挨拶をお受けするのですが、合わせて「良い天気」についても言及されました。皆さんは私が「天気男」だと思っておられるのです。浪速ふくろうスタジアウムの開所式の時も朝方の大雨が突然止んだことをご存知なのです。

・ それにしても「ポカポカ」陽気の中で、300人を超えるご来客を得てささやかながらも心も篭った式典と内覧会が挙行できたと思います。錬武館の天窓から差し込む光は浪速の将来を象徴しているような「旭日」で心が震えました。特に正面玄関「武の字」の序幕は思い出深いものになりました。

・ 圧巻は南側の正門の看板開きでした。本校は4月から大阪国学院を浪速学院に名称変更します初めての「浪速学院の表札」です。しかし管理職はじめ生徒も含め大勢の教職員が総出で対応してくれ問題なく順調に本日の行事全てを終えることが出来ました。私は感無量であり、この4年間の事を振り返りながら式の進行の中に身を置いていました。




・ すべて終わり、皆様がお帰りになった後、虚脱感というのではなくて何か「心地よい疲労感」を感じたのですが、既に私の頭には「次の仕事」が膨らんできています。帰宅前には事務室の設備担当に電話して明日の月曜日早く「次のプロジェクト」について打ち合わせをする旨連絡しました。
・ 次の計画とは「カフェテラス、生徒のクラブ活動部屋、予備教室」の5期工事のことです。これは急ぐ必要があるからです。というのは武道館のことでブログも一杯となり、書くスペースがなかったのですが、実は来年度の入学生について少し心配なことがあります。

・ 10日16時に府教委は府立高校後期入試の募集締め切りをしてそれをプレスにリリースされました。翌11日の朝刊各紙はそれを報じていましたが、これで大体90%の的中率で「併願戻り数が読める」のです。
・ これによれば浪速高校はここ20年間くらいでは最高となる入学者数を数えることが出来るかもしれないというシミュレーション結果が出ているのです。もっともあくまで、これは計算であって「取らぬ狸の皮算用」との言葉もあります。

・ しかし何かの前提をおいて準備をしないと間に合わないのです。まず「教室の数、教師の数」です。中でも空き教室が心配になるような感じなのです。従って「発展別」など分割授業を考えると極力早く予備教室が欲しいのです。
・ この件はすでに動いているのですが、先週この「新プロジェクトに応募」された建設会社さんから見積もりを頂き、担当から初めて詳細報告を受けましたが正直あれでは私の想定を超えており「何らかの手を打つ」必要性を感じています。それも至急に対応しなければなりません。

・ このプロジェクトは今回のような式典など全く考えていません。神事は神道科の教諭で十分対応可能であり、今日の浪速武道館でしばらくの間「正式な式典」などは考えていなく、次は新校舎建設までありません。そういう意味で今日は本校にとって大きな節目の日になりました。
 ・ 今日、教職員の中で光っていた教員はY教諭でした。彼は美術科の教諭で今回の武道館建設チーム長を見事に務めてくれました。パソコンには強いし、教務部の次の部長候補です。何よりその人間性が魅力的です。

・ 昔はそれでも「何か鬱屈した感じ」がしていましたが最近は「でしゃばらず、それで居てしっかりとものを言い、責任を果たす」仕事ぶりで、私はこの先生を「武道館建設チーム長」に当てはめた人事の成功を我ながら喜んでいるのです。

・ 私はこのY先生を引き続いて「新校舎建設チーム長」に格上げしました。そしてメンバーも大幅に拡充しました。今から何年先になるか、出来れば極力早く新校舎を建設したいのです。その「時期は3月29日の理事会で機関決定したい」と考えています。

・ このY先生には「もう一仕事」して欲しいのです。教員はすぐ「公平に平等に」と言いますがそのようなことをしたら組織は崩れます。人間の能力や識見、人間性は一人ひとり違うのです。「出来る人間には何回も何回も仕事が回ってくる」のです。

・ 特にこの世代には人材が揃っています。神道科のM教諭、中学のD教諭、I教諭も同じ世代です。彼らが将来の浪速のリーダーになる可能性は高いと考えています。だから私は彼らに次々と重要な仕事を与えて鍛えている積りです。完全に民間企業の人材育成の方法です。

・ 失敗しても私は諦めずに「教員にはチャンスを与え続けています。」「これでもか、これでもか」という具合に責任ある仕事を与えていますが、正直「疲れるような教員もいます」。しかしこれを諦めたらそういう教員はただ「サボる」だけの結果に終わります。

・ 先般ある機会があって一部の教員と飲食する機会があったのですがその席で言われました。「校長は忍耐強い。何回チャンスを与えたら気が済むのですか」と。「駄目なも者は駄目ですよ」と。

・ しかし私は絶対に駄目教師を「サボらせません」。「給料分の仕事だけはして欲しい」のです。若い世代の教員が頑張っているだけにベテランといわれる教員は「ベテランらしい味」を出して組織に貢献して欲しいのです。このことは社会では「当たり前」のことなのです。小さい所帯だけに簡単に諦めたら「人が居ない」のです。

・ しかし今日の竣工式で残念なことが一つありました。何と玉串奉奠で職員代表のY教諭は普段着の色物スーツでした。私は驚きました。理事長は黒羽二重の正装、主賓の私学課の幹部職員も式服、皆さん全てが式服なのにこれは一体どういうことなのか理解できませんでした。
・ 男は何時いかなる時でも対応できる服装をしておかねばなりません。式服は良いとしてもこう言う時には「ダークスーツ」を着ていないと世間から笑われます。「田舎者」だと言われかねません。

・ 元々職員代表の玉串奉奠は予定になかったのですが、わざわざ私は議員先生の玉串を取りやめて教職員に敬意を表して出番を作ったのです。そして高校教頭に二人の候補者を示し教頭に人選を任せました。一人は前述した武道館建設チーム長のY先生、そしてこの職員代表のY先生でした。

・ 本校では教職員の過半数を超える労働組合はありません。従って「職員代表」を投票で選び高い得票率でこのY先生が職員代表に就任されました。2,3日して私は教頭に聞きました。「どちらにした?」。

・ 教頭はすばやく答えました。結果は職員代表のY先生となりました。私は異存など全くありません。それは元々私が指名した二人の一人だからです。ところがあの服装でした。私は本当に恥ずかしい思いがしました。日頃沈着冷静で分別のある教員なのに「あれは一体どうしたのだろうか」と。

・ これは間違いなく「指名した教頭の責任」です。きつく指導しておかねばなりません。体型の似たような教員のダークスーツを借りてもあの服装は着替えさせなければなりませんでした。それが管理職の仕事です。

・ 口さがない連中は陰口を言っています。この二人はとても仲が良いと。仲が良いのは結構ですがTPOを心得ないような服装の教員には厳しく対応しなければ学校が恥をかきます。私はこのY教諭に対してというより教頭に対して頭に来ました。

2011年3月12日土曜日

23年3月12日(土)その2:武道館大詰め

・ このブログは11日の夜にアップする予定であったが東北地方の大地震と津波被害によって亡くなられた人々や家屋などの財産被害を受けられた方々へお悔やみとお見舞いの気持ちからアップを中止したものである。
・ 明日の武道館竣工式を受けて「本日のブログその1」で完成祝賀パーティを自粛することについて触れた。従って一日ずらして本日このブログをアップしたのである。


・ 武道館の最後の調整工事が最終場面になってきた。ゼネコンである南海辰村建設さんの施工範囲と異なる施主単独施工のものが結構あって、又私が「こだわり人間」だから最終局面で難しいことを言うから担当は大変である。しかし南辰さんはじめ皆さん大変良くやって頂いている。「有難い限り」である。
・ しかしこういうものは「一気呵成」に行かないと上手くは行かない。竣工式が終わってから「ボツボツ」ということでは出来上がりは良くない。「時は今」なのである。建物は最後の2週間くらいが勝負である。ここで「最後に良い仕事をすれば物は光輝く」ものになる。これが木村流である。

・ 13日は晴天で気温も上がると天気予報が報じているので嬉しい。準備も着々と進んでいる。竣工式において生徒が「パーフォーマンス」をしてくれるという。どのクラブもその練習に入りすでに「武道館を試用」している。いずれの顔も嬉しそうである。

・ 弓道部に至っては試射の時に建物が余りにも立派過ぎて的に全く当たらないと言っていた。それでは困るので13日の本格的試射までに気を落ち着けるように顧問の先生に言ったのである。
・ 一部問題を抱えていた剣道場「尚武館」も片付いた。これで問題は無いはずである。今までの剣道場は狭く又練習場の真ん中に柱があるような代物であったがこれからは縦横無人に練習できると思う。私が贈った「鹿島・香取神宮の掛け軸」がかかってあるのが嬉しい。
・ 担当からは13日までは武道館についてブログにアップしないように禁じられているが、我慢が出来ないから少しだけ写真をお見せしよう。弓道部の試射の時の写真であるが、これだけでも素晴らしい弓道場だということが読者には推察していただけると思う。
・ これ以上の中身の写真はアップできない。担当に殺される。13日以降と言うことになる。「お楽しみに」と言ったところだ。しかしもう一枚だけお見せしたいものがある。「武道館校内側入り口」である。写真ではお分かりにくいと思うが「素晴らしい」出来である。「私が全てを仕切った」ものである。
・ 門柱ならびに門柱に「中学校と高校の紋章」をつけた。「定礎」の石積みと「浪速武道館」の看板から入り口扉越に見える「武道館玄関」は恐らく入って来られた方は驚かれると思う。これ以上は書けない。遊歩道を抜けて武道館に至る道も趣向を凝らした。全てが「パーフェクト」である。
・ すでに本校の関係者は気が付いていると思うが私は「完全主義者」である。これが欠点であることは分かっているが、もう人生もたそがれに近い。先の曽野綾子先生ではないが「自由に、好きなように生きていきたい」。
・ 私がここまで持ってきたのである。誰にも何も言わせない。ささやかであろうが次々と仕事を発注し仕事を創出させた。仕事を得て助かった人はいる。多くの若者に「働き場」をこれまた創出した。本校で職を得て喜んでくれている人は多い。

・ 先の「ふくろうスタジアム」の時もそうであったが今回の武道館はそれ以上のこだわりであったと思う。全身全力で当たった。4年前着任した時に学校にお金が無い時代のことを思えば「感無量」である。涙がにじむ。年を取るに従って「涙もろくなった。」

・ 学校改革を推し進め、生徒に来て貰える学校になった。そして高い理解と協力心を有した教職員の頑張りにおかげでここまで来たのである。この4年でどれだけ「資産」が増えたことか。誰に言うのではなくて「ざまを見ろッ!」と言いたい。

・ 千早赤阪村の「多聞尚学館」、堺市の「浪速ふくろうスタジアム」そして今回の「浪速武道館」である。浪速の4年とこれより前の公立時代の4年、合わせて8年間、教育界に身を置いたが、この間「休むことなく全力で走り抜けて来た感じ」である。

・ 昨日は学院神社から武道館の神棚に「御霊移し」という「ご遷座」があった。この神事は夜暗くなってから行うもので道明寺天満宮本校理事長職務代理にお願いして19時前に始まり、無事に終わった。




・ 立会い者は管理職と関係する教職員である。武道館には「錬武館、尚武館、玄武館の3道場に神棚」を設えた。武道と神道は深い関係があるからである。生徒は何時も神棚に向かって頭を下げて練習に入っている。「大切なこと」である。人間には「畏敬・畏怖する対象」があるほうが良い。
・ 特に剣道場の尚武館には学院神社の神様に加えて「鹿島神宮」「香取神宮」のお札も納めさせて頂いた。武道の神様であり、映画でもテレビでも剣道場の場面では鹿島神宮と香取神宮の掛け軸が見えるくらい有名である。
・ 私の家からそれぞれ15分、45分くらいのところにある神社であり、神社ではなくて「神宮」と表されていることから分かるように非常に歴史ある格式高い神社である。急遽取り寄せたのである。
・ 又弓道場玄武館の神棚はグレードが一段高いがこれは先のブログ「御蟇目矢」に書いたように学院神社の分社の扱いである。神職である宮司や本校神道科のM教諭は特に玄武館の神棚の作りに驚いていた。「良い仕事」をしているというのである。
・ その理由は神棚の扉を開閉する時に「ギシギシッ」と音が出るからだと言われるのである。私はその音を聞いたときに「蝶番がきつい」のではないかと思ったがそうではなくて音が出るほうが良いのだと教わった。

・ 今日は中学校の朝礼があった。本年度最後の朝礼で校長講話で私は生徒に「新学習指導要領」から中学は女生徒とも「武道が必修」になってくる。13日に完成する武道館を使って心身を鍛えるように言ったのである。
・ 又中学校の入っている「新館」から武道館は最も近く武道館の完成後直ぐに「カフェテラス」と「憩いの広場」を作る旨の話をしてあげた。生徒は目を輝かせて聞いてくれていた。中学生でも学校に新しいものが出来ることは「嬉しい話」なのである。

・ 今日は中学校で初めて過日行われた「百人一首取り大会」の表彰式が行われた。全校生徒の中で個人優勝は中学2年の女子生徒であった。生徒会の役員で神楽舞も踊れる成績優秀な生徒である。


・ 今の浪速の、この「良い流れ」を止めてはならない。まだまだやることが私には残っている。体が浮き浮きしてくるのである。私は今「美空ひばり」の「人生一路」を歌っている。
人 生 一 路
作詩 石本美由起  作曲 かとう哲也
昭和51年
1 一度決めたら 二度とは変えぬ
  これが自分の 生きる道
  泣くな迷うな 苦しみぬいて
  人は望みを はたすのさ
2 雪の深さに 埋もれて耐えて
  麦は芽を出す 春を待つ
  生きる試練に 身をさらすとも  
  意地をつらぬく 人になれ
3 胸に根性の 炎を抱いて
  決めたこの道 まっしぐら
  明日にかけよう 人生一路
  花は苦労の 風に咲け