| 10月1日付けで7名の専任教諭を正式に採用 |
| 10月6日の職員会議 |
・ 一体全体「良い教師とはどう人のことを言うんだろう」と何時も考えている。考えれば考えるほど難しくなってくる。勿論、通りいっぺんな事は言えるが、それが全てを表しているかといえば、自信がない。
・ 自分の定義する良い教師像は自分だけのもので他の人の賛同を得るかどうか分からないからだ。新聞などの「学校時代を振り返って」等のコラムで有名人が「先生のあの一言が自分の背中を押した」とかの記事を時々目にするが本当に「人生とは色々であるように教師も色々」である。
・ 世の識者や教育評論家などの諸氏も当然「良い教師像」のご意見はお持ちである。テレビのタレントやコメンテーターと評する人々もそれぞれがイメージとしてお持ちである。誇張して言えば「国民の数だけ良い教師像の数」はあるのである。
・ しかし大体これらのイメージは「ご自分の原体験や原風景」に拠っている場合が多い。
「私が小学校6年生のとき風邪で学校を休んだら毎日来てくれて、その日の話を聞かしてくれました。あの先生は・・・」と言う類である。
・ 「中学3年生の時、目標を見失って自暴自棄に成ったときにあの先生がものすごく叱ってくれて、あれで目が覚めました。あれ以来私は・・・」というのもある。格好良いのになると「高校2年の時のあの先生の一言で自分の今がある。」と言うものである。
・ ところがだ。私の公立4年間、私立4年間の校長経験で言えば「誰からも尊敬」されている先生はまず居ない。前述した素晴らしい先生もその人にとっては大変良い教師だったのだろうが、別のところでは「あんな先生、見た事ない。まったくいい加減で・・」というのもある。これは普通の光景である。
・ どうも高校よりは中学校の方が良い教師像が振れている感じがする。それは保護者からのクレームと言う切り口で考えればと言う条件付きなのだが圧倒的に中学校の先生は保護者からのクレームが多い。小学校は経験が無いがもっと多いような気がする。
・ 私から見れば素晴らしい先生でも保護者から見ると「腹に据えかねる態度」「あの失礼な一言」「何を言っているのかさっぱり分からない」とか本校でも正直言って保護者からお叱りを受ける場面はあるのだ。
・ しかし最近では私はこの種の話を聞いたら前後関係を事件捜査の刑事みたいに聞き取り、その該当の先生の常日頃の執務状況、人柄などを勘案して判断していくと「さもありなん」と納得することもある。「やっぱり」とは言わないが頷く時もある。
・ 昨日のブログにも書いたが結局教師は「人間学の勉強が足りない」ことと「語彙の不足」から要らぬ刺激を保護者に与えたりしているケースが多い。それと「初動のミス」である。早い段階で「スパッ」とボールを返していたら簡単に納まる話を「寝かしておく」から問題となる。
・ 保護者からすれば「返事が遅いのは先生が解決に奔走していてくれる」と思うのは当然である。それが「何にも進展が無いゼロ回答」だったら誰でも頭に来るものだ。とにかく早く処理する、早くボールを返すことが有力な解決技である。
・ 大体人間なんて「欠点を抱えている生き物」で、「完全無欠の人間」なんて居るわけがない。私など欠点だらけの人間だ。開き直ってはいけないが自分の欠点を自覚しそれを直して行こうという気持ちがあるかどうかが大切な事だ。
・ それは「何処かに恐れを感じる」という「謙虚な部分」を持っているかどうかと言う事だろう。「畏怖するものがある」と言っても良い。結局分かり易く言えば良い教師も良いサラリーマンも良い職人さんも「良いという定義」に違いはないのではないだろうか。
・ 木村流に言えば:
* 生徒の為に自分の時間を取ることを厭わない先生
* 謙虚で勉強熱心である先生、思索を感じる先生
* 下品ではなく人間の品格を感じさせる幅の広さのある先生
* 礼節を重んじ組織の中での協調性があり陰日なたの無い先生
・ 教師になった以上「教科指導力や生徒生活指導力、保護者への説明責任力」など当たり前でこれが不十分だったら「出発点」から狂っていることになる。以上3点セットは「前提条件」であり、「必要条件」だろう。
・ 勿論大学を卒業しすぐ教師になった若い先生に全てを最初から期待するのは酷過ぎる。中には若いのに立派な考えを有し現に行動している先生もいるが、中には未だに「エーッ」と感じる学習意欲、学習成果の感じられない教員もいる。
・ もっと加えるべき「良い教師の定義」はないのか?と考えていたら良いヒントに巡りあった。司馬遼太郎先生の書かれた「21世紀に生きる君たちへ」の本である。司馬先生が小学校5、6年生の国語教科書のために書かれたものである。
・ 公立の校長時代から時々卒業式などで引用させて頂いたまさに名文であるが、この中にヒントがあるような気がするのである。小学生だけではなくて日本人全てに夢と希望を与える作品として今でも多くの人に読まれ親しまれている本である。
・ 結局のところ「正しい歴史観」と言うことだと思った。正しい歴史観を身に付けることは、とどのつまり「教養であり見識である」と思うのである。「教養と見識がその人格を高める」。
・ 私は本校の若い先生方に「良い教師のイメージ」としてこの司馬先生の作品から歴史観にたどり着きこれを若い先生方に期待したいのである。本校の20歳台の先生方は30人以上はいる。
・ これらの若い先生方は間違いなく「21世紀を生きる先生方」であり「浪速の坂の上の雲」を目指して貰いたい。「21世紀の浪速を生きる先生方へ」として私は火で豊臣秀吉がその子秀頼の為に「五大老、五奉行」に言い残した遺言みたいなものだ。
・ 司馬先生の「21世紀を生きる君たちへ」の中で後半の部分に「洪庵のたいまつ」という文章がある。この部分の最後のところに若い浪速の先生方に伝えたい処があるのである。
「振り返ってみると洪庵の一生で最も楽しかったのはかれが塾生たちを教育していた時代だったろう。洪庵は自分の恩師から引きついだたいまつの火をよりいっそう大きくした人であった。かれの偉大さは自分の火を弟子たちの一人一人に移し続けたことである。弟子たちのたいまつの火は、後にそれぞれの分野であかあかとかがやいた。やがてはその火の群れが、日本の近代を照らす大きな明かりになったのである。後世のわたしたちは、洪庵に感謝しなければならない。
・ 浪速の若い教師に告ぐ。「緒方洪庵先生を目指せ」。自分のたいまつを一人ひとりの生徒にひきつぐべく頑張って欲しい。後世君たちが教えた生徒が先生方を振り返って「先生に感謝する」と言ってくれる生徒を一人でも多く作って欲しいと思う。私はこのことを今日の職員会議でも全教職員に伝えたのである。

