2011年10月5日水曜日

23年10月5日(水)教育の思想哲学を深めよ

・ 文部科学省を中心として日本全国各自治体に張り巡らされた教員委員会という教育行政組織の血管と、又それに並行して走っているリンパ腺のような教職員団体は一見対峙していると見えるが実は裏で談合し「貸し借り」と言う、実に日本的な「湿った関係」で教育施策が決定されその体制が戦後から今日まで続いている。
・ 私学といえどもほぼ100%公立準拠だし所管の都道府県知事は国準拠で私立学校を指導する。だから私立学校も大なり小なり公立と同じようなものとなる。私立学校は常に公立学校を意識し教育委員会を意識している。
・ しかしその関係は少なくともその時点における「課題解決という成果・効果」を生み出していたのも事実である。絵を描くキャンバスが白かっただけに何でも描けるスペースは十分にあった。即ち腹が空いていたから何でも取り込み消化できたのである。
・ 焦らずじっくりと煮豆を煮るように日本の教育システムは今日のスタイルに進化を遂げた。経済が右肩上がりに成長している内は両者の関係に何ら齟齬はなく、日本の教育システムは「国力の進展の源」として内からも外からも高く評価されてきたのである。
・ 真に持ってこの小さな島国、日本が敗戦後、ゼロからの出発で、世界を驚嘆せしめる経済発展を成し遂げたのはこの教育行政システムと教職員団体が連携した「前向き方針だけは維持した妥協談合の成果」であると私は考えている。

・ 高い組織率を誇り、教育の根源について日常において熱心に議論し、ベテラン教員が若手教員を鍛えるという構図はまさしく企業社会が有する先輩が後輩を厳しく鍛えると言うものに似通っていた。そこには常に教育哲学があり、教育思想があったのである。

・ しかしそれも高度経済成長が終わり昭和元禄時代をピークに下がり始めた。平成バブルの崩壊時に教育界は「教育の転換点」を認識しなければならなかった。しかし日本の完成された教育システムには最早「自己変革」する内部エネルギーは残っていなかった。

・ それは中央の組織も地方組織も組合組織も自らが作り上げてきた教育システムについて、余りにも完成度が高く成功体験に囚われ、10年間位の中長期的スパンでじっくりとゆっくりとでも良いから改革を進める判断も覚悟も出来なかった。

・ ソ連が崩壊し東西の冷戦が終わり新たな地球上の問題は貧困をキーワードの南北問題とテロとの戦い、世界規模の政治経済の大変革は我国も大きな影響を与えた。日本の政治経済はバブル崩壊以降20年間基本的に滞留し今や漂流し始めている。

・ 「格差社会」と分析はするが一向に戦後60年のリセットは行われず、旧態依然のシステムを保持している。持てる階級は既得権益を失う恐怖から「総論賛成、各論反対」となって結果的に現状システムの維持しか結論はなかったのである。

・ 同じことは教育界にも言える。戦後教育システムの見直しが「お茶を濁す」程度にしか行われず結果的に「教育を通じて国を変える」という、哲学思想が戦後の教育界が行ったようにはすでに今日では出来なくなっていたのである。

・ 全体に「思想を強化する内的マグマ」を失っていった。これは一体どうしてであろうか。私はこれこそは「教員の質」に起因していると考えている。特に教員は勉強しなくなっていった。朝学校に来て夜遅くまで学校に居残り仕事をしているがそれは最早肉体労働の提供であってそこには教育に関する哲学的思索などはなかったのではないか。

・ 敗戦後の教育界において「組合の教育研修活動」という練習試合は大きな成果があった。少なくとも戦後の復興は新しい教育の展開でと言うことで「教師を目指した教師」が深い教育理念を仲間内で議論し実践していった。当にそこには学校の教師と言うエリートとしての責務を果たしていたのである。「ノブレスオブリージュ」である。

・ しかしその後の教育界は第二世代の教員の時代になると哲学的訓練をまったくしなくなり、「論理の力で教育が今国の中でどのような位置にあるのか認識する哲学」を失ったのである。部活動の練習試合は増えたが教員の能力を高める練習試合は教育現場では完全に消失したのである。

・ それは教育現場で教師が教育論を戦わす場面の消失で証明できる。結局学校の教師の行き着く先は「教師としての能力の低下」を招いたのである。教師の能力低下は教育の課題に対応できなくなっていった。

・ 教育に関するディベートも討論会も出来なく「自己の世界・・ワールド」に閉じこもった「引きこもり教員の増大」は結果として「ナルシシズム(自己愛)」の病に罹ってしまった。生徒と一緒にピースサインなどする教師は少なくとも昔はいなかっただろう。

・ この自己愛に罹った教員の致命的なところは「自分以外には愛せない」ところであり、「自分の根源的な過ちを否定できない」のである。その前に気づかないのだろう。「教員の劣化」は自らが育ってきた小学校、中学校、高等学校の学校履歴から受けた損傷もある。それを引きずったままで今度はその人間が教壇に立つと言う悪い連鎖が日本教育界の問題なのである。

・ これは自覚症状のない慢性病である。特効薬などない。ここに教育の有する怖さがある。じわじわと肉体を滅ぼしていくがん細胞などよりも教育の病理が恐怖である。時間がかかって低下した教育力は何よりも大きな国家的損失である。

・ 「ゆとり教育」などはその典型である。そのゆとり教育の恩恵を受けた教員が今、学校の主役となって躍り出ているのだ。教員は所謂悪い人間ではない。企業人の方が余程「ワル」である。皆生徒のことを誠実に考えているのだが、結果として出てくる教員からの言動はコンピューターで言えばソフトに問題があっていくら正しいデータを入れても答えは間違って出てくると言うものである。

・ だから社会のエリートたる教師は自分の根源的な過ちを否定できない。「無意識に過ちを生じさせている」のである。無意識過失責任なのである。それは単なる偏差値エリート集団であってマニュアルを読み丸暗記は出来るだけの教科書人間だからなのである。

・ 「教師は人間学が極めて苦手」であり他者が何を考えているか、求めているか分からない。そして「教師は極端に怒られるのを嫌う」。企業社会における上司が部下を叱責する、時に灰皿が飛んでくるなどは日常茶飯事であるが学校社会では教師を叱る等は基本的に有り得ない光景だった。

・ 断言に近い感じで言いたいのだが教員は思想・哲学・言葉が貧困である。貧弱である。そして専門以外に本を読まない。そのうちに専門書も読むことはなくなる。他人を勉強しない。驚くほどボキャブラリーが貧弱な教員が本校にも存在する。

・ 元々能力を高める対外練習試合もなければ、修羅場そのものがないのだ。誰からも叱られることはなく自分を否定できない教員は「ジワーッ」と教育の劣化をもたらし、そのシャワーは生徒に降りかかっているのだ。

・ そしてこう言う社会と職場はある特定の集団を生み出すことになっていく。それは組織率が低くなったとは言え、強固な意志の高い組合教員、日和見の非組合教員、無気力教員、クラブ活動教員などの複合体がお互い干渉せず、支離滅裂な「ばらばらの自己愛だけに陥っている教員集団」を生み出して行くのだ。

・ 教育委員会からも組合からも厳しい縛りが無くなった社会は真に持って居心地の良い職場を生み出していった。そのような職場に何が起こったか。あまり教養の幅が広くなく正義感が強いだけの教員を生み出すことに繋がり、典型的な例は卒業式の国旗掲揚国歌斉唱反対などを叫ぶアジテーター教員である。さも二・二六事件みたいな血気にはやる教員を生み出す土壌になって行った。

・ こういう教師に何を言っても無駄である。ソフトが間違っているし、自己否定が出来ない人間に何を言っても無駄なのである。教師に幾ら「態度が悪い」とか「傲岸不遜」だとか言っても彼らは痛くもかゆくも無い。そういう社会や人々を「せせら笑う」だけである。

・ 彼らを働かせる要諦は簡単である。「お前、頭悪いのとちゃうか、勉強足りないのとちゃうか?」とだけ言えば良い。その言葉で彼らは簡単に崩れる。わいせつ行為で新聞をにぎわす教員も心の病に落ち入る教員も基本的に教育の思想哲学を有していないことで説明が出来ると私は思っている。