2011年6月8日水曜日

23年6月8日(水)部活動が元気だ!








・ 「月間空手道」という専門誌がある。中々品格の高い空手道に関する日本でのトップ専門誌である。「浪速武道館」の完成を取材され大いに感激された編集長の水口氏は私に電話インタビューを申し込んで来られた。

・ 私は今基本的にどのマスコミやメディアからの取材をお受けしないようにしているのだが、この編集長の高揚した「武道館賛歌」に嬉しくなった私はインタビューをお受けした。それが記事になって本になった。何と7月号は「浪速特集」となっているのだ。

・ まさかここまで書いて頂けるとは思ってもいなかったので感激である。まず表紙が素晴らしい。見出しは「浪速躍進」で写真は本校の監督今井謙一教諭が「蹴り」を入れているものである。この先生はとにかく「絵になる男」だ。

・ 120ページの雑誌で本校関連の記事が30ページだからもうこれは本校の雑誌である。私のインタビュー記事も正確に記述していただいていた。まず見出しが気に入った。「文武両道、品格ある浪速武道館を建設」とあった。この品格と言う言葉を使って貰っているのが何よりの嬉しさである。

・ 何と編集長は独自に調査されたのか私の経歴まで触れていただいている。もう「遠い昔」のような気でいたが私が教育界に転じて以来を正確に書いていただいており「恥ずかしながら」再掲して記録に残しておきたいと思った。

・ 続く見出しの文章は以下のようなものであった。“浪速高校の強さを支える一人の人物がいる。大阪府立高等学校の初めての民間人校長として高津高等学校に4年間勤務。30年余の民間企業で培った手法で大幅な現役の国公立大学合格者を輩出させた木村智彦氏である。浪速中学校・高等学校の理事長・校長として改革を推し進め、わずか4年で急速に同校に対するイメージ、外部評価を一変させた。その木村氏に浪速改革第三章の象徴として建設された浪速武道館についてお話を聞いた。”

・ この専門誌が発刊されて1週間後の6月5日に大きな大会があって「空手道部が優勝」した。大阪府高等学校空手道春季大会である。この大会はインターハイ大阪府予選をかねており、これで本校は団体組み手で夏に青森県で行われる全国大会に「大阪代表」で出場できることになった。

・ 惜しくも昨年は惜敗したがライバル校に雪辱を果たした。何より嬉しいのは「浪速武道館」が完成した年に大阪チャンピオンになったことである。「よくやってくれた。」と私は監督と選手を「激賞」した。
・ この間の今井監督の心中を思うと大変だったのではないか。武道館は作って貰った、雑誌にはこのように紹介された。これでインターハイに出場出来なかったらと相当なプレシャーが有った筈だ。しかし彼は結果を出したのである。
・ この「結果を出す」と言うことが素晴らしい。「結果を出してこそスポーツの監督」である。プロ野球でもサッカーでもアマチュアでも同じことである。「監督と言うのは結果勝負」である。学校の教職員も全く同じであって「プロの職業人たるものの宿命」である。「一生懸命頑張ったが運が悪かった」などは言わぬほうが良い。「恥の上塗り」である。少なくともスポーツの監督と学校の校長は「言い訳」はしないほうが良い。
・ 結局今井監督というのは「人柄」だ。生徒や保護者からの信頼は尋常ではない。人柄が良いから斯界の先輩を含めて多くの人に好かれる。それだからこそ「隠忍自重」しなければならない。「謙虚」でなければならない。
・ 私は将来の「日本の空手道の最高指導者」になる人材と見ているだけに厳しいのである。「男の嫉妬」ほど恐ろしいものはない。これから彼は色々と苦労するだろう。それだけに50歳までは「控えめに控えめに」と言っているのだ。そうすれば人が推してくれる。
・私は過日朝学校に出て来るのが遅いので厳しく指弾した。勿論悔しさをばねに頑張ってくれたのだろうが私にとってはかけがえのない教諭である。今後とも精進して頑張って欲しい。この「精進」ということが大切である。

 ・ 「弓道部」も同じく個人戦で優勝、準優勝しこれまた「大阪代表でインターハイ出場」が決まった。この監督も素晴らしい。今回は団体戦では後一歩で優勝を逃したが「捲土重来」を期して欲しい。
・ 正直ここ数ヶ月弓道部内ががたがたしていたことは事実だ。それだけに弓道部も必死だったと思う。浪速武道館の一角を大きく占有し今や大評判となっている「玄武館」を持つクラブである。強豪は多いが頑張って欲しいと思う。必ずやってくれるだろう。


・ しかし私は「中学校がテニス大会で優勝」したことが殊の外嬉しい。ここまで強くなっているとは信じられなかった。「大阪市中学校春季総合体育大会」において並み居る私立・公立の中学校を倒して栄冠を勝ち取ったのだからすごい。本格的創部4年目の快挙である。
・ 最も昔は中学生が居なかったのだから仕方がないが決勝戦で大阪教育大学付属天王寺中学を「3対2」で下したのだから立派である。私は規約の「校長特別」の枠を使って過日昼休み激励と報奨金を渡したのである。


・ 特別強化クラブと位置づけている「茶道部」の新入部員が大体固まってきた。まだ様子見の生徒も居るらしいのだが私は本日「袱紗手渡し式」を行った。男子がたったの一名だったのが残念だが女生徒は12名も数えた。
・ しかしこれで50名を超える大きな部となった。指導する外部の先生も3人では間に合わないので顧問の先生を呼んで「2ないし3人増やしたら」とアドバイスした。生徒は一生懸命に習って「水屋作業」も始めているらしい。

・ これで女生徒主体の部が「吹奏楽部、雅楽部、それに茶道部」となった。今度の私のターゲットは二つある。一つには「ダンス部」だ。女生徒向けに今日的ダンス部を勧めている。ようやくクラブが発足した。これからだがどのような支援が必要か今考えている段階である。
・ もう一つは「合唱部の創設」である。これは是非ともやりたい。「歌声のこだまする学校」にしたいのである。生徒の歌声が聞こえる学校は間違いなく良い学校である。生徒生活指導面からも効果が大きい。
・ 昨年から本校は芸術分野に従来の美術だけではなくて「音楽教育」も入れた。今年は2年目である。私は過日音楽科の先生と議論を行い私の思いを伝えた。それで本日検討結果の報告を受けた。
・ まず提案は「校内合唱コンクールの企画」であった。土壌を作ろうというのである。その後まず「合唱同好会」から始め、最後に「合唱部」に格上げするという手順である。並行して「外部合唱コンクール」に出ると言う筋書きである。
・ 中々考えてくれており私は案を了とした。「何事もやってみなはれ」が私の考えである。第一線の先生が考えてくれた案だからまずその案を認める。そして途中で軌道修正もあるだろう。それで良いのだ。まず一歩踏み出すことが重要である。

・ 本年度第一回の公道クリーン作戦が始まった。まず第一回目はこの時機だ。自分たちがこの日常お世話になっている駅近くから学校までの道を数箇所に分けて「ごみ拾い」を生徒がしてくれるのである。
・ 始めて3年目になった。主体は自治会、インターアクトクラブに特定のクラブが参加し大体生徒は100名規模である。徐々にこういう行為が高校生を変化させていく。本校の「奉仕委員会」が主体なのだが様々だ。それで良い。実践あるのみ。理屈は後から付いてくる。


2011年6月7日火曜日

23年6月7日(火)浪速ふくろうスタジアムのネット



・ 平成22年6月19日に「浪速ふくろうスタジアム」は完成した。ここをメインに使う運動系指導教官とクラブの生徒は大変喜んで使ってくれている。保護者からも高い評価を頂いた。このような施設は「土地が見つかったら」トップが「一気呵成」に進まないと出来るものではない。

・ 「教員と生徒が自分の学校に誇り」を持つことが出来ることの教育的効果は無視できない。例えスポーツをしない生徒でも「うちの学校には大きな校外グラウンドがある」のは嬉しいものだ。

・ 今までは「肩身の狭い」思いもあったろうが、完成後はプライドを持って練習にも身が入ろう。他校を招待して練習試合をするにも今後は気恥ずかしい気もしないだろう。胸を張ってご招待できるはずだ。他校からの評判が良いと聞いて私は嬉しい。

・ 経営者はこういうことの重要性に「敏感」でなければならない。着任以来狭い本校のグラウンドを運動クラブが取り合っているのを見て私は絶対に校外に大きな総合運動場を作ると決めた。そして実現したのである。

・ 「多聞尚学館」「浪速ふくろうスタジアム」「浪速武道館」の3施設に約10億円のお金を遣った。資金の一部を銀行ローンを受けての投資だったが「軽く元は取れている」という実感だ。

・ 借金しても、返済しながら手元資金も貯まりつつあるという状況だから全く心配はない。それもこれも教職員が理事長に付いて来てくれ、一生懸命に「働いてくれた」からである。この「額に汗して働くという感覚が重要だ。恐らく今までの教職員には「学校で教えるということ」が「働く」と言う風には感覚的に結びついていなかったのではないか。

・ 私は職員会議でよく教職員に言うのだが「御堂筋を歩いていても」お金は落ちてはない。「お金は自分たちで稼がねばならない」と。昔苦しかった時代の資料を読んだりすると「神社界の学校だからどこかの神社を一つ売って金を作り教職員に支払え、賞与の削減は絶対反対」などと理事長に迫ったとあったがトンでもない話だ。

・ 今やこういう「ばか者」もいなくなった。宗教法人の仕組みも何も分かっておらず「自分たちの金は一銭たりとも減らさない。金が要るなら理事会が作って来い」というのだから「空いた口が塞がらない」とはこういうことだ。

・ ふくろうスタジアムで気になることが一つあった。それは選手が打ったボールがネットを飛び越えることである。第一号は昨年11月23日私がPTAから寄贈を受けた学校車が被害にあった。

・ バスや来客用の駐車場は右翼側にあるのだがそこには危険を予知して通常の学校では使わない20メートル高さのネットを張った。普通は14メートルである。これだと市販品で安価なのだが20メートルは特注品で高く付くのであるが私は仕方がないと判断した。

・ ところが私の車にボールが「ドスン」と落ちて天井の一部が凹んだのである。直すのに何十万もすると言うから直さないでそのままにしている。ところが左翼側にある某会社の駐車場があるのだがそこにもボールが飛んで行って従業員さんの車を直撃した。

・ この会社の作業場は将来本校が買収する積りであるし大体そのような話になっているのだが、そこに停めている車の凹みは直さないと言うわけには行かないから保険を使って直したのである。

・ ここで私はネットを拡張して対策を取った。しかしこれが結果的に「甘かった」のである。事務の担当も反省しなければならない。拡張の幅を「妥協」したからこの問題は後を引いたのである。

・ 事務の担当は貴重なお金だから無駄にならないように「現場と対峙」しなければならない。現場の言うことをそのまま聞いてしまうとこのようなことになる。間に立つのは私だ。ところがこの学校は教員と校長が対峙して事務が間に入ると言う「奇妙な構図」の学校なのである。

・ ところがまたまたその駐車場の車の被害は起きたのである。野球場が完成してこれで3回も車を直撃して被害を与えたのである。先の対策が全く効果がなかったのである。確かにこの頭上ネットは余り「格好良いものではない」。なければないほうが良いのだが田舎の山の中に有る学校以外では殆ど全ての学校がしている。

・ 野球部の監督からすれば「無い方が野球は面白い」と言うのは当たり前である。又ファウルを捕球できるかどうかがは試合を決定つけるのも事実だ。しかしファウルが外に出て外部の方にご迷惑をかけたら意味はない。車だから良いけれどもこれが人だったらどうするのか。

・ 監督は言ったそうだ。もしネットを大きく拡張したら、場合によっては「ホームラン」級の辺りもネットに当たってファウルになりかねない。確かにらこの「ネットの張り方は難しい」のである。「ウーン」と思いながら私はこの件を数ヶ月の間放置していた。

・ ところがだ。過日またまたファウルボールが飛び越えてバックネット裏側の道路に飛んで行ったという。聞いてみるとその後も頻繁にあったらしい。運よく今までは車に当たらなかっただけらしいのだ。今回は「白い神戸ナンバーのベンツ高級車」の前3メートルのところに落ちたと言う。

・ 私はこの光景を見ていた保護者から直接聞いた。そのお方は顔色が変わったという。もし当たっておれば「大変なことでしたよ、校長先生。若し当たったら、相手はベンツですよ。」と言われるのだ。確かに今までふくろうスタジアムに隣接しているゴルフ場には白い神戸ナンバーのベンツに乗るような人がメンバーさんに多いとは聞いていたがまさか現実になるとは思いもしなかったのである。

・ 私は即刻決断した。「頭上のネットを拡張せよ」と。ところがこれからが神経戦である。野球部の監督は私の原案に対して「あれでは野球にならない。もっと狭めて欲しい」と担当に言っているとの話は耳に聞いてはいた。

・ 紆余曲折はあって私は基本的に優しい人間だから、野球をやるのは監督だと考え、彼の言い分を聞き入れた。しかしそれで球が外へ飛び出たら「元も子もない」のであって原子力安全保安院の斑目委員長ではないが「私はなんだったの?」になりかねない。

・ ネットが完成し初めての練習試合があるというので私はこの6月4日の土曜日にふくろうスタジアムに様子を見に出かけたのであるが、結果的に私が観戦している間に3つのファウルがそのネットに当たってグランド内に落ちてきた。

・ 翌朝監督に確認するとその後は一球も外に出ず、ホームランが5本も出たと言うから新しいネットの効果は一応確認された。私は今「ホッと」しているのである。今後はファウルを打つほうが悪い、ファウルを打たないような打撃コーチをすべきと言ってやろうと思っている。

・ これでほぼほぼ浪速ふくろうスタジアムの問題点は解決したかなという感じだ。後は自動販売機の「泥棒」だがこれは今「必殺仕掛け人」として「策」を巡らせている。絶対に泥棒さんを捕まえてやる積りだ。「待っておれ、泥棒」。


2011年6月6日月曜日

23年6月6日(月)「里道」






・ この年になっても知らないことは多い。当たり前だと言えば当たり前の話で、世の中には実に様々なことがある。人間誰しも死ぬ段になっても、個人が一生かけて得た知識や体験は「ほんの氷山の一角」である。そのように思えば人間は謙虚になれる。

・ 私みたいに「好奇心の塊」で、自分でいうのも何だが「勉強家」と自負していても、得てきた知識など勉強不熱心な人と比べても、大きな差異はない。それくらい世の中の地球上の「まだ知らない事の多さ」はあるのである。違いの差は「五十歩百歩」であり、「目くそ鼻くそを笑う」だから人は謙虚で「一生勉強し続ける」ことが重要だ。

・ 最近「里道(りどう)」という言葉を知った。最初は「田舎の里にある道」くらいにしか思わなかったが、これが結構複雑なのである。最初は千早赤阪村の村長さんからの一本の電話であった。

・ 村長のお話は「理事長、里道を整理せなあきまへんのや」というものであった。本校の多聞尚学館の土地と旧多聞小学校の校舎は平成20年に千早赤阪村当局のご理解で買収できた。現在このブログでも発信しているように「これ以上ないくらいに活用している最重要な本校付属の建物」である。

・ 後日村からご担当が来て詳細な話になるのだが要は我々が「買った土地に里道と水路」が残っているからそれを「買い取るか、土地代を支払え」という申し出であった。ここで私の顔色は変わる。

・ 法的に定義すれば里道とは「道路法の適用のない法廷外公共物である道路」のことである。公図上で赤色で着色されているから「赤線」「赤道」と言うらしい。赤線とは昔の「遊郭」で何か混乱しそうな表現である。

・ 歴史は古く明治9年の太政官布告で道路は国道・県道・里道の3種類に分けられたが歴史的変遷を経てきて2005年1月1日に所有権が国から市町村に無償移譲されたのであるが、多聞尚学館の土地も売買時に、登記上それを放置し当局は我々に売り本校はそれを買ったのである。

・ 小さな路地、あぜ道、山道(林道、けもの道)などであるがグラウンドや校舎の建っている部分に里道と水路道があるのである。購入後3年も経って今頃「何を言うか」という思いであるがどうも「村議会」で議論になってきていると言う。

・ 困惑した当局はおそるおそる、「何とかなりまへんか」と来たものだが我々の立場は「なんともなりまへん」しかない。31日の理事会でもこの話題を出したが「ほっといたらエエ」と言う感じであった。神社の敷地などにも里道が残っているらしい。

・ まあしかし友好関係が続いている千早赤阪村の要望でもあるから過日私は担当を引き連れて村役場に赴き村長に「我々の立場と意向」を正式に文書でお伝えした。こういう場合は必ず「文書」が重要である。

・ 特に行政当局との話し合いは後で「言った、言わない」となっては困るから「何時、誰から誰へ、何のタイトルでどのような内容」の文章を出したかが重要なのである。話はそれるが、それにしても民主党の前総理と現総理との間で交わされた「覚書」なるものが今大騒ぎになっているが、あれは信じられないくらいの無茶苦茶に程度の低い文書である。

・ 恐らく今頃私の出した文書は村の行政当局の担当者に回って検討されているだろう。場合によっては議会の村議会議員にもコピーが回っているかも知れない。私は村長に申し上げた。「何時でも村議会に参考人として出てしゃべりますよ」と。

・ マアそのうちに何らかの動きが出てくるだろう。それにしても「身勝手な話」である。鳩山総理は管総理を「ペテン師」と言っているが私はそのような言葉は使わない。しかし「一件落着」と思っていたら、米粒みたいな小さな土地を残しておいて後で「買え」とはないだろう。我々は村当局の要望を入れてそのまま残しておいたものだ。

・ 「村の人が通るから残しておいて」と頼まれたから残したもので元来は「法的にも無理筋」なものだ。其れを今更何をと思う。村当局の責任で登記変更するのが筋だ。金額は微々たるものだから問題ではないのだが信頼関係にヒビが入る。
・里道に敷地境界などの看板を立てたら、我々は村の住民にすべての施設を開放して使って貰っているグラウンドも校舎も今後は貸し出しを考え直さなければならなくなるだろう。


・ 4日の土曜日に高校3年生の英語特別講座で頑張ってくれていた教師と生徒を激励に多聞尚学館に赴いた。何と行く途中「黒い煙」がもくもくと上がると同時に一挙に立ち上る火炎」を私は見た。

・ 多聞への道はくねくねと上り道なのだがその途中、当に「燃え盛る」感じで、私は思わず車を停めて写真を撮った。3年間通い詰めた道だが初めての経験であった。要は「火事」なのである。何が燃えているのか遠いから分からなかった。

・ 民家ではなかったような気がする。多聞からの帰りにはおさまっていたから大したことはなかったのかも知れない。本校と千早赤阪村当局との間にこのような炎が燃え盛るようなことになってはいけない。最後は「大人の判断」が必要かも知れない。

・ 多聞では二人の教師が頑張ってくれていた。有り難いことである。土曜日の午後と日曜日をつぶしてまで生徒のために頑張ってくれている先生には頭が下がる思いだ。この気持ちは開館以来変わってはいない。だから私は極力多聞で講座が開設されている時は「激励訪問」をする。これは私の日課である。今後とも続ける。

・ そして行った時に「設備を点検」するのも私の役目である。元々極めて少人数の小学校だからトイレなども小さいものであった。それを便器だけは大きいものに変えたが配管などはそのままである。

・ そこに120名もの高校生が大挙していくのだから使用頻度などは小学生とは比べ物にはならない。トイレの臭いは大丈夫かなど「神経質な私」には気になってならないのである。

・ 又風呂は大丈夫かなどと生徒や教員の「使い勝手」も気になるのである。言ってみれば私は「大家さん」である。大家は店子が気持ちよく使えるように設備を万全に保守しておかねばならない。私立学校法が定めるところである。施設設備管理は理事長に責任があるのだ。

・ 今回も女生徒の風呂の脱衣場の天井に「黒かび」が生えているとの報告があった。早速観察したがこれでは女生徒は気持ち悪がるだろう。前にも発生したところで間違いなく「雨漏れ」だろう。

・ 早速帰ってトイレの脱臭対策と雨漏れ対策を徹底するように担当に指示を出したのである。ちょこちょこと補修場所は出てくるが、それは老朽化してきているからだ。仕方がない。自分の家でも古くなってきたらあちこち「ガタ」がくる。多聞尚学館で得ている効果からすればこれらの補修コストは微々たるものだ。

・ 私は今考えている。10年後くらいに「多聞の全面更新」くらい考えても良いのではないか。まず本校の新校舎建設が先、その後多聞の男子宿舎、そして多聞の教室の全面的更新が順番である。多聞の食堂のレイアウトも新しく考えたい。

・ 山々の緑が眼前に広がる最高の場所に食堂を持ってくるのだ。全面ガラスである。美味い料理と素晴らしい環境は生徒の頭も少しは良くするかも知れない。私は思う。健康に留意して「私の手でやってやりたい」と。


2011年6月4日土曜日

23年6月4日(土)橋下劇場



・ 「橋下旋風吹き荒れる」というと失礼だからこういう表現は使わない方が良い。私なども知事とは比べものにならないが時々「木村旋風」などと言われることがある。不快である。人は自分では何も出来ないクセに周辺に風を巻き起こして物事を改革したり進めていく人を様々に表現する。

・ しかし大体どの言葉も「誉め言葉」とは思えない。そこには「やっかみ」「嫉妬」「半身の評論家風気取り」の感じで「自分はちと違う」と脇において相手を見ている人間がそこにいるのだ。

・ 出来ない奴は「黙って、静かに」とでもいうと又「独裁」だとか「言論封鎖」「言論弾圧」とかすぐ言う。戦後、民主主義の名の下にこのような「口先だけの人間」を増長させ、のさばらせてきたから日本はこのような国になったと言えば又直ぐ猛烈な反論が出て来る。

・ しかし日本は本当に自由な国になった。何でも自由だ。しかし私は自由と言う言葉は使いたくない。だらしない、締りのなくなっったということだ。自国の国旗を軽蔑し国歌を無視するようなことが最も大切な教育現場で放置されて来てもそれは「内心の自由」と許されてきた。
・最近では小学生でも「個人の自由でしょ」と簡単にいう時代である。実は自由と言うことはものすごい責任と他への配慮が必要ということが分かっていないのである。卒業式で据わったままの教員はそのような行為が生徒や保護者にどのような印象を与えるかなどの考えはないのだ。あくまで「個人の自由でしょ」なのである。
・ 橋下さんは「公務員には自由などない」と明言した古今東西初めての首長ではないか。「国旗国歌が嫌いだったら辞職せよ」とはっきり堂々と述べた最初の知事ではないか。極めて論理が通っており明快である。

・ 知事は教育委員会が問題だから現場がこうなってしまった。ここ10年今だに大阪では起立しない教員が居るではないか。そういった奴は首にしろと言っているのである。「教育委員会にはマネージメントがない」とはっきり述べられた。
 ・ 本当に橋下知事はすごいことをやってしまった。今朝の全国紙は管総理の退陣問題など吹っ飛ばして全国紙に一面トップ記事の扱いである。完全に橋下知事は「全国区」になった。私は将来「橋下総理誕生」の機運が大きく出てくると想像している。

・ 今の中央政界の出鱈目さを矯正するにはこのような人物を中央に送り込むしかないのではないか。その場合は間違いなく現在の「議会制民主主義」では駄目だ。内閣の総理大臣は「国民投票」で選出する「大統領的総理」でなければ改革は進まない。

・ 若し知事が議会人であったら絶対にこうはいかない。絶対に「守旧派」からつぶされていただろう。知事の唯一の基盤は「府民の圧倒的な支持」である。常にこれを意識して府政を進めている。そこには既存組織の利害得失などは眼中にないのだ。

・ 橋下さんはそのことを知っており、何時も口癖のように「最後は府民が選挙で決着を付ける」と発言されている。新聞を良く読む人は気づいていると思うが最近盛んに「総理は国民の直接投票」で選ぶべきと叫んでおられる。

・ 恐らく大阪市長選の出馬、将来の国政進出、あらゆる将来の可能性を意識無意識別にして頭に何かが去来しているのではないか。この男の政治的勘とセンスは素晴らしい。日本の戦後65年で現在の政治システムは完全に行き詰った現実がある。

・ 我々は、毎日中央政府の「ふざけた政争ごっこ」を見せられている。自民党から民主党に政権交代したが大きく民主党は期待を裏切りそれは幻滅にちかいものになった。今や中央政界はまるで「脳死状態人間の集まり」みたいに機能不全に陥っている。
・ 遂に「卒業式における教職員の国旗国歌斉唱時の起立」が最も身近な法律である「条令」となった。御堂筋を喫煙しながら歩くと1000円の罰金と同じような条例になったのである。知事は秋の府議会では「罰則条例」も上程すると言われている。ひょっとしたら本当にやるかも知れない。

・ 橋下知事は第一期で府知事を辞めて市長選に出るかもしれないとマスコミには出ているが、いずれにしても「教育問題が今後の日本の最重要課題」と捉えている「センスと勘」はすごい。新聞記事も「教育で主導権」を握ろうとしていると良い点を突いていた。

・ その教育問題の底流に流れる腐臭を放っているへどろみたいな問題がこの国旗国歌問題だ。そこを「ぱちん」と掴みとっている感覚がすごいのである。知事が戦後60年教育現場で続いてきた「子どもを戦場にやるな」とのスローガンの影にある「腐臭を放つ教員」の実態をそれほどご存知とは思えないが、それでも短期間でここまでやる実行力の源は政治的勘である。

・ 知事は元々「くそ教育委員会」と言い放ったように元々教育現場を信頼はしていない。それは今でもだ。こう言うタイプは一度受けたイメージは簡単には変えない。「しつこい」のである。私も同様にしつこい。しつこくなかったら政治や改革など出来るはずがない。

・ そこに教育公務員として甘えた公立学校の教員が現場で好きなように振る舞い校長の存在を意識せず、又それに対して適切な「マネージメント」の取れない教員委員会を知事は批判してきたのである。そして府議会の多数を握った。そして進軍マーチの「ファンファーレ」を国旗国歌問題としたのである。

・ 知事の使ったマネージメントと言う言葉が大切だ。もともと学校現場には「マネージメント」という概念はない。どちらかというとマネージメントに敵対する概念で運営されてきた。「全員が民主的に一票を行使して学校の意思を決める」と言うものである。

・ この概念は間違いなく「赤信号皆で渡れば怖くない」現象を生み出す。校長などは「鍋蓋のつまみ」で居ても居なくても学校は回っていたのである。「校長の職務命令」などの言葉は「ついぞ最近出てきた言葉」でこういう言葉を使うことさえはばかられるのが教育現場の実態であった。

・ 教育委員会は「行政系」と「指導系」の二つの機軸があるが最近では行政系が圧倒的にその存在意義と政治的パワーを有している。指導系、即ち教員系は現場の実態を知ってはいるが「そこは身内意識」もあって教育現場をかばいたい性向は少なからずある。

・ 行政系のトップは「回転椅子」に座っている様なものでキャリアパスの椅子の一つだから「騒ぎなし、平穏無事」を願うことになる。それに指令は指導系を通じ成されるから指導系職員の顔も考えてやらねばならない。

・ 社会の人は教育委員会と一まとめにして言うが実態は行政系のキャリア、行政系のテクノクラート、指導系と3部門があるのである。知事の目には「言うことを聞かない府教委」と写っているのだろうが、そう簡単に知事の意向に従うような甘い構造ではない。

・ そこに教職員団体と人権団体、それに政令都市の教育委員会、衛星都市の教育委員会が絡んでくるから私に言わせれば一種「伏魔殿」みたいなもので知事が一声「ゴー!」と号令を出しても「イエス、サー」とはいかないのが今の教育システムである。

・ だから今回の大阪府の条例化の動きが「全国に波及」していくかとなれば絶対にそうはならないであろう。まず他の都道府県知事は「2番煎じ」を嫌がると言う人間的な理由がそこにある。

・ 又教育委員会と教職員団体のパワーバランスが大きく効いてくる。それに最大の問題は「バッチ組」と言われる議員先生である。「まあ、そこまでしなくともいいんじゃないか」と大体鷹揚に構えて「寛大な幅の広いところ」を示すのが大好きなのが議員の先生である。

・ 今回は橋下と言う類稀なる勘と資質を有するリーダーが率いる「大阪維新の会」という政党があったからこそ出来た条例化である。これが他府県に広がるはずもない。ただ今回の一連の報道で未だに学校現場には未だにこのような「しょうもない騒動」があるということと「一向に直らない原理主義者みたない教員」が幅を利かせている現実を再認識させたことだけは間違いなさそうである。そういう意味で橋下知事の成功であった。
・ しかし驚いたのは夕刊である。各紙詳細報じているが何と深夜の議会で他会派欠席で府議会定数を109から一挙に88まで落としたのである。さすがにこれには驚いた。過去例がない「大量の議員の首切り」であった。「議会改革」に手を入れ始めたのである。

・ こういうことが出来るのがこの男の力なのである。府会の議員の首を取って怒る府民はいない。むしろ「拍手喝采」だと思う。大阪市議会議員、堺市議会議員、恐れおののいて震えているかも知れない。橋下徹、遂に大阪市をとりに行ったのである。中央政界の政治ドラマも面白いが大阪の橋下劇場も目が離せなくなってきた。


2011年6月3日金曜日

23年6月3日(金)本校の歴史その13「卒業アルバム」

旧制浪速中学校の記念帖(卒業アルバム)に添付されている学年史

旧制浪速中学校第一期生の記念帖

今の卒業アルバム
大きくて重くて仕方が無い

クラス単位の集合写真


卒業時の個人写真


写真の上にある薄い紙で個人の名前が書かれている

教職員集合写真

昭和3年の第一号を造った山崎写真館

昭和5年の第3号から今日まで長い関係の片山写真館
製作のアルバム
・ 今私が創立時の状況を知ることが出来るのは当時の「卒業アルバム」からである。私は今回本校の歴史を整理していく作業の中で「卒業アルバムの重要性」を今更ながら認識した。正直今までは自分の母校の卒業アルバムを大切にしてきたとは言えないから大いに反省している。

・ 最も卒業アルバムは定期刊行物ではないから手元において常時みるようなものではない。しかし加齢と共にアルバムの重要性は増してくるように感じている。漢方薬みたいなもので後でじわじわ効いてくる薬のようなものだ。

・ それにしても本校の昔のアルバムは大変良く出来ている。今でも燦然と輝いている。特に素晴らしいのは「教育課程」と「学年史」が添付されていることだ。これを何十年後に見ることで卒業生は「昔を生々しく」思い出すことが出来る。

・ アルバムを単に「写真集」に終わらせていないことが立派だと思う。今や殆どの学校では卒業アルバムは写真集で終わっている。卒業生にとって入学から卒業までの主だった「学校行事」や自分が習った「教育課程」があればどれほど役に立つであろうか。

・ 学校行事や教育課程が添付されているということは「学校が大きく関与」しているからである。アルバムを最終的に纏めて製本化するのは「写真館」さんであるが材料は学校が提供しなければ立派なアルバムが出来る筈もない。

・ それにしても「生徒の品格」を感じるのは一人ひとりの卒業時の「顔写真」である。「楕円形」にくりぬいているから、ムードもある。真四角な写真ではない。是非楕円形に戻したいと思っている。確かに昔のアルバムの写真はどれもこれもこのような品格があった写真だった。

・ 私は今のアルバムを取り出して比較してみた。しかし正直言って重たいだけで、昔に比べて必ずしも立派とは言えないと思った。昔はB5番で大きさが適当である。これに対して現在のものはA4サイズより大きい。規格外である。

・ おまけに箱入と来ているから通常の書棚や本棚に納まらないのが辛い。今や「国際標準はA4版」になっているからこれだけは変えなければならない。又紙の厚さも厚すぎる。だから重たい。

・ 私は保健室にある体重計で秘書さんに測ってもらったのだが何と1.95キロもある。昔のものは0.65キロだった。今の高校1年生みたいに生徒数が16クラス670名と増えてくるとますます厚くなってくる。

・ この厚さでは体が熱くなるだけだ。車でも何でも「軽量化の時代」に本校のアルバムは時代に逆行している。それは余りにも多い生徒のピースサインの写真の多さだ。絶対に賢くは見えない。何か「写真週刊誌」か「アイドルのグラビア」みたいに感じる。

・ 「ピースサイン」で笑っているばかりの写真を本紙からは少し減らして、それらは「DVD」に入れたらどうだ。DVDだったら今よりも多くの「動画やピース静止像」が入れられるのではないか。

・ この「DVD添付」については1昨年から私が言い始め昨年度から始めた。良い方向にはなってきているから後一歩の改善である。私は過日アルバム製作委員にお願いした。来年卒業する生徒から「根本的に見直すように」と。まずサイズはA4にし用紙ももう少し「薄手」のものにして「軽くしなさい」と指示したのである。

・ 校長以下の写真はもっと小さくて良い。今みたいに管理職の写真をそれぞれ大きく載せる必要はない。管理職の集合写真で良いのではないか。そしてやはり「教職員の集合写真は必要」と感じる。これがないような写真は卒業アルバムではなかろう。

・ 「クラス単位の集合写真も必須」である。担任を中心に生徒が揃って写るのが卒業アルバムである。重要な点は学年進行で担任が変わって行くから学年単位で欲しいと思う。少なくとも入学時の1年生の時と卒業時の3年生の時は必要である。

・ 「伊勢修養学舎」に行った時にはクラス単位で写真を撮っておりこれを使えばよいではないか。加えて、陸上競技大会が何時あったとか、生駒山に登ったとか、「山之辺の道」を歩いたとか簡単な年表は絶対である。

・ それらが添付されていないのは「教員の怠慢」であると言われても仕方がなかろう。アルバムは業者さんが作るのではない。生徒が作るものでもない。校長が入学を許可し教育し3年後に卒業を認めたものに「記念に渡す記念品」がアルバムである。だから「卒業アルバムは校長即ち学校が作成」するものである。

・ だから保護者から「アルバム作成代」を学校が頂いているのである。そうでありながら今の教職員の役割は「撮影の日程調整」と「教職員の顔と名前のチェック」だけになっていないか。要は写真屋さんに「丸投げ」になっているのである。これではいけない。

・ 私は高校教頭とアルバム担当教員に「原点に帰れ」と言った。中学校にも校長指示を伝えるように言った。中身のある10年、20年、30年後に役に立つアルバムを作って欲しいとお願いしたのである。珍しく先生方もお顔には「同意」の様子が見て取れた。これは嬉しかった。

・ 教員の仕事は確かに忙しい。だから放っておくと外部に「丸投げ」の状態についついなるものだ。しかし「手作り」の感覚は「生きたもの」になり生徒にも喜ばれる筈だ。大体「3年間手塩にかけて育て送り出す教え子への記念品」だからそれくらいは手を入れても罰は当たるまいにと思う。

・ 生徒の個人写真も卒業前の「りりしい写真」一枚あれば良いと言う考えもある。「Vサインやピースサイン」の写真も多く写っている生徒とたまたま写っていない生徒との差も出てこよう。昔はこのような写真は一枚もない。60歳を超えてこのような写真を見て嬉しくなるだろうか。

・ 私はこの素晴らしい卒業アルバムを作って頂いた写真館についてアルバムの末尾を参照した。第1号昭和3年発行の一期生アルバムの作成は「山崎写真館さん」とあった。ところが昭和4年第2号のアルバムでは製作会社の名前が無かったのである。

・ そして昭和5年卒業生のための第3号からは「片山写真館さん」とあった。この会社が現在まで続く本校専属の写真館さんなのである。今となってはどうでも良いことであるが第2号の時点で写真館が変わった何らかの理由があったと想像することが出来る。
・ 現在の片山写真館のご当代の尊祖父は旧依羅村の有力者で本校誘致に大きな貢献が会ったお方とは聞いていた。その伝統を引き継ぎ「良い仕事」をしてくれている片山写真館さんとタイアップして「原点に立ち戻って」良いアルバムを作って行きたいのである。


2011年6月2日木曜日

23年6月2日(木)本校の歴史その12「開校記念日」


・ 私は今大変忙しい。それは通常の執務以外に90年前の本校の設立時代のことを勉強しているからである。あっちの資料を読んだり写真を探したり大変だ。どうも図書室を移動させた時にばらばらになっている可能性もある。

・ 教務部長が何処からか貴重な資料を持ってきてくれたのが大変助かっているが、このような大切なものが何故印刷場のロッカーに有ったのだろうか。今は私が個人で管理している。紛失しては大変だからである。

・ 前にも書いたが来年度には「90年史」の編纂に入りたいと思っている。そのためにはまず自分自身が「本校の歴史」を知らなければならない。いい加減な周年誌を作る積りはない。

・ 「校舎を全面的に建て直す」のであるからこの「建設の状況」も記録に残さねばならない。50年、60年後の人々がこの周年史を見れば「全てが分かる」ような90年史を作りたいと思っている。

・ 私は今「周年誌編纂のメンバー」を誰にするか静かに考えているところだ。頭が切れてセンスの良い人材を投入したい。この作業には高い評価を与えたいと思う。それくらい「価値ある仕事」であるからだ。

・ 私の時代に「100年史」は恐らく無理かも知れないから「90年史」を充実したものにしておけば100年史の校長さんは助かる筈である。このように10年ピッチで学校は、まとまっていくから10年先のことを考えて今の校長は仕事をしておけば良い。それが今、働いている校長の責任である。

・ それに平成19年から始まった「浪速改革」は余りにも大きい。「多聞尚学館」「ふくろうスタジアムの完成」「浪速武道館」と教育トライアングルを完成させた。実はこのようなハードだけではなくて「教育の中身」も大きく変えた。

・ 「神道教育関係」も大きく変えた。自前のテキストを完成させ、「学院神社拝詞」と「浪速生活の綱領」を作成した。神社神道の学校で今までこのようなものがなかったことさえ私には信じられなかった。

・ 何よりこの4年間で教職員が大きく入れ替わった。世代交代が大きく進み校内は若い先生方が走り回って活気に溢れている。部活動も従来の学校にはないように大きな資源を投入した。中学校も高校も生徒が増え今や府内の私立でも大きな学校に成長した。

・ 入試広報室を作って人材を投入した。広報宣伝には大きな資源を投入した。要は形を作ったのである。校長ブログを発信し「学校を公開」した。そして「説明責任」を果たして来たのである。

・ しかし今ようやく「一息」した時に私は逆に「先行きが無性に心配」になってくるのである。「今のままで良いのか」「次に進むべき道は何か」等々考えが巡ってくるのである。それが私の「本校の歴史を勉強する」動機に繋がっている。

・ 新校舎の後は「何を目標にしたら良いのか」という疑問だ。平成26年から又少子化の階段は急激に勾配をきつくする。今の学校幹部は恐らく残っていまい。新たなトップ集団で学校を引っ張っていくことになるが、果たして「それは誰か?」など考えたら悩ましいのだ。

・ 「歴史を尋ねる」とは原点に回帰し「今を反省する」ことである。時とともに人間は気づかずに「本家本元から大きく逸脱」していくものである。「初心忘れるべからず」とはこういうことだし、「温故知新」とは原点を忘れるなと言う戒めであろう。

・ 前にも書いたが今私は創立日をどうするか悩んでいる。31日の理事会で議論したが継続審議となった。ところが大正時代の本校には創立記念日と言う概念はなかった。「開校記念日」であった。

・ 教務部はそれを知らずに学校行事に創立記念日と平気で書いている。昔は開校記念日に授業をしていたことも知らないだろう。最初の授業が成された日が5月1日だったのである。

・ それは大正12年4月30日に初代校長事務取扱の大島鎮治先生は、沢之町の使われなくなった旧工場を借りて仮校舎とし、入学式を行った。そして最初の授業が翌日の5月1日であったのである。

・ 1年後その後を引き継いだ初代校長の大里猪熊先生は早速大正13年5月1日にこの日を「開校記念日」として式典をされている。如何に関係者の浪速中学校設立へのご苦労があったか容易に想像できるだけに最初の授業の日はさぞ感激であったろう。だから1年後に5月1日を「開校記念日」としたのである。

・ 歴史的経緯は以下の通りであった。参考資料として私は「記念帖」(卒業アルバム)を調査した。その結果5月1日は創立記念日ではなくて開校記念日だったのである。記載事項を転記すると:

 大正12年4月30日 東成郡墨江村假校舎ニ入學式ヲ行フ

      5月1日  授業開始

 大正13年5月1日  「初代大里猪熊校長開校1周年記念式ヲ行フ」

 大正14年5月1日  記念日 野田博士の講演ヲ聰ク

 大正15年5月7日  嘉納治五郎氏ノ講話ヲ聰く

 昭和2年 5月1日  第四回開校記念日(式ナシ)

 昭和3年 5月1日  開校記念日 濱谷氏ノ講演アリ

 昭和4年 5月6日  開校記念式、御親閲教練豫行ノ為メ城東練兵場ニ赴く

 昭和5年 5月1日  第七回開校記念式舉行

 昭和6年 5月1日  第八回開校記念式大島先生(創立當時ノ校長)懐舊訓話

・ 「原点を回顧」するとはこういうことだ。その作業の過程で様々な思いが去来するし「気づかされる」のである。来年度から本校の公式文書においては5月1日を開校記念日と書くこととすることが先の理事会・評議員会で決定されたのである。


2011年6月1日水曜日

23年6月1日(水)クールビズ







・ 朝7時過ぎに真向かいの本校専属の制服店の社長さんが部屋に入ってきて「夏服の支給が全て無事に終わり」ほぼ今年の業務が終わったと挨拶に見えられた。制服会社にとっては合格発表日から5月1杯までが1年で最も忙しい時になる。
・ 今年は高校1年生が670人の大人数であったし、東日本大震災の影響もあって「間に合わせる」のに相当な努力をして頂いたと思う。一時期は間に合わないなどの話もあって例年以上に神経を使われたのだ。社長さんのお顔に安堵感があった。私はお礼を申し上げた。


・ 遂に「衣替えの季節」なった。この季節はとにかくこの歌である。
 「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」
  女帝、持統天皇のお歌である。これは本当に素晴らしい。季節の変わり目をこれほどさわやかに歌ったものは他に知らない。
・ 私は新古今よりも万葉集の表現“来るらし”の方が好きである。来週の日曜日に無性に大和三山と樫原神宮、それに西国33番観音巡礼7番札所の「岡寺」も参ってみたいと「ふと」思った。

・ 雨の6月スタートとなった。残念だが「We cannot control the weather」だ。仕方がない。6月1日は本校でも正式な「衣替え」の日であった。実際は10日ほど前から夏服OKとしていたが、肌寒い日が続き生徒はジャケットを着ていた。
・ 今日も終日雨で寒い感じだ。「一斉参拝」では写真にあるように男子の役員生徒は夏服で女生徒は普通のスタイルであった。女性は一般的に言って「寒さに弱い」と思っているがこれは高校生時代からそうなのだと私は悟った。
・ 雨のため全ての生徒はそれぞれの教室から学院神社の方に「遥拝」する形である。即ち私を入れて3人だけの小雨の中の「代表参拝」であった。その後私は生徒にじっくりと伝えたいことがあったから執務室に戻って「校内放送」で話した。やはり顔が見えないと中々難しいものだが、逆に静かにじっくりと伝えたい時にはそれなりに効果があると思っている。


・ 世の中では環境庁主導で今までの「クールビズ」から「スーパークールビズ」と言って更に基準を緩和したことを殊更マスコミも取り上げているが、本校では従来の基準のままとした。
・ 早速夕刊ではスーパークールビズ初日として記事にしていたが、ポロシャツやアロハシャツの写真があったが全く取って付けたような浮いた感じで私なら絶対にしない格好である。「かりゆしウエア」などは沖縄だから決まるのであって都会で似合う筈がない。
・ 前述した持統天皇のお歌ではないが夏は「白妙の」白いものが最も良い。清潔感に溢れ見ても涼しい。赤や黄色や斑模様は暑苦しい。私はあくまで「白」だ。白が男にも女にも一番良い。
・ 浪速は「学び舎」であり12歳から17、18歳までの生徒が居る場所である。そういうところに「ジーンズ」をはいて来て貰っては困る。襟のないT―シャツも困る。靴については「蒸す」だろうから履き替えてスリッパは一応可としているがだらしなくなってはいけない。生徒は全員靴履きである。
・ 自治体の中には「半ズボン」もOKを出しているところも有ると今朝のテレビで報道していたが「トンでもない話」である。生徒には長ズボンで教員が半ズボンはないだろう。
・ 昨日事務室の職員にちょっときつく指導した。ちょっと目に付くスタイルだったからである。この人は前から時々そうであった。細い綿パンで股上の浅いパンツは基準が難しいが、ここは神聖であるべき職場である。神聖とは自分にとって大切と言う意味だ。
・ ここで働き、生活の糧を得ている場所である。スーパー玉出やホームセンターのコーナンに買い物に行くスタイルとは峻別して欲しい。生徒や大学関係者、保護者、業者さん始め多くの方が出入りする最初の受付場所が事務室である。
・ 偏見ではないが本校においては男性よりも女性の方が「だらしない服装」をする比率が高いというのが私の感想だ。それも20歳台よりは年長者や小さい子どもさんがおられる方見かける。忙しいのだろうが困ったものだと思っている。
・ それに見ていると仕事がきっちりした人は大体服装もしっかりしている。思い込みではない。服装にだらしない人間は勤務もルーズであると私は思っている。「一事が万事」とはこういうことを言う。


・ 冷房温度を28度C設定と言われているが我々の経験ではこれでは高い。狭い教室に40人の育ち盛りの若者が発散する熱量を計算すればとても28度ではやってはいけないと思う。下手をすれば「熱中症」になりかねない。
・ 従って本校では26度設定とする代わりにその分、他の分野で「節電」を図ることにした。昨日の理事会・評議員会で高校教頭が取り組みについて説明した。不要時には照明を切るとかは当たり前だし個人パソコンも管理をしっかりとする。
・ しかし目玉は9月に導入を検討している「浪速スクールサマータイム」だ。これは1限目の授業を8時始まりとし45分の5こま授業で12時45分には終える画期的な案だ。生徒は早く帰宅させ教職員も早く帰れば良い。
・ かなりエアコンの省エネにはなる。細かい問題はあるが今から詰めて行けば良い。試験的に1週間程度するのも一案だ。午後が自由になると喜ぶ生徒も居るのではないか。受験生も喜ぶかも知れない。場合によっては学年で区分しても良い。
・ 勿論不足する授業数は夏休みの補完で対応可能である。ドンドン新しいことをやってみたら良い。駄目だったら止めれば良いだけの話である。それをやる前から問題点ばかり言う人間は時にいるが笑ってしまう。私はこういうタイプを忌み嫌う。改革など出来ない輩である。


・ 昨日から多聞学習合宿に行っている中学2年生の特進コース2クラスの激励に行ってきた。「頑張ってたなー」。嬉しくなった。多聞に行くと私は機嫌が良くなる。それは生徒が学習に真剣に取り組んでいるのが良く分かるからである。
・ 学校でも分かるではないかと言われそうだが多聞と学校の教室とでは教師も生徒も雰囲気が大きく異なる。表現方法は難しいが学校の教室の授業は「三度三度の家庭の食事の味」であるが多聞の特別講義は「レストランの味」とでも言っておこうか。
・ 中学のウィークデイ合宿は大きな効果がある。生徒の顔を見ていたら良く分かる。来週は関大コースの1年、2年合同の合宿だ。これは私が考え出したことではないがこれは素晴らしいアイデアである。1年生の大きな刺激になるだろう。
・ 英語のI先生と数学のM先生、とにかくこの二人は「熱い」し「リズム」が良い。このリズムを私は重要視している。これが一番だ。リズムのある授業は生徒も真剣に集中している。それは「真正面に生徒に向かっている迫力」があるからだろう。
・ 生徒の評判も良いのは生徒がこれらの「先生に何かを感じている」からである。無味乾燥で迫力も抑揚もリズムも全く感じられない授業から生徒は何を感じるのであろうか。


・ 午後3時突然秘書さんが私の誕生日だといって突然ケーキを持ってきてくれました。「ダイエット」しているのだが「今日くらいは良いでしょう」と差し出された。私は自分の誕生日など勿論誰にも言いませんが彼女は知っていたのです。そうです、今日は私の55回目の誕生日なのです。年は少しさばを読んでいますが。