2011年5月11日水曜日
23年5月11日(水)23年度歓送迎会
・ 今日は「教職員の歓送迎会」の日であった。125名の出席者で昨年に続いて最高の出席率だという。冒頭挨拶された名誉理事長や乾杯の音頭をとられた理事長職務代理からすれば「驚天動地の世界」に映るのであろう。一昔前までは出席者も少なく、「閑散を通り越して索莫とした雰囲気」であったと何時も両氏が口癖のように言われていた。
・ 何時も「金一封」を出してそそくさと帰りたい気持ちだったと良く私に言われたものだった。私の代になって確かに数名の教員が理由もなく欠席通知を出していたりした時には私は個別に部屋に呼んで欠席理由を聞いた。それももう4年前のことだ。
・ これは「公式行事」でありほぼ出席が義務つけられていると考えた方が良い。組織に属する人間の常識である。昔は「好きで来たのではない。来いというから来た」などと嘯くケシカラン輩がいたがそれでは世の中は通らない。「仕事の一部」と思ったほうが良い。
・ 今日午後所用があって神社庁に出かけ帰って来たら事務の担当が顔色を変えて「一人欠席者が出ました」と言っていたので、その本人を呼んで事情を聞いた。会場へのキャンセルは何とか出来たが後述するお土産は間に合わなかったという。法人は損害を受けたのである。「当日に言うなって!」。皆が迷惑をした。
・ 確かに昔は「面白い会合」ではなかったには違いない。今でも「このような半ば強制的とも思える宴会などは嫌いだ」と思う若者はいるだろう。しかしこれは私立公立、「園小中高」を通してこの5月にやっている「学校社会統一の公式会合」みたいなものだ。「義理でも」出席したほうが良いだろう。
・ 本日は学校法人「浪速学院」主催としての初めての歓送迎会である。4月1日で法人名が変わった最初の宴となった。主催というより「招待」と言ったほうが正確である。タイミングは何時も連休の後直ぐと決まっており、場所も最近では道頓堀の「敦煌」という中華レストランと言うか宴会場での大広間での宴席となった。
・ 3年前から「お土産」を付けることとした。宴会して「ハイ、それではお開き」と言って手ぶらでお帰しするのも味がないと考え、お土産を付けることを私は決めたのである。お土産は「蓬莱551の豚マン10個入り一箱」としてきた。
・ 私は教職員が元気一杯働けるのも「家族の協力があってのものだね」で、このお土産は理事会からのご家族へのお土産なのである。酔って手ぶらで自宅に帰るよりはお土産の一つもあればと考えたのである。
・ 勿論、中には「豚マンは嫌いだ。あの臭いがたまらん」という人もいるだろうが、そういう言う人は「お好きな人にあげたら良い」のであって、ただで貰うものをあれこれ文句を言ってはいけない。それに単身の方で自宅に喜んで貰える人も居ないと言うのであれば、「冷凍保存」しておけば良いのではないか。
・ この大歓送迎会で最大の問題は「席の配置」である。担当は事務職員であるが私自身もこの時ばかりは頭を悩ましている。特に理事者の席には出来れば毎年異なる顔ぶれが良いと工夫している。
・ 私の席は歓送されるお方と後はこの4月に新しく来られた常勤講師の先生方の中から事務長が決めるとされていたが、今年からそれは止めて貰った。正直言って同じテーブルでも気遣いの全くない人と飲んでも面白くはないからである。
・ 逆にこちらが気を使って「疲れる」のももう年だから勘弁して欲しいと言う思いも出てきた。それだけ我侭が出て来たと言うことだろう。年に免じて勘弁して欲しい。初めて近くに接することのできる若い先生方との会話を楽しみにしていたが「私は飲めませんから」との一言で会話が続かないのも辛いのだ。
・ 昨年も酷い目にあって私が「場を維持する」のに苦労した思い出がある。しかし今年は違った。こういう場合女性職員が素晴しい。男性教職員はどうしようもない。どうして教職を選んだ人々には、特に男性職員にはこのようなタイプの社会的儀礼のマナーが出来ていないのであろうか。まったく不思議である。
・ こういう場面こそ社会人としての「有り様」が出て来る。それが正しいマナーであれば「人柄」を訴える格好のものになる。そうかといえば一歩間違うと大きな悪印象を与えるもので「酒の席のことだから・・・」と口では寛容なことを言っても酒席のマナーは組織人には危険と隣り合わせの重要なことである。
・ しかし今日は盛り上がった会となった。極めて盛り上がった。私は満足である。今年採用した教員の中でも面白そうな人材を見つけることは出来た。今日は楽しい一日となったのである。
・ 出席頂いた理事の方全てにご挨拶の時間を取って貰った。皆さん「良い話」をしていただいた。常日頃話することのない理事者の直接のお声を聞いて貰う事は先生方にとって大変参考になる筈である。
・ しかし「良い職場」となったものである。私は「感無量」であると同時に頭の何処かが「覚めている」のである。トップが「舞い上がってはいけない」のだ。トップはどこか冷めて現実を厳しく診ることが重要である。
・ そういう意味から今日も「私の毒ガス弾が炸裂」した。中学校1年生の極めて重要な多聞尚学館での月末に計画している公式授業参観に担任4名のうち2名が一日目欠席すると教頭から報告を受けた。私は驚くと同時にその理由を聞きたかったのである。
・ 全くの私事であったが私立学校は土曜日は勤務日である。私事を入れる場合は日曜日だろう。公立ならまだしも私立は土曜日こそ公立との差別化の最たるものだ。それを二人揃って勤務日の土曜日に私事を入れるなんて私には信じられないのだ。
・ 直接的本人ならまだ分かるが非間接的な同僚が勤務日に休みを取って生徒を多聞尚学館に宿泊させ、「ほったからし」にして自分は有休を取るなど私にはどういう神経なのか全く理解できないのである。こういう教員は落第である。本当にアホはまだ居るのだなと思った。
・ 人は言う。“あいつは人は良いし生徒には人気があると。しかし時に能天気でアホなことをする”。と。しかし私にわせればとんでもない話でまず生徒の人気ではなかろう。プロの職業人として意識の高さこそベースではないのか。まず生徒のことを第一に考えて欲しい。私の言っていることは間違っている???
2011年5月10日火曜日
23年5月10日(火)新採用の常勤講師の先生方
・ 4月1日付けで本校において常勤講師の職を得られた18名の先生方から業務一ヶ月間の印象などをメールで問いかけた。今度は全員が回答を寄こしてくれた。全ての講師の方が「本校に大変良い印象を持ってくれている」ことが分かり私は大変嬉しく思った。
・ 18名の内9名が大学新卒であり、教師としての出発に問題はなかったか等々、当然「雇用者としての責任」があるからこれは私の仕事である。結果、新卒の先生も含めて全員が張り切ってくれており「一安心」である。
・ 18名の講師の印象を最大公約的に整理すると「働きやすい職場」「明るい職場」「生徒が素直な学校」「ベテランの先生が親切」「やる気に燃えている」「充実感で一杯」「自分の未熟さを知った」等々であった。
・ メールで常勤講師へ送付した文章は以下のようなものであった。
4月着任の常勤講師の先生方へ
ご苦労様です。ご着任以来1ヶ月が経ちました。連休もあってようやくホッとされている頃ではないでしょうか。これに付き常勤講師の先生方に本メールで約300字以内でこの一ヶ月の本校勤務での感想、所感、意見、提案、批判何でも良いですから送付ください。(以下略)
・ しかし多くの先生は300字どころか紙一枚も書いて同封ファイルで送ってくる先生もいた。私としては「極限に字句を絞った」ところに「言いたいことの本音が出る」と思っているからそのように依頼したのだが講師の先生方には「折角の機会」と思って書いてくれたのだろうと思う。ただ今回はそれで良しとした。
・ しかしこれが大学の入試問題や企業の入社問題だったら「失格」になるだろう。300字でまずまとめ、それ以外に「特別編」で別のものを添付するのが「正しいやり方」だ。マア今日的若者は「人の言うことを本気で聞いてはいない」と思える。それは「自分の好きなようにして」も誰からも叱られて来なかったからだろうと私は思っている。
・ ここでベテラン講師と新卒講師の二人の感想文を紹介しておきたい。一人目は社会科の先生で同志社大学の修士課程を終了して本校に勤務するまでは他校での非常勤講師としての経験が4年ある。お年は32歳。
・ 面白いのはこの先生の文章である。何とぎりぎり299文字に抑えて書いておりわざわざ字数まで記しているのである。こだわりの几帳面な人で大分私を研究しているなと感じた。
本文
私は、浪速高校で教鞭を取ることができることに大変喜びを感じております。その理由は2つあります。
1つ目は、活気のある教育環境の中で教師という仕事ができることであります。若手の先生の活気とベテランの先生の経験が相まって、浪速高校では活気のある教育環境が醸成されています。
2つ目は、若手の先生を育てるという環境の中で教鞭を取ることができることであります。私はこの1ヶ月の間にベテランの先生からアドバイスも含めたご指導を頂き、また多くのことを見習わせていただきました。
40歳になって初めて一人前の教師になれるという気持ちで学ばせて頂きながら、浪速高校を担っていく教師として成長していきたいと思っております。(本文:299文字)
・ 次は大学新卒の講師である。静岡県のご出身で帝塚山学院大学の日本伝統文化専攻の大学院博士課程をこのほど修了された研究者に近い国語の先生である。研究テーマは「歌舞伎の東西交流史」というから面白い。お年は26歳。
・ 一ヶ月が経った。気の利いた言葉では表せないが、「夢中」か或いは「必死」、そして「痛感」の一ヶ月であった。
一年Ⅱ類及びⅢ類の「国語総合Y(古典)」を担当させていただいている。同じ一年生でも類・クラスによって雰囲気がどれだけ異なるものか。一口で高校一年生と言っても、いろんなタイプの生徒がいることを改めて痛感させられた気がする。また大学院で歌舞伎史を専攻していた私にとって、専門外の分野について生徒に指導していくには、私自身時間をかけてじっくりと教材研究する必要があった。しかしこの教材研究については、元来私が持っている「学び」への楽しみに通ずるものがあったため、大変と感じる一方楽しみも感じている。自分が楽しめないようでは、生徒に楽しさを伝えるのは無理であろう。
痛感させられたと言えば、職員室での職務についても採用前に考えていたものとは大きく異なり、教務関係職務や電話対応など多くの仕事をこなしていかなければならず、新任だから教科のみでよいという考えの甘さを改めさせられた気もする。春休みの課題の回収の件や電話対応当番については、多くの先生方にご迷惑をおかけしてしまったが、その経験を糧にして今後も取り組んでいく所存である。
二ヶ月前まで、学校という若干社会と性格を異にするものと解していた世界が、実は社会の中のひとつの現場であり、自分が教員であり社会人であるということを改めて痛感させられた一ヶ月であった。
・ とにかく様々なタイプの常勤講師の先生が本校にはおられる。今年4月からの先生は18名であるが過年度も含めると35名の先生方がおられる。皆さん相当優秀な先生である。前のブログにも書いたが学歴も素晴らしい。早く本校の水に慣れて力を付け「教師としての自己実現」を図って欲しいと思う。
・ 昨日多聞尚学館で特別講習をしてくれていた某常勤講師の先生を私はじっくりと観察したが「良い授業を展開」してくれていた。声も大きく「板書」も綺麗であった。何より「分かり易いとの評判」の先生である。
・ 京都大学理学部数理の卒業と同時に本校に来てくれた、常勤講師2年目の先生である。昨年に比べて「迫力が出てきた」ように感じる。連休前4月23日(土)の「保護者授業参観」でもアンケート結果では極めて評判の良かった先生である。徐々に力を発揮してきているのかと思う。
・ まず常勤講師の先生方は教師としての「立ち振る舞いの基礎」を積み、然る後に「担任経験」が勝負となろう。誰もがすぐ担任になれるとは限らないが私としては「専科の講師」以外では「担任に不安が残る先生」では少し辛い。
・ 教師と言うのは決して「楽な商売」ではなくなった。まず「教科指導」、これは絶対だ。世の中の一般の人とは違う。「教えてなんぼの世界」だからである。次に「分掌業務」そして「担任業務」が来る。そして「部活動指導」である。
・ 確かに忙しい仕事であるが一方では学校の先生ほど社会の尊敬と期待をもたれている職業は無い。昔は「先生と言われるほど馬鹿でなし」などと「医師、政治家、教師」の職業を揶揄した者もいただろうが「トンでもない話」である。間違いなく今日、教師の仕事ほどやりがいのある仕事はあるまい。
23年5月9日(月)本校の歴史その4:「何故住吉の地に・・・」
・ このように普段は役に立たないと思っていてもその学校なり企業なりにおいては記録を纏めておくことが「その組織の甲斐性」だと私は思っている。甲斐性という言葉が最適である。そのような記念誌など意味はない。そんなものに時間と金を使うなど「愚の骨頂」だと思っている人間はどうしようもない幅の狭い人間である。
・ 日頃役に立たないがいざと言うときに「歴史を振り返る」ことが大切である。「歴史に学ぶ」ということはそういうことだ。二度と戦争などしてはならないのは当たり前の話しである。そのためにこそ我々は先の大戦の「失敗に学ぶ」のである。
・ 戦争を教えないと言って学校の社会科の中で現代史を外すなどは愚の骨頂である。正しく戦前、戦争、戦後の歴史を教えることが学校の教師のやるべきことである。それをやらずして、卒業式に「国旗・国歌反対」と叫ぶようなことではいけない。
・ 5月7日の朝日の記事である。「君が代不起立2教諭戒告処分」とあった。君が代とは何ごとか。朝日にはちゃんと「国歌」と書いて欲しいと言いたい。しかし未だに国旗国歌に敬意を払わない教員が大阪の府立高校の教師には多いのである。これが現実の姿である。

・ とにかく学校の周年誌は大切である。後々のブログにおいて私は明らかにしていく積りであるが10年経つと編集の狙いも内容も微妙に変化しているのに気づく。これだからこそ面白いのである。私は「本校の歴史その1:創立記念日」においてかなり厳しく「創立記念日の有り様」を批判した。
・ 創立記念日は単なる「休みの日」であってはならない。創立記念日とは「その学校の歴史を振り返る日とすべき」と言いたかったのである。午前中4こま授業して午後から2時間くらい「歴史を振り返る」場面があって良い。ご年配のOBから講演頂くのも良いではないか。
・ 創立後まず20周年誌はどの学校にもあるものだが、残念ながら本校にはない。その理由は恐らく戦争の時代に突入して行ったからに違いない。本校には30年史もない。纏めていないのである。
・ 周年誌があるのは40年史、50年史、60年史、70年史、そして80年史である。したがって創立当初の記事が少ないから「隔靴掻痒の感じ」で学校創立原点の息吹を纏めるのに私は苦労している。
・ それでも何とか「形の違った周年誌」を纏めておきたいと思い現在ブログにおいて本校の歴史を自ら纏めているのである。前にも書いたが「今昔物語」である。単に昔のことを淡々と書いただけでは意味はない。何らかの意味を持たせたいのである。
・ 平成25年の90年誌は来年24年度初めに「90年史編集ンバー」を決めて素晴らしい90周年記念誌を纏めておきたいと考えている。まさしく80年史から90年史に至る10年間は「浪速改革の軌跡」そのものであり、多聞尚学館、ふくろうスタジアム、浪速武道館、そしてクラブ部室、新校舎と中身は盛りだくさんとなる。慎重にメンバーを選定したい。
・ さて本日のブログは「何故本校は現在の地に創立されたのか」ということについて歴史を振り返ってみる。こういうものは「密かに進められるもの」「極少数の人々で進められるもの」だから公式な記録はない。しかし何とか50年史に貴重な記事があった。
・ 当時の園理事長と平石芳太郎名誉校長のお話だから事実であろう。尚この平石先生のことについては別途改めてブログに書かねばならない程、極めて本校歴史に燦然と輝く立派な先生である。
・ 大正12年に創立された本校であるが、設立の話は4,5年前から出ていたと園理事長は書かれている。当時「仏教の上宮、キリスト教の桃山」と先行する二つの私立中学があって、神社神道の大阪国学院にもどうかと言う話はあって当然であったろう。
・ この辺はいわゆる今で言うところの「行政指導」だと思うが「大阪府が強く関与」している。大阪府の主務担当者は松尾幾太郎氏と言う行政官であった。当初は「各神社の基本金を学校建設に投入せよ」ということから始まっている。
・ 加えて大阪府は「官幣社六社」からも資金拠出を要望したがこれは内務省が難色を示したという。神社の基本金を他に流用することはおかしいと言うことであろう。紆余曲折がったが結局は現在の地に決まった。
・ 当時の村名、依羅村にあった「依羅池を埋め立て」て学校の校地とした。これが最も安価で、「折り合いが付いた」のではないかと私は想像する。勿論池だけでは足りないから近隣用地の取得については当時の依羅村村長東野修一郎氏の働きがあったことは既にブログに記している。
・ 50年史座談会によれば元々は「近鉄沿線が有力」であったとある。近鉄沿線に決まっておれば本校は又違った成り行きになっていたと思う。伊勢神宮に関係が深い本校の立場からすれば近鉄沿線が好ましいことは当時の神社界の人々全ての共通の思いであった筈である。
・ しかし結局のところそうはならなかった。うわさによればすでに「樟蔭中学校があった」からとも記事にはある。いずれにしても「高野線にある私立学校」となった。当時の大阪南部は言っていれば「ど田舎」で生徒の中には恥ずかしがって「校章を隠して」登校するものも居たとある。
・ 阪和線はまだ出来ていなく高野線のみで「あたり一面は墓と田ばかり」だったと既に私はブログに書いている。当時の大和川沿いは大阪の外れも外れで「焼場と田畑」のみであったという記事は間違いなかろう。
・ 「依羅(よさみ)」とは普通は読めない。しかしこの名称は由緒ある地名で依羅村は明治27年に成立し、大正14年に大阪市に合併するまでは「住吉郡依羅村」であった。現在の住吉区我孫子、山之内,杉本、浅香、苅田、庭井の六ヶ町からなり、大阪市の最南端の村であった。
・ 依羅の語源については別途ゆっくりと調べてみたいと思うが「大依羅神社」と関係あるだろうことは想像できる。まさしく「古事記の世界」であるがブログに嘘を書いてはいけないので本日はここまでである。
・ 本校の近くにはこの依羅という字を使った「大阪市立依羅小学校」がありここの「周年誌」や依羅郷土史を一度調べてみたい。いずれにしても紆余曲折はあったがこの依羅村の依羅池を埋め立てて本校は産声を上げた。
・ あたり一面墓と田で見渡す限り何も無かった。一枚の写真があるが遠く大和川越に堺方面が見える。校舎も他校の古いものを譲り受けたものだったし、とにかく「無い無い尽くし」でスタートした本校であった。
・ 「筆舌に尽くしがたい」と言う言葉があるが昭和9年の室戸台風で殆どの校舎が倒壊し、校舎が一新されたのは実に昭和37年であり苦節10年と言うけれども苦節50年でようやく一人前の学校施設になったと思う。
・ しかしこれも大阪国学院、教職員、生徒たちが一丸となって夢に希望を膨らませて「学校つくり」に邁進していったからである。これは公立学校では有り得ない私立学校独特のものである。私立学校は『私』が学校を作るのである。
・ 今本校で働いている教職員はこのような前人の苦労に思いを致さねばなるまい。若い世代の教員が今厳しい就職事情の中で本校で働くことが出来るのは「ここに学校があるから」である。学校を創り残してくれた先達のお陰である。
・ 第一期生の卒業生が80年始史に書いているが、彼らが中学3年生になった頃「池を埋め立てて運動場を作った」とある。石ころが多くて運動場を整備するために生徒は大和川から川砂を運んで来たと言う。昔の生徒も教師も実に立派である。 

2011年5月7日土曜日
23年5月7日(土)階の木が見つかった
| 5月6日一斉参拝の日、楠木すっきり |
・ 植木のうっとおしいのはまだ我慢できるが人間のうっとおしいのは我慢がならない。どんなタイプがうっとおしいかって、それは様々だ。私の定義で言えば果たして次のようになる。まず「髪の毛を伸ばしている人間」「髪が耳にかぶさっている人間」「髪にフケが浮いている人間」などがまず来る。
・ 更に言えば「ひげを生やしている人間」「無精ひげを伸ばしている人間」「ズボンに折り目の無い人間」「何時も同じネクタイをしている人間」が来る。まだまだあるぞ。「話の長い人間」「何を言っているのかさっぱり分からない人間」「言っていることの分からない」「すぐ話の主軸をずらす人間」等々、もう止めとこう。
・ 今度やることは来年の適当な時に根元を掘って、「根回し」が必要となる。そして落ち着いたら再来年には何処かの大きな神社さんか植木屋さんにお願いして預かって貰うのである。そして新校舎建設後に新しい学院神社の場所に戻すのが現在の考えである。
・ 大阪府においては「楠木」は比較的簡単に入手し易いから新校舎には又別の樹を植樹したらとも考えもあるがそうは行かない。120年くらいこの地で成長し幾多の生徒を眺め、学校の栄枯盛衰を見てきたクスノキである。1本でも2本でもどうしても元の地に戻したいのである。
・ クラブハウス前の広場は「学びの広場」と名づけ、ここには「階の樹」を植えることも4月27日のブログ「学びの広場」に記したが、出入りの植木屋さんの力で遂に「階の樹」が見つかった。何と福岡市にあると言う。
・ 樹高が5.5メートルで丁度良いし幹の太さも目の高さ辺りで10センチ程度というから今後の成長を考えれば言うことは無い。私はその場で2本発注した。今から根回しをして更に一度土の中に戻して8月末頃に植木専門の業者が運んでくるのだという。
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| 福岡市で見つかった階の木 |
・ そうすればここに植える木は絶対に「階の木」でなければならないと考えた。うるし科の落葉樹で美しく紅葉する。黄葉もある。結構大木に成長する樹であるがこの樹は「学問の木」として有名である。学びの広場だから階の樹なのである。
・ 日本では東京の「湯島聖堂の階の木」、岡山県備前市の「閑谷学校」「足利学校」「金沢文庫」などが有名である。この木にはいわれがあって大正4年農林省の学者先生が中国の「孔子廟」から種を採取し育苗したもので当時の日本の歴史ある有名な学校に配布されたものである。
・ 私は是非この樹を植えたいと思っていたのだが遂に手に入ったのである。この木の下を通り抜けながら生徒がクラブの部室を行き来する光景を想像するだけで嬉しくなってくる。しかし昨日担当から示された「クラブ部室の配分案」は良くない。
・ 本日の管理職朝会で私は原案を差し戻したのである。強大なクラブが我が物顔でクラブの部室を占有しようとしている。彼らにはふくろうスタジアムがある。弱小のクラブにこそ手を差し伸べてやらねばならない。特に中学生と文化系クラブに対してだ。知恵を出せと言いたい。
・ 私は着任以来「クラブ活動支援」を具体的に進めているが今回初めて「軟式野球部の支援」を行った。大体硬式野球部が派手で目だっているが案外と軟式野球も生徒には人気のクラブで部員数も多い。
・ 今までのユニフォームには「大阪国学院」と縫い付けていたが法人名が「浪速学院」と変更した記念に上半身のユニフォームを部員全員にプレゼントすることにしたのである。神社前で全員に一人一人手渡してあげた。当たり前だが生徒は大変に喜んでいた。
・ 封筒や看板など徐々に切り替えていく積りだ。一度にやる必要はない。無くなって補充が必要になったらその時に浪速学院名にすれば良い。私が使う実印もほぼ浪速学院に切り替わってきた。ボツボツ前の大阪国学院の印章は「お蔵入り」となる。
・ それにしても世の中には悪い奴はいる。心配はしていたが遂に「浪速ふくろうスタジアム」の「自動販売機」が泥棒にやられた。設置した時から「何時かは」とは思っていたがほぼ1年で初めてやられた。

・ 正門やハウスなどには一切の被害は無かったのであるが、今後どうするのか考慮中だ。確かに真夜中には誰も居ないゴルフ場の傍であり狙うには最適な場所だと思う。しかし学校施設の自販機の売り上げを狙う人間がいることに憤りを覚える。何とかしてとっちめてやりたい。又狙って来るに違いない。
2011年5月6日金曜日
23年5月6日(金)本校の歴史その3:「創立時の教職員と第一期生」
・ その2において記述したように財政難の中で相当資金面で苦労した本校の校舎はすべて他校の古い校舎を譲り受けたものであった。それも一度に移設したというわけではなくて「徐々に頂いた」というのが正しかろう。
・ 大正12年7月旧大阪国学院の校舎の移設から始まって大正13年6月に旧梅田高女から受けた本館の移設で一応の校舎郡は整ったことになる。1年かけて移設し、これらの校舎は昭和9年の室戸台風で壊滅状態になるまで使われたのである。
・ これらの校舎について貴重な写真が一枚あるが、見事なまでにに学校の周辺には何もない。これらの情景を具体的に記したものがやはり50周年記念誌にあった。座談会「50年の歩みの中で」からその一文を切り出してみる。
・ 司会者が言う。「当時は高野線と阪堺線だけであったと思いますが、学校の周囲はどうでしたか」という問いかけにある人が答えて、「その通りで学校の周囲は田ばかりで白鷺が飛んできたと聞いています」。
・ 又別の出席者は」「阪和線が出来たのがその後の昭和2年頃だったと思います」「学校のまわりは墓と田ばかりでした。」そして次の文章である。この座談会の会話録の中である卒業生が次のように書いてあるのだが、正直な印象だったのだろうと私は思った。これも書いておかねばなるまい。
・ この方は初代の大里校長が就任された年の入学とあったから多分2期生だと思う。初代の校長事務取扱の大島鎮治先生がご退任されたのが大正13年5月30日で同日初代校長として大里猪熊校長が着任されていることから第2期生と想像するのである。
・ 創立当時の校舎の雰囲気と生徒の印象を上手く表現しているのではないかと思う。「前略:私の入学した頃の校舎はバラック建てのような女子の校舎をそのまま持って来て、みっともない校舎でありましたが、先生は皆立派な方で楽しく勉強できましたことを今になって大変喜んで居ます。後略」
・ 一枚の創立時の職員の写真があるがこれは貴重なものでバックの建物は旧大阪国学院の校舎であるが、その前に8名の人が写っている。前列中央が大阪府から来られた校長事務取扱の大島先生である。それ以外のお方のお名前は判然としない。
・ しかし右上の「浪速中学校の看板の文字」や先生方のお姿に時代を感じる。8名のうち「口ひげ」を有したお方が5名で和服姿は2名、他の方は流行の背広姿で一名は詰襟姿である。
・ 大正末期に日本には「サラリーマン」という言葉が生まれたと聞くがそのサラリーマンの最高のスタイルが、ちょび髭、チョッキ姿にカンカン帽かソフト帽だったというからその頃の雰囲気がこの写真からも伺えるのである。
・ 大正12年4月30日に沢之町の旧工場の建物で入学式を済ませた生徒たちは204名であったと記録にはある。今の浪速中学校が120名だから当時の旧制浪速中学の勢いというものが分かる。これは勿論当時の「中学校進学意識の高さ」が背景にある。
・ これ又貴重な写真であるがこの204名は4クラスに分かれた。A組からD組まであってまずこのA,B,C、Dという表現に驚く。大正年代の学校のクラス訳に英語を使っているのである。
・ ちなみに戦前戦後英米文字は使うなと言ってクラス分けには1組、2組、3組・・・という表現が長い間取られてきたがここ10年くらい前からA,B、C,と戻って来ている。まさに「歴史は繰り返す」のである。
・ 揃いのベージュの五つの金ボタンの制服に白一重線の学生帽が素晴らしい。校舎はバラックだったが204名の生徒の可愛いこと、この上無いではないか。私はそのように感じた。
・ 何と創立80周年誌(50年史ではない)にこの1期生の中からお二人のお方が投稿されている記事を見つけた。創立80周年誌は平成19年に完成しているからこの時の校長は私であった。
・ 記事には97歳とあったが、すごい。97歳で「かくしゃく」とされているのだ。そのうちのお一人が次のように記述されている。ママ転記する。「創立80周年おめでとう存じます。第一回卒業ということで80年の年月を重ねたわけですね。(中略)今年で97歳を過ぎて学恩を感謝いたしております。母校のますますのご隆盛を祈りおります」とあった。こういう文章を昔の方は出来るのである。
・ 又もう一人のお方は次のように書いておられる。これもママ。「まず入学当初の記憶から現在の高野線我孫子前駅より住吉寄り500メートル線路に近接して2階建ての古工場が浪速中学校が校舎でありました。現在の校舎から考えると月とスッポンの様です。現在のような場所になったのは3年生の頃で我々が池を埋め立てて努力したのを覚えています。今でも傍らに焼場があるのでしょうか。朝登校すると臭いのを覚えています。・・・」
・ 現在の学校の場所が以前は依羅池(よさみ池)という池だったことは知っていたが、ここに「焼場があった」ことを今回本校の歴史を追うことで私は知ることになった。そういえば前述した2期生の卒業生も前述したように「学校の回りは田とお墓ばかり」であったと書いている。
・ 私は「なるほど」と思った。今でも本校の隣地には大きな墓地がある。間違いなくこの1期生の言っていることは間違いない記憶であろう。今から90年も前のことである。今更本校の場所が昔墓場だったということを隠しても仕方がなかろう。
・ 私は次のブログにおいて「本校の校地がどのような経緯」でこの住吉区山之内に決まったのかもう少し調べてみたいと思ったのである。本校の歴史その2:「3人の恩人」において言及した校地取得の貢献者である時の依羅村村長東野修一郎氏の事ももう少し詳しく知りたいのだ。
2011年5月5日木曜日
23年5月5日(木)本校の歴史:その2「3人の恩人」
・ 何故校舎が間に合わないほど急いで開校したのだろうか。そこが疑問である。前号にて書いたように中学校の設置出願が大正12年2月28日、設置の認可が3月31日、大阪府から大島鎮治教育主事を「校長事務取扱」でお迎えしたのが4月17日、そして沢之町の仮校舎での入学式が4月30日だから新幹線以上のスピードで走っていたのが分かる。
・ 当然数ヶ月数年前から中等学校設立構想はあった筈であり、学校が急に出来る訳もない。今となっては当時の詳細な状況を知る由も無いが私はある文献や会報などから当時の「社会全体の教育機運」みたいなものを感じるのである。すなわち何故「浪速中等学校は誕生したのか」をまとめておかねばならないと考えた。
・ 長い鎖国の夢から覚めた我々の祖先は新しい国つくりを目指して富国強兵を合言葉に欧米列強に肩をならべるべく「坂の上の雲」を目指した。勢い国民の間には「欧化万能」の風潮が生じたのは止むを得ないことでもあったろう。
・ 当然このような社会風潮に対して当然「日本人の道統を再認識」すべきと機運が生じてきたのも当然の流れである。「日本は日本であり日本人は日本の歴史を忘れるな」ということであろう。このように必ず反動と言う流れは起きることが自然であり、このことは現代社会とて変わりはない。
・ そのような人々は国民に対する教育の重要さを考え明治天皇に、明治23年10月「教育勅語の煥発」を仰いで「日本人の道義の指針」を見ることになった。話は変わるが今、明治時代のこの教育勅語に精神的に回帰すべきという意見が台頭して来つつある。
・ かかる時運の時に、同年今の国学院大學の前身である「国学院」と今の皇學館大學の前身の「皇學館」が明治天皇の親王の令達のもとに設置された。こうした流れの中で明治15年誕生した皇典研究所大阪分所は明治41年に大阪国学院と名称を発展的に改称したのである。
・ 日清日露の戦争に勝利し、1914年に始まった第一次世界対戦にも日英同盟の義理から参戦した我が国は戦勝国の一員として経済的にも恵まれた環境となり世の中には軽佻浮薄の風が一斉を風靡した。良い表現を使えば「大正ロマン」と騒がれた時代に本校は誕生したのである。
・ 30周年記念の浪高新聞の初代事務取扱の大島鎮治氏の記事によれば大正12年当時大阪府は五ヵ年計画を策定し「中学校大拡張時代」を迎えていた。私の前任校で今の府立高津高校も前身は大正7年に出来た旧制高津中学校なのである。
・ とにかく明治末期から大正にかけて旧制中学校はどんどん出来ていったのである。そのような時代背景の中で大阪国学院は「ちゃんとした中学校を作ろう」と判断されたのである。
・ 直接的には日本人の道統を再認識するという明治以来の機運が引き金になり、第二はここが立派なのであるが進学を志ながら不幸にして家庭の事情で進学し得ない児童等を救うと言う社会的要請に応えんとした大阪神社界の人々の宗教的動機もあったと50年誌にある。
・ その中心にいた人物は大阪難波八坂神社宮司で大阪国学院理事を務められていた「浅香千速」氏と言う。今回初めて私はこの人物のお名前を知ることになった。何故私が知りもしない浅香氏のことを書くかというと初代事務取扱の府庁の役人だった大島鎮治氏が言葉を尽くして賞賛されているのである。私はこの文章から浅香氏の働きに思いを致し頭が下がる思いがする。
・ 大島氏は書いている。「国学院内部の種々の苦悩難関を突破して創立を軌道に乗せたのは実に氏の功労の大なるがあった。氏は本校のために(次の文章がすごい)心と物と時間とを如何に犠牲的に注がれたかを私は親しく知っているのである。実に氏は浪中創立の恩人として忘れることはできない人だと思う。」
・ もう一人本校には恩人がおられる。これも大島氏の残した記事からの出典であるが当時の依羅村(よさみむら)村長の東野修一郎氏である。“氏は学校の渉外主役者で校地の設定、工事に関する事項について非常に尽力せられ、氏の腹と腕と名によって本校が実現の運びを獲たというべきでしょう。氏は学校として忘れられない功労者であります。”となる。腹と言うのが面白いし分かるような気がする。
・ ここで大島鎮治氏について記してみたい。ブログその1においても記述しているがこの人は当時大阪府教育主事の肩書きであった。府の「学校課」という職場の役人であったが当時の内務部長から「浪中の創立の校長事務を執れ」と委嘱を受けて任に付いた人である。
・ 大島氏の言葉を借りれば「学校内用方面の全責任を負うようになって学則の制定、職員の選定、生徒の募集等兼務の私には容易な仕事ではなかった」と述懐されている。大島氏は1年半の任期を過ぎて府に戻られるのであるが、その後80歳の時に浪速高等学校の30周年記念祝典に参列されている。その時の氏の残された発言録が「歴史の証人」となっているのである。
・ しかし考えてみると本校は設立に際し、大阪府から有為な人材を派遣されるほど格式の高い学校であったことが分かる。このブログのシリーズにおいて書くが、私はどのような人々が本校の校長に就任されているかでその事が大変良く分かるのである。
・ いずれにしてもどの残された記事をみても浪速中学校設立に貢献あった三羽烏、三賢人、三偉人は「大阪国学院浅香千速氏、大阪府の大島鎮治氏、依羅村村長東野修一郎氏」であることは間違いない。勿論他に多くのお方のご理解とご協力があっても事だが、前記3人の働きで本校は「産声」をあげたのである。
・ 大正12年7月18日に大阪国学院旧校舎(大江神社神官養成所)をまず現在の本校のある場所に移転し移転作業は始まった。しかし「苦難の時代」であった。関東大震災のために資金難に陥り運営に支障があったとある。
・ しかし中学生の入学難の解消と言う大義名分もあって大阪府の支援と神社界の献身的な努力があった。神社界の中には私財の寄付す人や、借入金の計画など苦闘の連続であったと記録にはある。その証拠に「設立当初の校舎はすべて他校の古い校舎の移転」であった。
・ 大正13年6月「本館」が完成、いや移転された。この建物は「旧梅田高等女学校(現大手前高校)」の建物であった。この本館は室戸台風によって多少の損壊は受けたがその後も使われ、現在の私の執務室がある北館新築まで生きながらえたのである。
・ 旧本館には微笑ましいエピソードが残っている。梅田高女の卒業生が本校に立ち寄り、「懐かしの母校は生きていた」と校舎を手でなでていたと言う。そしてこの本館は37年の齢で取り壊された。
・ 当時の人々にとってまことにもって思い出深い建物だったのだと思う。記録には「模型」を残したと言うが、何処にも残っていない。あれば私はこれから建設する新校舎のロビーの何処かに陳列したのにと思う。
・ 私はこの旧本館に言いようも無く惹かれる。雰囲気の大変良い建物である。平成19年完成させた現在の正門はこの梅田高女の正門のイメージを参考にして設置したものである。
2011年5月1日日曜日
23年5月1日(日)本校の歴史その1:創立記念日
・ 「編集後記」に昭和48、6,8とあり、この頃私は住友金属工業入社後4年目で今回の震災で大きな被害を受けた鹿島製鉄所の駆け出しの技術者として走り回っていた。丁度昭和48年は「第一次オイルショック」があって日本経済が大打撃を受けた頃でもあった。トイレットペーパーの買占めに人々が走った頃である。
・ 末尾に「現教職員名簿」というのがあってそのお名前を追っていたが今や正職員として現在の本校に残っておられるのは教職員筆頭の笠井副校長と事務の女性職員のIさんだけとなっている。教職員の揃った記念写真があって私はこちらのほうも目で追ったが分からず、結局Iさんを呼んで指し示して貰った。副校長もIさんも若々しい。今から38年前の写真だから当たり前といったら当たり前である。
・ 字も小さく、一般的に学校の記念誌や周年誌は読みにくいものだから私は時を見てボツボツと本校の誕生から今日までを現代に生きる「私の想定と文章で辿る」こととした。これは本校で働く教職員、ならびに本校の高校生とその保護者、そして大阪府神社界の若い神職の人々向けである。
・ 実は今から87年前の大正12年4月30日、すなわち昨日なのだが旧制浪速中等学校は第一回目の入学式を挙行している。4月30日はそういう意味において本校にとって因縁の日なのである。
・ まず今日は「学校の創立記念日」の話題からブログを展開していこう。まず文句からだ。大体「創立記念日」と言ってどの学校も休業日にしているが、「この日は学校の歴史を振る返るくらいしたらどうだ」と言いたい。何のことはない、創立記念日とはただの休みなのである。恐らく生徒には関係ない話で授業をするぞと言ったら喜んで学校に来るのではないか。
・ 教職員がただ休みたいだけだと私は受け止めている。それは後述する体験をしているからだ。考えても見よ。創立記念日と記念日を使うなら「記念になるようなことをせよ」と言っても罰は当たるまい。面白いことに多くの学校が5月の連休のどこかに持ってきている。それはシリーズとして連休にしたいからである。
・ 前の府立高校で実際に体験した忘れられないことがあった。着任して1週間前後くらいではなかったか。当時府立高校は完全週休二日制がスタートし始めてどの学校も「授業時間の確保」に教務部はやっきとなっていた。
・ それで教務原案として創立記念日を授業日にすべく提案したのだが組合教員を中心に「コテンパン」に否定されて廃案となったのである。私は「びっくり仰天」し、「ああ、これが有名な職員会議というものか」と先行きを嘆息したのを忘れることは出来ない。
・ あれから5年経ったが本校でも前述したように創立記念日はある。今日5月1日である。本校とて例外ではなく、「何もしない記念日」である。しかし歴史の何処をチェックしても5月1日と学校創立日とは全く関係ない。今日のブログはここがポイントである。
・ 私は今一人静かに考えているのだが創立記念日を「あるべき姿」に変えたいと考えている。ところが「候補がいくつある」のだ。一つは明治15年11月4日に開設された「皇典研究所大阪分所」がスタートした時機を取るという考え方である。そうすれば本校の創立記念日は11月4日と言うことになる。
・ ちなみにこの年、明治15年明治天皇は児童生徒に日本の道徳を明らかにして「幼学綱要」を命じ、まとめられて、これが明治23年の「教育勅語」の煥発に繋がっている。明治維新を成し遂げ我国は前途洋洋「坂の上の雲」の時代であった。
・ 皇典研究所は明治41年に発展的に「大阪国学院」に名称変更し、夕陽丘に校舎を定めて「神職の養成機関」であると同時に「神道精神鼓吹の場」として今日まで存続してきている。現在の大阪国学院は本町の大阪府神社庁ビル内に移転している。
・ 随分前に(財)大阪国学院理事長で大阪府神社庁長、大阪天満宮宮司の寺井種伯先生に創立記念日のことを申し上げたら大層喜んでおられ「その通りですよ」と言われていた。本校はこの財団法人大阪国学院から分離独立した学校法人なのである。即ち「元の元は皇典研究所」なのだから創立記念日は明治15年11月4日ではないかという考え方である。
・ もう一つは実際に「浪速中学校がスタートした時期」を取る考え方である。大正12年2月28日、設立者、大阪国学院は中等学校の設置を出願した。そして驚くのは一ヵ月後の3月31日に「設立が認可」されている。法律でも何でも認可した瞬間から生きているから、そのように考えれば3月31日が創立記念日となる。
・ しかしまだ生徒はいない。4月17日に大阪府から教育主事であった大島鎮冶氏が「校長事務取扱」として着任された日を創立記念日とする考え方も妥当である。学校の責任者が存在した日は生徒が居ようが居まいが学校としての業務は開始されたのであるからだ。
・ そして4月30日に遂に待ちに待った第一回目の入学式が行われた。この日を創立記念日とする考え方もある。「少し違うが無理をしてこの日とする」ことも出来ないわけではない。しかしだ。一回目の入学式の日が創立記念日とは少し違う感じもする。
・ いずれにしてもこの問題は「微妙」だから一度理事会で議論してみたいと考えている。新校舎が完成したら「第二の創業」となるのでその時に変更する手はある。この方が自然かもしれない。私は個人的には11月4日が創立記念日だと思っている。
・ 日本全国、古い伝統ある学校は「曰く因縁の古い方」を取るのが一般的であるしその方が「歴史には正直」である。大学も同じようなものである。「古く、古く」したがる。その方が重みもあって良い。
・ 本校も明治15年11月4日とすれば本年で創立132年となる。ちなみに本校の「多聞尚学館」は旧千早赤阪村立多聞小学校であったが、この小学校は創立が明治7年千早尋常小学校の分校として設立されたから本校より古い歴史を誇っていた。
・ いずれにしても大正12年4月30日に実際に浪速中学校はスタートした。生徒の募集は府庁で行い、入学試験は「天王寺師範学校」で行ったとある。試験問題が残っていれば面白いのだが、今はそれを探す術さえない。
・ 校舎が間に合わず、結局今の高野線我孫子駅と沢之町の中間西側の「元工場の建屋」を借りて「東成郡墨江村仮校舎」と銘打って204名の生徒で「浪速中等学校は出発」したのである。
・ 私はこの地域の古い図面でこの仮校舎の址を探して歩いたがその面影は当然のことながら何処にもなかった。今は住宅街になっている。添付の古い写真を見ると他には建物など何もなく南海の高野線の電車が後ろを走っている。今から87年前の写真である。今は昔、今後このブログにおいて「浪速今昔物語」を語ることにしようと思う。






