2011年7月7日木曜日
23年7月7日(木)本校の歴史21「旧学院神社の盛衰」
・ ブログ20「伊勢大廟と伊勢修養学舎」に引き続いて本校のシンボル、アイデンティティの真髄とも言うべき「学院神社の盛衰」について力を入れて書いてみたい。学院神社の歴史である。
大正12年創立
昭和3年4月9日 校庭に参拝所において伊勢大廟参拝開始
昭和14年3月7日 (旧)神殿地鎮祭
昭和14年5月10日 (旧)神殿竣工祭
昭和21年2月2日 官国弊社廃止令により(旧)神殿撤去
昭和27年4月 神道科科目を設定 週1時間の授業開始
昭和28年10月31日 現神殿 学院神社竣工 創立30周年
昭和29年7月21日 第一回伊勢(修養)学舎が開始された
平成23年7月19日 第58回伊勢修養学舎の計画 58年間
・ 昭和14年に竣工した旧の社殿は一体どのようなものであったのだろうか。これについては貴重な当に貴重な写真が一枚残っており添付の写真をご覧頂きたいと思う。この写真原版は大切に保管している。
・ 今から3年ほど前に近くの神社の宮司さんが私に直接くれたもので、旧制浪速中学校の卒業生である。かなり痛んでいたが私はそれを再生して額に入れ部屋の壁に飾っているのである。これを見ても本当に「大きくて立派な社殿」であったことが分かる。
・ これに比べれば今の学院神社の社殿などは可哀想なくらい小さくて造りも粗末であると言わざるを得ない。竣工した旧社殿は昭和14年完成した。前のブログで浪速中学の「どん底」が昭和9年と私は書いた。それはこの年、第二代内田校長先生は亡くなり、その1週間後に室戸台風で校舎の70%が倒壊し、「浪中廃校」の噂が府内を駆け巡った時代であった。
・ しかしここから浪速中学は「息を吹き返して」て行くのである。例えば入学者数で言えば60名、130、217、205,203,228と年毎に増えていった。学校経営は安定飛行に入ったのだと思う。そして昭和14年になった。
・ 財務的にも余裕が出てきた理事会は満を持して「宿願の学院神社の建設」に踏み込んでいったのであろう。貴重な写真が残っているが「旧社殿の上棟祭」の様子を写したものである。神社界の神職や全校生徒が打ち揃って上棟祭に望んでいる顔はどれも誇らしく見える。柱も太くて、私は当時の社寺建築の様子もこの写真から窺うことが出来る。
・ しかし運命の歯車は戦争によって狂うこととなった。この誇れる社殿を撤去しなければならなくなったのである。敗戦に伴う日本の「国体の変革」を望む連合軍側は日本文化の転換、まず天皇制、そして神道の排除、神社の無力化を図る中で本校の社殿も犠牲となったのである。
・ 昭和14年の神殿について当時の寶來正信理事長が次のように一文を残されている。極めて重要なものだからここに再掲したい。
“元校庭のバックネットの所に大きな社殿がありました。普通の神社でもあれだけ大きな社殿は少ないと言われるほどの立派なものでした。処が不幸にも終戦の結果、占領軍が進駐して来まして近くの杉本町商大(現大阪市立大学)のところに進駐軍駐屯の本部が出来て、絶えずジープが通る。其の都度校庭の大きな社殿が目に付く。当時昭和20年11月15日有名な神道指令が占領軍から日本政府に出ました。国家神道を無くして神社と国家政治というものを切り離す目的でした。(中略)そういう精神から本校に社殿があるのはけしからん、直ぐに取り除けという命令が来ました。当時の学校長も心配して指令に従いましょうと、何回も相談されたのですが、当時も理事長であった私は公立ならいざ知らず、本校が社殿を取り除くことは建学の精神に反し、学校をつぶすのと同然だと言い張りました。そこで当時の府の教育部長後に副知事になられた大塚氏に相談し教育課に尋ねましたが府庁もその決断に困り、文部省に伺いを立てたらこれは地方問題だから府で解決せよということで大塚氏とも相談した結果、余り進駐軍にたてついても後の為に良くないだろうから一先ず取り除こうということになり、理事会に諮りましたら、理事の人たちも非常に憤慨してそんなら焼き払ってしまおうという人も出て来ましたが、それは余り穏やかではないから戦災神社に譲ろうという事に衆議一致したという激論の一幕もありました。神社と言う形は無くとも精神は何時までも残りいつか時期を見て復興することにしました。今の社殿は創立30周年記念にささやかながら復興したものです。”
・ 又50年史には当時の理事長であった園克巳理事長の一文は次の通りである。この方は寶來理事長を補佐してその後を引き継いだお方である。
“終戦当時マッカーサーの指令は厳しく神社信仰についてはやかましく国家神道廃止令が出ました。そして各神社は取り壊されました。学校の神社は置いてほしいと大塚副知事にお願いしました。前理事長寶來先生と和泉の天然記念物保護委員の方々も尽力されました。そしていっそのこと神社を売ってはどうかの意見も出ました。当時大阪の殆どの神社は焼けていました。撤去し瓦礫の上に小さな祠を造りました。”
・ 以上の文章ですべてが判る。さぞかし悔しい思いをされたのであろう。「泣く子とGHQには勝てない悔しさ」を残った文章から分かるではないか。私は最後の最後まで戦った寶來理事長に最大限の敬意を表したいと思う。
・ 最後の一文にある“ささやかながら復興した”に私は撤去した旧神殿の大きさと立派さを思いやりながら目の前に有る小さな社を見て複雑な思いが去来したであろう寶來理事長のお心が大変良く分かるのである。
・ 私は寶來理事長の無念の思いを汲み取り「平成の新校舎建設時には旧社殿と寸分違わぬ立派な神社の社殿を設置する」ことを改めて誓ったのである。其のことが昭和14年に苦労して社殿を設置した大阪府神社界の先人、そして泣く泣く社殿を撤去した人々に報いることだと思うのである。
・ さて旧神殿は解体されてその後どのような運命を辿ったのであろうか。今でも何処かに生き続けているのではないだろうか。私は旧神殿の後を追ったのである。しかし旧社殿は「悲劇的な運命」が待ち受けていたのである。
・ 旧社殿は経緯の程は知らないが市内「玉出の生根神社」の本殿として使われるべく移転されたと言う。私は休みに一人で生根神社にお参りして社殿を探したことがあった。しかしその時には社殿を確認することは出来ず放置していた。
・ 諦め切れない私は過日生根神社の宮司さんに電話して当時の事情を直接伺ったのである。「やー、あの社殿は立派なものでした。大いに助かりました。生根神社において昭和22年から昭和39年頃まで使われました。その後昭和41年に着工して昭和43年に竣工したのが今の鉄筋コンクリート製の社殿ですから、その前となると昭和39年頃に東住吉の鷹合神社さんにお譲りしました」とお話いただいたのである。
・ この話を聞いて私は車で東住吉鷹合にあるスサノウの命神社、通称鷹合神社に飛んだのである。そして宮司様から聞かされたお話は驚愕であった。「それは木造の大変立派な社殿でしたよ。生根神社さんから39年に譲り受けて、間もない時でした。昭和40年1月の寒い深夜に出火し全焼したのです。警察の調べでは放火ということでした。結局犯人は分からず仕舞いでしたが大変残念なことでした。私も飛び起きて消火に走りましたが木造故に火の回りが早くて。あの神社は社殿の周りをぐるりと廊下が回っており品格がありました。中に入るとヒノキの香りがして今でもあの社殿のことは覚えています」と87歳になられる宮司は言われたのである。