2011年9月15日木曜日

23年9月15日(木)2枚の洗心亭表示板








・ 10月29日(土)に予定している「浪速武道館お茶室洗心亭披き」の準備が着々と進んでいる。後世の為にお茶室と茶道部のこと、そしてお茶室披きについて歴史の証人として又当事者として記録に残しておきたいと思う。

・ 今私は「大正時代からの本校の歴史」を纏めているが本当に苦労している。資料が無いからだ。又残っていても表面的だけのもの、公式的なもの等々でその奥底で動いた人間模様とか詳細な経緯などは知る由も無い。

・ 数十年後人が入れ替わった時にこのお茶室洗心亭の経緯について、その時代の人々は知ることが出来ない。私は自分の言葉で「お茶室の歴史」を纏めて浪速に関係する後世の人々の為に記録を残すことを決めた。今日からシリーズとして記述する。


・ お茶室披きについては当初、3月13日(日)の浪速武道館竣工祭典後の5月連休明けにでも実施する予定であったが東日本大震災が起きて自粛した。しかし何とかお茶室の完成した年内に実施したいと理事長職務代理の南坊城先生ともご相談し10月29日に決めたのである。

・ 5月からは武道館横にクラブハウス、カフェテリア、予備教室の工事が始まりその完成は8月末となる。又11月には表千家では同門会大阪大会があって大阪の茶道に関係している人は時間がままならないと言うこともあった。

・ 又学校は9月には浪速祭、11月には海外修学旅行や12月にはロンドンでの語学研修もあったりで時間は取れそうに無かったからただ一点10月29日しか可能性は無かったと言える。


・ ご自身がお茶人でもある道明寺天満宮宮司で本校理事長職務代理の南坊城宮司と私はこのお茶室披きについては密接に連絡しあいながら今日まで来た。まず外部指導者を探して貰わないといけない。私は理事長職務代理に一任した。

・ 関東であれば身近に茶道の外部指導者は存じ上げているが大阪では知己がいない。色々な人選の経緯もあったが最終的に本校茶道部の外部指導者は河内長野市にご在住の玉永清枝先生と決まった。

・ 玉永先生は大阪でも大変高名な指導者であり華道「真養未生流」のお家元でもある。11月の表千家同門会大阪大会ではご社中を引きつれ、和泉市の久保惣美術館内のお茶室で一席をご担当される。大変立派な指導者を得て私は大いに喜んだのである。


・ 茶席披きには私の要望で「本席と立礼席の2席を立てる」こととした。それで応援として藤井寺市の南坊城ご社中が立礼席をご担当になられることになった。理事長職務代理のご母堂である。玉永先生と南坊城先生は「盟友」であらせられる。

・ このお二人は表千家では大阪を代表するお茶人であり指導者であるが、お年も80歳を有に超えられて未だ「かくしゃく」とされているから立派である。私は何時もお二人には「謦咳に接する」という思いでいる。尊敬して止まない。

・ 私はまず昨年末に大阪同門会事務局を訪問し正式に「学校茶道登録申請」を行った。平成23年2月4日財団法人「不審菴」より「学校番号2218」として登録された旨の通知書を頂いた。これで「正式な表千家の一員」になったと考え、全ての作業をスタートさせたのである。


・ お茶室洗心亭のネーミングについては後世の為に正しく記しておかねばならない。私はこの広間のお茶室の名付けは是非とも南坊城理事長職務代理に考えて頂こうと決めていた。建設に着手する前から考えていたことである。

・ 「学校改革」を共に推し進めてきた同志であり私の最大の支援者でもある。この人が私を実質浪速に招聘した張本人でもある。南坊城充興、昭和18年生まれ、國學院大學文学部卒業、大宰府天満宮を経て祖父の代から続く道明寺天満宮の宮司に昭和51年に就任。煎茶花月菴会長、その他公職多数。

・ 言って見れば二人は「義兄弟」みたいな者で兄貴分が宮司だ。お茶室披きの時に着る「お召しの着物」もお揃いのものを既に作っている。とにかく人格高潔にして常に前向きなお方で本校を本当に愛して頂いている。

・ 「国宝が5点」もあって由緒ある道明寺天満宮の宮司職にもある南坊城先生は自らがお茶人でもあり、ご母堂様が有名な指導者であることは前述した。一度見せて頂いたが「お道具」も素晴らしい物ばかりであった。今年亡くなられた久田宗匠の高弟である。

・ 宮司は名付け親を固辞されたが私は押し切った。様々に考えられた宮司は最初「洗心庵」を提案された。しかしどうもしっくりしないという思いから「洗心軒」という案も出てきた。私は「ラーメン屋」さんみたいで嫌だとはっきり言ったのを覚えている。今や二人はこのような言いたいことが言える間柄なのである。

・ 宮司はお家元を囲む「大阪而妙会」の有力メンバーでもあって、結局直々に千宗左お家元に相談された。そしてお家元から「亭が良し」となって「洗心亭」となったというのが経緯である。私は宮司とお家元の合作とも言うべき「洗心亭」を「カチッ」と受け止めた。大変名誉で嬉しかった。

・ 後は宮司よりお家元に「揮毫」頂く段取りに入って宮司は表千家の「お玄関」(内弟子)を通じて素晴らしい「洗心亭と花押入り」の書を頂いた。全ては「南坊城宮司のお働き」に拠るものである。一学校にお家元から書を戴くなど滅多なことではない。

・ 「書」を頂いた私は、これを「板に彫るか扁額」にするか迷ったが、結局格が一段高い扁額にすべきと判断し、京都の茶道専門の表装屋さんである「春風堂」さんに依頼したのである。

・ 春風堂の社長さんとのやり取りが色々あって「お家元の揮毫は従来このようにしています」とか言われ、良く分からない私はすべてをお任せした。「扁額」が手許に届いたのが武道館竣工の1週間前であった。設置する場所は玉永先生のご指示に従った。


・ ここで本校にはもう一枚「洗心亭」の木彫りの名板があることを記しておかねばならない。お家元の手による「洗心亭」とは扁額とは別に「洗心亭の木彫りの看板」がある。これは和室入り口にかけてあるものだ。

・ 私はあくまで南坊城先生に拘った。洗心の言葉は理事長職務代理が考えてくれたものである。私は「是非」にと言って宮司に書をお願いした。これを兼ねてから存じ上げている大阪を代表する大阪欄間の山田伝統工芸士にお願いして彫って貰ったのである。

・ 宮司のご母堂は「この件について意見」を出されたと聞いたが、私はあれは浪速武道館の錬武館、尚武館、玄武館と同じ「道案内標示」に相当するものである、お家元の扁額はまさしくお茶室の内部に掲げているもので意味が異なると申し上げたのである。そういう訳で浪速武道館には2種類の「洗心亭」の表示がある。経緯はここに記述したとおりである。

・ そして平成23年3月11日、大震災の当日になる。お茶室で生徒たちと2日後に控えた竣工祭の準備に追われていた時に「床の間の掛け軸がゆらゆらと揺れた」がその時はまさかあのような大震災になっているとは夢にも思わなかった。

・ 結局私は被災状況のすさまじさを知り、竣工記念パーティは中止し記念式典だけはやらせて貰った。平成23年3月13日日曜日のことであった。この日の堺ロイヤルホテルで計画していた「祝宴」は自粛し、又お茶室披きも無期延期することとしたのである。