2011年2月20日日曜日

23年2月20日(日)曽野綾子先生の「戒老禄」

・ 2月8日のブログが「老いの坂」で今日が「戒老録」だから年寄りっぽい話ばかりで恐縮である。私には「年寄り好き」みたいなところがあって、話題もついついそのような方向に行くのである。

・ どちらかというと若者よりも年寄りが幾分好きかも知れない。又一時期「年寄りキラー」といわれるほど年配者に気に入られていたようにも感じる。その分同年輩には敬遠されたが。
・ 学校の校長が若者より年寄りが好きだというのはいささか問題であるが、年寄りを尊敬し大事に扱わないような組織は駄目である。生徒たちにもそれだけは伝えていきたいと思っている。「姨捨山」は絶対にいけないのである。
・ 私が勤めた住友金属という会社は実に先輩を大切にする会社であった。この会社で良いことを学んだと思っている。それに対して学校というのは一体どうなんだろうかと考えてしまう。先輩を大切にする学校の気風というのは本当にあるのか。
・ 人は私のことを「若い」といってくれるが本当は体の随所に「老い」を感じている。他人には分からないだけの話である。「どこがどうだ」などといちいち悪いところは書かないが60歳を超えてから急激に体力が落ちてきていることを知る。
・ それで体力が落ちると気力も落ちてくるということが分かった。「気力で頑張れ」と簡単にいう人が居るが、すでに十分気力で頑張っているのだから、それ以上頑張れといわれたら「もうエネルギーはありません。全部使って頑張っています」としか答えようが無い。やはり気力よりも体力だろうと分かってきたのである。

・ 「老害」という言葉がある。肉体的衰えによる害ではなくて、「心の持ち方による害」である。これは人に言われるまでも無く組織の中で生きてきたから先輩や上司を見ていると大変良く分かるのである。一言で言えばいわゆる年寄りが「老害」を撒き散らせてはいけない。
・ 老害こそ最も組織のトップが考えねばならないことである。政治家の世界も経済界も同じである。ましてそのトップが大きな業績を上げて「中興の祖」とか「再生させた神様」などと言われたら注意信号である。

・ ところで教育界においてはこの種の老害という話は余り聞いたことがない。このことは逆に目立つ業績をあげ、それが金字塔として衆目に一致し皆が賞賛するという風土体ではないということを意味している。

・ 教育界ではそういうことはない。皆で公平に均等に分かち合うから、勝利や敗北という観念が元々ないし、大体「勝った、負けた」が無い世界なのである。だから「功なり名を上げて君臨し」しかる後に「徐々に老害現象」が出てくるという構図がないのであろう。

・ それにやはり教育界は公立学校優位の日本だから、まず公立教職員の60歳定年制が大きく効果を上げているという面もあろう。60歳でバイバイだから老害を撒き散らそうにも出来ないのである。あの人は終わった人でお仕舞いである。

・ 要注意は私立学校である。これは公務員で無いから内規はあっても経営者の定年など無いわけでこの道一筋40年などという私立のトップは存在し得るし現実に多い。ここに老害の芽は出てくる可能性がある。老害だけならまだ良いが学校を潰すようなことになったら大変である。

・ 昨年末書店で一つの日めくりカレンダーを目にした。税込み1200円だから安い。曽野綾子さんの「戒老録」という字句に惹かれて求めたのであるが、これも自分自身への自戒の念が合ったのだろうと思う。老害ではなくて今後老害があってはならないというために求めたのである。
・ これが実に様々なことを教えてくれる。尾篭な話で恐縮であるがこのカレンダーは自宅のトイレにかけてあるのだが日々これを読みながら「気をつけよう」と確認しているのである。
・ カレンダーの冒頭には曽野先生が以下のように記されている。少し長いが前文を記載しよう。ネットにはあるから著作権侵害の問題はなかろう。

  一日のはじめに:

  若い方がいいと人は誰でもが言うし、それは単純な真実だ。若い人は美しく強く活力に満ちている。しかし複雑な真実はそうでもない。私たちは私たちが立っている現在の地点と時点を愛し、それをいとおしみ、それを貴重に思って生きる他はないのである。

  私は過程に生きている。だから過程に死ぬだろう。過程に学び、過程に迷い、過程に愛し、過程に見苦しく振る舞うのが人間の生きる自然の姿なのだと思う。

  人間は最後まで不完全である。それでいいのだろう。自分が完全だと思っている人なんて恐ろしくて付き合う気にもならない。しかし自信がないままに生涯を終わるということは本当に自然である。私はその人並みの自由を享受して感謝して死にたいのである。

・ カレンダーの一日目は「他人がして“くれる”こと、“してくれること”を期待してはいけない。」である。五日目には「何事にも感謝をあらわさねばならない。感謝の表現があるところにはどんな境遇でも陽がさしてくる」という具合である。時々「ドキッ」とするところがあるのだ。

・ そうしていたら1月27日の読売夕刊に曽野先生の記事が出ていた。私はこの先生を尊敬している。飛びつくように読んだのである。「老いて得た自由・開放感」「人の評価 気にしない」が表題である。先生のベストセラー「老いの才覚」のインタビュウーものだと思う。
・ とにかく中身が面白いというかすっと心に入ってくるのである。年齢とともに得るものは何かという問いに先生は以下のように答えておられる。「自由です。生きてもせいぜいあと何年と思えば、お金も自由に使える。それから人から良く思われようと悪く思われないようにという開放感です。おかげさまで人の悪口を言うのが上手になりました。「いい人」でいるのは大変です。身動きがとれなくなる。大して良くも悪くも無いんです、人間って。」
・ 更に続く。日本は国家財政が危機的で経済も停滞し皆自信をなくしているように見えます。閉塞感を打ち破るヒントはありますかのお答えは以下の通りであった。「電気や水が絶えることなく使えて、警察や交通機関は責任があって信用できます。こんないい国はありません。日本の悪口を言う人は、どうぞ出て行って下さいと言いたい。途上国では乾いた場所で眠ることが出来ない人がたくさんいる。私は「雨の日も雨漏りしないところで乾いた布団に眠れて幸せ」と何時も思います。

日本人は今あるものを数えず、ないものばかりを数えています。引き算の生き方では幸福にはなれません。」

・ 曽野先生の素晴しい文章である。しかし私は年は取ったが、未だに開放感や自由を満喫しているとはどう考えても思えない。ただ自分の責任としてその職にある限り「言いたいことは自由に言いたい」のである。それは間違いなく老害ではなくて、「次の世代への申し送り」なのである。