・ 2月11日の大阪日日に「教員と学生の距離」「関係の築き方に変化」との見出しで私にとって要注意の記事が出ていた。「赤信号の点滅」に近い記事である。近畿大学文芸学部准教授の金井啓子先生の投稿記事なのだが内容を読んで考えさせられるものがあったのである。
・ 記事の内容は先生のゼミでの経験から論考されているものである。先生は学生に春休みの宿題を出されたそうだ。その宿題とは「毎週土曜日に先生宛メールを送ること」というものである。内容も形式も長さも全く自由でパソコンからでも携帯電話からでも自由だというのである。
・ これってパワハラには成らないの?先生は女性だから問題とはならないがこれが男性教授だったらセクハラにならないのか?等々つまらない思いをするのだ。大体休日の土曜日にメールを送れというのは許されるのか。色々と疑問が沸いてくる。
・ 以上がまず冒頭出てくる記事内容である。私は正直言って驚いた。「まじッ?」ってところである。金井先生はいう、このようなことを思いついたのは「深い理由は無い」と。就職活動が忙しくなるから多忙になる学生のことを考え、「彼らの近況を知るためにメールでやりとり」すれば良いと思ったといわれるのである。深い理由はないのだ。
・ そしてこの大学の女性准教授とゼミの学生のメールのやり取りが始まったという。先生は続けて書いておられる。「こんなに面白いならもっと早く始めておれば良かった」と。そこから本題に話は入っていく。
・ メールのやり取りの当初は「言葉使いがかなり砕けていた」らしいが「多くのメールに絵文字や顔文字」などが入っていて戸惑ったと書いておられる。先生に何かの事で謝罪しなければならない時でも学生からのメールには顔文字がズラッと並ぶそうだ。
・ 先生は「なんでこんなに軽いのか」と腹を立てたと書いておられるが、私にすればそのように仕向けられたのは先生ではないのかなという疑問が消えない。記事はまだ続いて今日的大学生は「内と外を使い分ける」事を知っているとし学生にとって教授は今や「内の人」として存在しているのだと分かったといわれているのである。
・ 大学のゼミの教授に対して内の人という扱いでそれは親子関係が友達のようになっている影響があるかも知れないし、メールの誕生がその役割を果たしたと結論されているが私は「ウーン」という感じである。論理の展開にも理解しがたいところがある。
・ 私はもう「古いタイプの人間」になったのかも知れないが、まず大学教授とゼミの学生が絵文字入りのメールでやりとりするという光景そのものが受け入れられない。教授と学生はそういう関係論に立ってはならないというのが私の意見である。
・ 大学教授も高校の教員も同じ教員であり、それを特定の学生・生徒とメールの交換があるような関係は好ましくない。まして絵文字や顔文字でメールを交換するなどあってはならないと私は断言する。
・ 携帯電話のメールは電話機能だけの話し会話と根本的に「質が異なるもの」である。話し言葉は「しゃべって終わればそれでお仕舞い」であるがメールは文字そのものが残存する。「余韻を放つ」のである。
・ 日本は「言霊の国」といって言葉そのものが生き続けていく。メールの交換で単なる情報のやり取りを超えて「感情のやり取り」に発展する危険性がある。特に教員という生業(なりわい)を職業にする人々には気をつけなければならない。
・ 「先生、実は折り入って相談したいことがあります。どこかでお会いできませんか」となったらそれは「危険信号」である。逆に教員の方から「落ちついて話ししよう、忙しいが、来週の日曜日市内の何処かで会おう」となったらもう破滅への道を歩んでいる。お仕舞いである。
・ 一時期、夜の飲食業で働いている女性が「しばらく会っていないわ。今夜にでも来て」などと「ハートマーク」でも付けてメールを寄こせば世の男どもは一目散に駆けつけると言った週刊誌の記事を見かけたことがあるが分かるような気がする。
・ 昨年の秋、近隣の私立高校で教員が生徒と進路のことで揉め、親から金銭を要求されたという記事が新聞に出ていたが、その教員は生徒へのメールにハートマークを付けていたという。これでは勝負にならない。完全に負けである。
・ 「教員と学生の距離」は絶対的なあるべき原則があるのではないか。まず「基本は近寄りすぎてはいけない」という鉄則である。教室、職員室、学校の廊下、運動場、校内のクラブ指導現場などに限るべきで、それ以外で生徒と教師という立ち位置構造が崩れるような形は厳禁である。
・ 従って学外、校外で「相談に乗る」という形で二人だけで生徒と会うというのは許されない行為である。まして「メールは厳禁」である。そのような硬いことを言ったら「生徒は逃げ、不登校になってしまう」「もっと親身になって面倒をみる」ためにもメールは許されるのではないかとは理屈はあるかもしれないが「電話では駄目なのか」と私は切り返す。
・ 今大相撲の八百長事件で大きなキーが携帯電話でのメールのやり取りであるが中には頑として携帯電話の提供を拒んでいるものがいるという。携帯電話はこれ以上ないくらいの文明の利器ではあるが一歩間違えば犯罪の温床になっているのである。
・ それは携帯電話での会話のやり取りやメール交換が全く誰にも分からない「闇から闇の情報や言語のやり取り」だからである。一昔前は家の電話に1時間も2時間も子どもが友達と会話している光景は日常茶飯事であったが親は安心して見ていたのである。
・ ところが今や親も子どもの携帯の中身を知ることさえ困難になってきている。子どもが誰とどのような関係を結び会話しているのかさっぱり分からないのである。家族関係が変質していく理由の一つになっているのかも知れない。
・ とにかく教員と生徒の間のメールは本校では厳禁とする。「生徒の安全を守る為論」が幅を利かせて生徒の携帯電話番号の把握がなされているかも知れないがそれとて私は幾分疑問があるのである。
・ 又管理職の許可なく教員と生徒が二人だけで校外で会うことは厳禁である。これは本校の就業規則からして懲戒対象の行為である。特に部活動を熱心に行っている教員は気を付けなければならない。とにかく教師と学生・生徒の間には渡ってはならない川があるのである。
・ 大学だろうが高校だろうが中学だろうが教員と生徒との関係位置は「或る線から近寄ってはならない」ものがある。実はそのことは教員の教育効果を高める」ということと「教員を守る」という意味合いもあるのである。
・ 私は金井先生のように1週間に一回メールを寄こせなどという考えが理解できないのである。それは教師と学生生徒との関係を自ら破壊する行為だと思うからである。教師にはある面「神秘性」が有ったほうが良い。その神秘性こそ教師を一段高いところに自らを置くことが出来るのである。
・ 教員が学生・生徒と友達感覚であってはならないというのが私の考えである。教員は生徒と友達ではない。教師は教師である。生徒と友達感覚の教員に1円たりとも言えども給料を支払う気にはなれない。当たり前ではないのか?私が間違っているだろうか?
・ 教員が生徒とメールしハートマークはいざ知らず、顔文字やデコメールなどを使っているのを想像しただけで私は「反吐が出る」ような気がするのである。一昔前には携帯電話などなかった。それでも立派な教師は大勢居たのである。コミニュケーションというのは実はツールではなくて先生の気持ちの持ち方なのではないか。
