・ ちなみに最も好きな評論家は屋山太郎さんである。この人は尊敬に値する。テレビに出ずっぱりの頭の毛の薄い三宅久之さんも面白いがこの人は幾分人情論的でいま一つ論理性が伝わって来ない。まあもうお年なのだろう。
・ 前述した毎日新聞の岩見さんが「近聞遠見」というコラムで「熟議という新しい思想」のタイトルで一文を出されていた。この方は文章がお上手である。最近「熟議」という言葉をよく耳にするようになった。それを題材にされているのである。
・ 私のブログの読者はいかがですか。「言霊の国」日本だから言葉に敏感でなければならないと私は強烈な信念を持っており、新しい言葉や知らない言い回しの言葉があればすぐ調べることにしている。熟議という言葉も相当調べたのである。
・ この熟議という言葉、菅総理大臣は施政方針演説で「今度こそ熟議の国会となるよう・・・」と野党議員に呼びかけたから又一段と知られるようになったが一般にはまだ流行っているとは言えない。
・ しかしこの熟議という言葉は元々「教育界から発された言葉」である。言い出しっぺは民主党の東京選挙区の参議院議員鈴木寛氏で、氏は民主党政権発足時から副文部科学大臣を務める未来のホープと言われている人材の一人である。彼がこの熟議という言葉の生みの親である。
・ 従って教育界ではすでに鈴木副大臣のもと多様な熟議教育論が出てきており、昨年9月には「熟議で日本の教育を変える」(小学館)を刊行している。文部科学省のホームページを見ると鈴木副大臣に活動や考え方が良く分かるから一度検索するのも有効である。
・ 元々この熟議というのは90年代に欧米で考えられたものらしく「熟議の民主主義」という考え方である。「投票し多数決で」物事を決めると言う「集計民主主義」が硬直化の傾向にあり数に対する信奉は「選挙至上主義」にも繋がったとの反省があるからである。
・ 鈴木氏によればドイツの社会学者でコミニュケーション論の第一人者ユンゲル・ハーバーマスが言い出した言葉というが背景には「民主的手続きの中でナチスが出てきた」ことを反省し熟議が必要と強調したらしい。
・ 大衆民主主義における議会での政治的討議はそれだけでは見世物になってしまうと指摘したそうだ。全くその通りで政治の場が国会からテレビに移っているのが日本の現状である。
・ BSの「プライムニュース」はまだ見られるが、最近の「ビートタケシのTVタックル」や爆笑問題の何とかという番組、「たかじんのそこまで言って委員会」などは政治を劇場化して深みのないお笑いで締めるという全く熟議などには程遠いのである。
・ 民意をバランスよく吸収するには多数決という固定化したシステムだけでは難しいことは理解する。多数決とは結局のところ既得権益を守っていることである。これにも100%同調する。
・ だから議会の多数決を打ち壊すために橋下知事は維新の会を立ち上げて議会の多数派を占めたいと今躍起になっている。名古屋の河村市長も議会解散の勝負に出て勝った。鹿児島県阿久根市の市長は議会を開かず「専決処分」を繰り返した。このように「多数決という限界」がようやく社会に認知され始めたということである。
・ これらに対して穏便な方法として熟議が考え出されたのだが、次の言葉が重要であり、熟議とは熟慮して議論すること、熱した議論という意味ではなくて、てクールでまず自分の考えを磨き、温め、煮詰め、それから他者との議論に臨む必要がある。他者を批判する前に自分を真剣に問いかけることが必要なのであると書いている。ここがポイントなのである。
・ そうなると現場では熟議は難しい。鈴木副大臣は教育行政のエクスパートで東大卒、中央官庁に入ってキャリアを積んだ人だから熟議などと言えるが一般の教育現場にいるものにとって実態は少し違うと言いたい。
・ 確かに多数決が学校を駄目にしたことは厳然たる事実である。職員会議を特定のグループに属する教員集団によって牛耳られ、全てが「多数決の論理」で学校の中身は決められて行ったのである。そこには校長と言えども「今日は多数決で負けてしまった」と平気の平左でいうような校長が現実に存在しているということに気が付かないといけない。
・ だからと言って「職員会議の議論が熟議になるかと言えば実態はそうではない」のである。余りにも教員は社会のことを知らず、データを有していない。従って一つの方案について深い洞察力や見識を問うことは不可能に近いのである。
・ 確かに生徒指導や教務、進路指導部など学校分掌に精通したベテラン教諭はいるのだがその人の案がそのまま学校案にはならない。多くの手続きを経て職員会議に上がってくるのである。その過程で様々な要因が働いて当初とは違う案に化けることも珍しくは無い。又良い案が通るとは限らないのである。
・ いずれにしても新採用の若い教員にも一票が割り当てられるから全く経験も見識も持てていない教員と一部のベテランで熟議など有り得ない話なのである。そこに特定のグループに属する教員が絡んだりするとますます熟議にはならない。
・ 教員は挙手による多数決が大好きであるが、それが「民主的」と思っているだけの話で熟議など意識はしていないのである。見掛けの熟議で物事を決めたというスタイルは個人の責任ではない、集団の責任であるということなのである。熟議して皆で決めたということが気を楽にするのである。すなわち誰にも責任がないからである。
・ 私は前の学校においても勉強し、経験を踏んだ「司、司に任せよう」と言っても駄目だった。分掌の長を厳粛に選挙で選んでおいてなおかつその人から出てきた案を全員で採決するというまさに「コミューン化した職員会議」の場で熟議など出来るはずがない。
・ ましてや月に2回の職員会議、それも時間は長くてせいぜい2時間だからこの時間で熟議は無理であるし、然らば事前にと言っても教員は仕事が済んだら一刻も早く帰りたいと思っている人々だから勤務時間後に上司が会合を設定するなどは労働基準法から言っても無理なのである。
・ 現代社会において熟議というプロセスは言うは易く行うは難しである。見せ掛けだけの熟議が学校社会を損傷せしめた。教員の好きな「民主的」というプロセスが学校を駄目にしたのである。
・ 中央政界を見ると良い。国会議員が熟議をして国の政策を決定しているか。党利党略でしかないではないか。人は橋下知事を独裁者と言い、名古屋の河村市長も独裁者という。しかし私は全くそうだとは思わないのである。
・ 日本もぼつぼつ新しい意思決定の方法を模索しなければならない時期に来ているのだと思う。議院内閣制の限界ではないか。今地方の首長が面白いのは直接投票による絶対権限を得ているからである。
・ それと同じように学校社会も新しい意思決定の方法を考えるべき時期だと私は思うのである。一人ひとりの教員が参画意識を有して元気一杯充実して働き、余裕時間を作り出せるようなベクトルの調整と最終意思決定の方法はどうあるべきなのか、何時も頭を悩ませているのである。
| 校務運営委員会 |
・ 私は独裁者ではない。しかしそのように思っている内外の人は居るかも知れない。だからといって全教職員の多数決で学校の意思を決めることは死んでもやらない。20歳代前半のまだ経験の薄い教員、55歳を過ぎた一応ベテランと言われる教員何時も発想が組合的な教員、日和見的な教員、まじめに頑張ってくれている教員と実に様々な教員の思考をベースにした多数決の意味はどこにあるのかと何時も自問自答しているのである。
| 職員会議 |
