2010年12月15日水曜日

12月15日(水)その1:英語というものを考える

 ここハミルトン市で滞在しているホテルでの一人夕食でサーブしてくれる女性に「この国は羊の数の方が人間より多いと聞くから、今晩はラム(羊肉)250グラムにするわ」と言ったらこのウエイターは「大笑い」した。僕は、見事に笑いを取ったのである。勿論言語は英語でなければならない。
12月14日の夕食で食べた羊のステーキ250グラム
最近副校長がしきりに言うことは先月11月の「海外修学旅行の成功は校長のお陰であった」と言うことである。実は今までオープンにして来なかったがパリで一人の生徒が発熱し急遽市内の大きな病院に入院させたのである。帰国前日のことであり結果的は一日遅れで第2班と一緒に帰れたのであるが、当初は悲劇的で数日経過観察が必要と言うのである。病院のドクターが頑として言うことを聞いてくれなかったのである。僕は病院に乗り込んでドクターと喧々諤々論争して「頼むから退院させて欲しい」と理屈を立てて、口角泡を飛ばしてお願いしたのであるが、何回頼んでも駄目だという。仕舞いには諦めて、もし駄目な時には校長はこの生徒に付き合って2ないし3日、場合によっては1週間くらい遅れて帰国することを覚悟したがもしそうなれば結果的に本校初の「海外修学旅行は失敗だったと副校長は言っているのである。この時も僕の英語がフル回転した。

僕は英語という言語が好きである。特に高校時代は嫌いな教科と言うものが無く、すべての教科がよく出来たと思うが特に英語が出来たと思う。確かに良く勉強した記憶がある。それは高校時代の英語の先生が可愛がってくれその分一生懸命になったのだと今分かる。人生の英語能力は高校時代に培われるというのが僕の意見である。確かに企業に入社して当時の事ゆえ、誰彼というわけにはいかなかったがニューヨークに駐在する幸運な経験が僕の英語能力を磨いたとは思うがすべての基礎は高校時代である言って間違いなかろう。それくらい高校英語は重要だと思っている。

だからであろう。日本を離れてここニュージーランドでたった一人考え、どうしてこの僕は海外修学旅行に拘ったり、海外語学研修に力を入れるのかという答えが見つかったのである。勿論背景には大阪府の橋下知事の進める改革で来年度から私立高校授業料無償化拡大の施策でますます特徴ある私学教育の発信の必要性の一つにこの語学研修が無いと言えば嘘になるが、それだけではないのである。英語を学ぶと言うことは単にしゃべると言うことだけではなくて僕流に言えば「積極人間」「物怖じしない人間作り」に一役買っていると考えているからである。

一昔前の僕らの世代には逆に英語をしゃべることがいけないようなムードがあったりしてぺらぺら英語をしゃべろうものなら尊敬どころが馬鹿にされるような雰囲気はなかったか。「英語など海外におれば赤ん坊までしゃべっているよ」とかなんとか言って自分がしゃべれないことを照れ隠しだろうが、平気で言っていた輩もさすがに今では自分の子どもに「英語くらいわなー」などとのたまっているのである。

自分も企業時代になまじっか英語がしゃべれたからだろうか、段々と敵が増えて言ったような気がする。そう思いたいのである。確かに日本では英語がぺらぺらしゃべれる社長は少ないのではないか。もっと言えば日本語でも余りしゃべらない、しゃべれない方が組織では偉くなっているのではないかと言えば又物議を醸すか。

通訳を立て、メモを見ながら外国の指導層と会談する管総理の姿は一抹の寂しさを多くの日本人が感じている。どの国であろうと、一国のトップは英語で外交の会談しているのである。英語がしゃべれて悪いはずがない。日本人だって英語が話せることが日本人ではないと言われるような雰囲気は廃れてきたと思う。多くの日本人が特に外国に対して慎重でありはっきりした態度を示せないのは英語力もその一因に入っているというのが僕の意見である。

21世紀を背負う若者に世界で渡り合っていく為にも最低限の英語力を高校時代に身に着けて欲しいのである。勿論誰もが組織のトップになったり外国と仕事をするということではないが、それでも英語を知ることを通じて日本人の存在を直接間接に伝えて欲しいのである。日本という国と日本人のアイデンティティを示して欲しいのである。そう意味からも英語を知ることは積極的人間を作ることになると僕は信じているのである。日本を日本人を知らしめるのである。

たった1週間程度の海外修学旅行で英語が上手くなるのか、たかが3週間程度の海外語学研修で英語が理解できるのかと言う人々は物事を真正面に考えず、はすかいに構えて口から先に批判ばかりする品の無い人間である。そういう人間は死んだ方が日本のためである。やらないよりやった方が良いのは当たり前である。それだけの効果はあるのである。

僕がこの学校の校長である限り海外修学旅行とこの語学研修は止めない。今後とも完成度を高めて行きたい。本校の売りの一つにしていきたいと考えているのである。大体修学旅行が学年の行事などととぼけたピント外れのことを言ってるから学校の行事は駄目なのである。教員は「単なる行事消化型人間」だと言われるようなことではいけない。学校行事をもっと大きく捉えて教育の大きな柱と考えねばならない。学校行事に学年行事などありえない。すべては学校、学校長行事なのである。それを成功に導くために教員は持ち場で力を発揮することが教師の仕事なのである。このことが分からないようでは教員を早く辞めたほうが学校のためである。

しかし語学研修と言っても実は大変なのである。今回の費用は生徒一人当たり312000円かかっている。全額保護者負担である。しかし考えてみるとこれは高くはないと思っている。往復の航空運賃と17日間に亘って朝、昼、夕の食事付きで寝具が容易されているのである。家庭には日本語のしゃべれる人間はおらず英語しか理解できないニュージーランドの家庭に単身乗り込むのである。生きていくためにはブロークンでも何でも英語を使わねば成らないのである。

31万円から航空機代を差っ引き、お世話になる中学校の校舎を借用する為に幾許かのかの寄付金を出し、二人の英語教師へのお礼と旅行エージェントの取り分、現地語学研修アレンジNPO法人の経費を引けばホームステイ先に渡せるものは一日4000円くらいではないか。それで3食付だから頭の下がる話だと僕は思うのである。ボランティア精神が無ければやってられないのではないか。このような精神構造は日本人には特に少ないと断定して良いと僕は思っている。これも英語が苦手から来る非積極的外交感覚なのである。残念なことである。平均的に日本人が英語と言う言語を真正面に捉えたらこの現象は変化してくるというのが僕の意見である。